厚生労働省が高齢者の「痴呆」の呼称を変更する方針とのこと。「蔑視的なニュアンスが感じ取られる」ことが理由だそうだ。
しかし、果たしてそうであろうか?「呆け老人をかかえる家族の会」なる全国組織もあるが、敢えて「呆け老人」という言葉を継続して使用しているという事実もある。
そもそも「痴呆」とは「客観的状態を表す」言葉である。客観的な状態を表す表現であっても、そこにはどうしても価値判断が派生し、相対的に上下を観念する向きが生じる。それを意図的に用いれば、そしてそれが蔓延すれば、「蔑視的なニュアンス」といえるのかもしれないが、「痴呆」の場合がそうであるとは思えない。
米国にもPC( politically correct )運動があり、政治的に正しい(差別的、蔑視的表現を使わない)言葉遣いをしようとするものがあるが、今回のケースも同根であろう。「差別意識を持たないように」という運動であれば、もちろん大賛成であるが、それが行き過ぎるといわゆる「言葉狩り」に変質してしまう。「てんかん事件」で断筆宣言をした作家筒井康隆のようなケースも次々に出てこよう。
言葉は文化である。言霊が宿っているのである。徒に言葉を抹殺し、日本文化を薄弱なものにしていく愚は避けるべきではなかろうか?
しかし、果たしてそうであろうか?「呆け老人をかかえる家族の会」なる全国組織もあるが、敢えて「呆け老人」という言葉を継続して使用しているという事実もある。
そもそも「痴呆」とは「客観的状態を表す」言葉である。客観的な状態を表す表現であっても、そこにはどうしても価値判断が派生し、相対的に上下を観念する向きが生じる。それを意図的に用いれば、そしてそれが蔓延すれば、「蔑視的なニュアンス」といえるのかもしれないが、「痴呆」の場合がそうであるとは思えない。
米国にもPC( politically correct )運動があり、政治的に正しい(差別的、蔑視的表現を使わない)言葉遣いをしようとするものがあるが、今回のケースも同根であろう。「差別意識を持たないように」という運動であれば、もちろん大賛成であるが、それが行き過ぎるといわゆる「言葉狩り」に変質してしまう。「てんかん事件」で断筆宣言をした作家筒井康隆のようなケースも次々に出てこよう。
言葉は文化である。言霊が宿っているのである。徒に言葉を抹殺し、日本文化を薄弱なものにしていく愚は避けるべきではなかろうか?