ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエル、2つの深刻な戦争という事態が解決いない中で、「パリ・オリンピック」が開催されます。
古代ギリシャのリンピックでは、オリンピックの期間中は戦争を中止するという取り決め があったとのことです。
普通の人間の常識で考えれば、それなら戦争なんかしないで、オリンピックで競争すればいいと考えるのではないでしょうか。
古代オリンピックはもう2000年以上も前のことですが、今21世紀の世界では、古代ギリシャのオリンピックが近代オリンピックとして復活し、4年に一度世界人類が楽しんでいるのです。
人類の文化が順調に進歩していれば、世界中が楽しむオリンピックは復活しても、同じ人間同士が殺しあう戦争などはとっくになくなっているはずだと考えて当然でしょう。
ところが2000年以上たった21世紀でも、人類はまだ戦争をしているのです。
しかもオリンピックをやっている最中ぐらい戦争をやめて、オリンピックに集中しようと考えた古代ギリシャの知恵も失われ、オリンピック中も戦争を続けようという事のようです。
この現実に関する限り人類の文化は2000年以上たっても、まったく進歩しないばかりか、退歩、劣化しているのです。
何年か前の文化の日に「争いの文化」と「競いの文化」について書きました。その後も折に触れて取り上げていますが、現生人類はその発生以来、この2つの文化(本能)を持っているようです。
しかし生物として異常に発達した脳を持つ現生人類は、その脳の活用によって「相手を倒して優位を保つ争いの文化」を否定し「互いに競って高めあう競いの文化」に則った行動をすることは十分可能なはずです。
現に社会のほとんどの分野では「競いの文化」が常識で、争いの文化が残っているのは国と国との関係に限られてきているようです。
自らを正しいとして人を殺すことは一般社会では犯罪です。それが許されるのは国と国との関係においてだけではないでしょうか。
しかも通常の国際関係の中ではそれは許されないでしょうし、一般の人々も許されるとは考えないのではないでしょうか。
ただ偶々「独裁者」に率いられた国が独裁者の意向に忠実に「争いの文化」に従って行動しているというのが現状でしょう。
問題は絞られているのです。まずは世界の国が、独裁者をリーダーにしないこと、また独裁者を作らないことに、人類の総意として取り組むことでしょう。
担当する人類事務局は、差し当たって国連でしょうか。