昨晩は立川志らくの落語を楽しんだ、素晴らしい話芸であり心から笑った
昨日は雪が降った。三野公園を過ぎると、気温が何度か低くなる。私の住む地域も相当に寒い。雪が積もったのは、今年初めてではないだろうか。交通混マヒにならず、一安心している。
そんな中で「伊豆はすでに桜の季節。熱海桜は満開。伊東小室桜も開花宣言」との記事に接したり、昨日届いた親しくさせていただいている方の「写真ニュース」には、「半田山公園に福寿草が美しく咲いている」とあり、行ってみたいと心が躍った。ある方のブログには、「桜を植えた」とアップもあり、春がそこまで来ていることを感じる。今、ワクワクする自分がいる。
さて、昨晩は立川志らくの落語を楽しんだ。師匠の立川談志が「才能なら噺家の中で一番」と言ったとかいう逸材だ。
昨年末のクリスマスには、立川志の輔の落語を聞いた。そして昨日は立川志らくの落語だ。とても素晴らしい落語で、時間があっと言い間に過ぎていった感じで、とても短く感じた。もう少し聞いていた、そう思わせる芸だ。そして心から笑った。心地よい時間だった。
それにしても、立川談志の一門では、立川志の輔、立川談春、そして志らくと、素晴らしい落語家が育っている。やはり談志が非凡なのであろう。
志らくは、その著書『立川流鎖国論』(悟桐書院刊)で、次のように書いている。「なるほど」と納得する。
「談志が死んだあとは、立川流は崩壊するであろう。志の輔兄さんがトップになればだれからも文句は出ないだろうが、談志の弟子はみなアウトロー的な落語家ばかりだ。そのアウトロー精神は談志イズムによるもので、この精神がしみこんでいたから、寄席がなかろうが、昔の落語ファンから罵声をあびせられようが、この生き方が正しいと思い込んで生きてこられた。このアウトローたちは談志を信じて集まっていたのであるから、この教祖がいなくなったらまとまっていられるはずがない。即解散となるのではないか。談志は『それもなりゆき、人生なりゆき』と言うだろう」。
このところ岡山でも落語を聞く機会がたくさん増えてきたが、漫才を聞く機会は「吉本の催し」しかない。芸としての落語と同じように、「芸としての漫才」を聞きたいと思うのだが。何がその障害なのだろうか。