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住まいは人権! 一般社団法人協働舎
暮らしを高めるのは福祉制度の充実。
福祉制度の充実には私たち一人ひとりの声

今日は鹿児島へ日帰りです。

2012-09-18 | まいにち

 さてさて、土曜・日曜の 東京は 5年に一度という 牛島神社の祭りでした。

 向島地区だけではなく、浅草や両国…ずいぶんと広い地域から神輿が次から次へと続きます。 そして路地路地には地域の神輿が待っています…。

 

 こんなにたくさんあるのですから表現方法などもっと地区によって違ってもよさそうですが、全くと言っていいほど同じです。

 違ったものは排除するというこの悪しき風習に乗っているのかもしれません。創造性がほしいなあ、まあこれを伝統という人もいるか…

 そしてさりげなく 自民党の国会議員が神輿ごとにあいさつをします。決して先だっての議会では消費税のアップのために努力しました…なんてことは言わないでしょう…。(私は個人的には消費税そのものには反対していません)

 

そして今日は朝から鹿児島へ日帰りで行ってきました。往復の電車では宮本太郎さんの 『生活保障』を読み直しました。

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)
宮本 太郎
岩波書店

この本の紹介は、次のようなブログでありました

宮本太郎『生活保障』-ちょっと難しすぎるという人のために

宮本太郎『生活保障』(2009年岩波新書)を読む。この記事ではこの本の内容のまとめではなく、宮本太郎氏の著作への入門となるような、宮本氏の過去の発言の抜粋をしたいと思います。

宮本太郎氏の著作は、前著である『福祉政治』(2008年)という本がよかったので、今回の新書も読んでみたのだが、この『生活保障』という本は、特に前半部分、内容が前著と重なっている部分が多い。

それでも内容は盛り沢山で、私には新書という小さなお弁当箱に、多すぎるメニューをぎゅうぎゅう詰め込んでいる感じがした。

それでも現状認識としては、著者の考え方がとても有効だと思うので、多くの人に読んでもらいたいと思う。

私の経験では、先に前著の『福祉政治』を読んでからの方が、宮本太郎氏の考え方が理解しやすくなると思う。以前『福祉政治』を読んで、私は目からウロコが何枚も落ちた。

日本は戦後、「雇用」を保証するという形で、うまく経済を回してきた。日本ではそれが「福祉」の代わりをしてきたのだが、最近うまくいかなくなってきた。なぜうまくいかなくなってきたのか。その現状を歴史を踏まえて描写する。

スウェーデンは福祉国家で有名だけど、イメージとちがって実は「中小企業にきびしい」国で、生産性の高い分野に人員を集めて、効率の悪い中小企業は見捨てる、という方法を取っていた。だから単純に「弱者に優しい」国というわけではなく、それは国家としての戦略的なもの。

だからスウェーデンを理想化する必要もないし、おとしめる必要もない。
同じように過去の日本を理想化する必要もないし、おとしめる必要もない。

もちろん日本にもいろいろと問題があって、それが今どんどん顕在化してきている。一方、過去の日本がやっていた「雇用」と「福祉」をうまく連動させるという方法も、ひとつの有効な考え方なのだから、なにも全否定する必要はなく、そこから現状に合ったプランを立てていくヒントを得ることが出来る。

『福祉政治』という本には、おおむねこのようなスタンスが感じられ、考え方が極端にならない人で、この方は信頼できるな、と私は思った。

また、『福祉政治』の後半部に「ライフポリティクス」という章があり、現代では、福祉や生活保障を考えるときに「再分配の政治」だけではなく、ライフスタイルの政治というもの、「承認の政治」というものも視野に入れておかなくてはいけない、という旨が明確に述べられていた。それを読んだ時私は、そこまで目が届いている人ならば、信頼してもよいのかな、と思った。

ここでは宮本氏の過去の発言から少し長めに抜き出しておきたい。
口語体だから、岩波新書の文章より、だいぶ読みやすいと思う。

これで、宮本氏の基本的な考え方がなんとなくわかって頂けたらいいな、と思う。
以下引用するのは、岩波ブックレットの『脱「貧困」への政治』(2009年)でパネルディスカッションで宮本太郎氏が発言したところです。

宮本氏の著作をこれから読もうかな、と思っている人、また、『生活保障』を読んでみたけど、情報量が多すぎてちょっと頭が混乱した、という私のような方がいたら、その方も頭の中の整理として、どうぞ参考にしてくださいますよう。

これまでの日本の福祉・雇用のしくみ、宮本太郎氏のベーシック・インカムに対するスタンスなど(以下、岩波ブックレット『脱「貧困」への政治』より引用)

<宮本太郎> 日本型トリクルダウンのシステムが壊れてしまったということもあるのですが、日本型の制度がまだ中途半端なかたちで生き残っていて、むしろ周辺の人々を排除しているという面もあります。社会保障が排除の機能をもつ、ということです。経済学者の大沢真理さんの言い方を借りれば、「逆機能」になっている。

どういうことか説明します。日本型の仕組みを私流に言い表すと次のようになります。まず、お父さんが大企業で働いていても、土建業のような中小企業で働いていても、その会社がつぶれないような仕組みがあった。つまり護送船団方式の行政指導とか公共事業などです。こうして、お父さんの所得が保障される。お母さんは家で家事と育児にがんばる。社会保障は、会社がもう面倒を見てくれなくなり家族も頼りきれなくなった、人生の後半部分の年金や遺族関係といったところに集中する。そういう仕組みだった。

ご存じのように日本ではおよそ三分の一が非正規の労働者ですが、もっと非正規が多い国は存在します。オーストラリアやオランダなど。でも、正規・非正規の格差がここまで顕著なところはない。なぜならば、現在の非正規の労働条件は、もともとはお父さんの収入を補完するパートの主婦や学生のアルバイトを想定して出来てきたからです。男性稼ぎ主が稼ぐのが基本だった。

ところが、申し上げたように社会保障が人生後半に集中しているから、住宅や教育、現役世代を支える保障が十分にない。だからその分、お母さんが家で家事や育児でがんばりつつもパートに出なければならなかった。けれども、税制あるいは年金制度、社会保険制度等からして、お母さんは稼ぎすぎてもだめだった。夫の扶養からはずされてしまうという「103万円の壁」、「130万円の壁」があった。だから日本では男性稼ぎ主を補完する低賃金の非正規の労働市場ができました。

ところが、いまそのパートの労働市場が、家計を支える人たちの仕事に動員されてきているわけです。したがって非正規層の経済基盤は不安定で脆弱です。ところが、健康保険や雇用保険は従来の男性稼ぎ主を基準にしているから、ハードルが高くて、加入できない。切羽詰まったときに、現役世代を支える仕組みは、先ほど申しあげたように社会保障、公共サービスとも非常に貧困である。二重三重の排除構造です。

では、どうするか。さっき湯浅さんが講演の中でお示しになったセーフティネットの三層構造、これは雇用が安定している男性稼ぎ主の所得が何らかの事情で中断したときに、それを社会保障で代替する、という制度です。ところがこれが現実と完全にずれてしまった。

であるからこそ、雇用をよりしっかりしたものにしようと言っていくことも必要ですが、他方ではセーフティーネットのあり方そのものを変えていかなければいけない。安定した雇用を前提にした代替型から、十分でない賃金を様々なかたちで補完していく補完型への転換です。ベーシックインカムとまではいかなくても、給付付き税額控除とか負の所得税とか社会手当とか、いろいろ方法はあると思います。また社会保険の再設計も必要です。

ライフ・ポリティクス、承認の政治、「生きる場」を支える政府(以下、岩波ブックレットの『脱「貧困」への政治』より引用)

<宮本太郎> 私は「溜め」の問題を「生きる場」の解体の問題としてとらえています。2008年の大きな事件であった秋葉原の殺傷事件では、容疑者がいかに「生きる場」を失っていたかが明らかでした。だれかに認められたい、あるいは誰かに支えられたい、にもかかわらず、そういう環境を一切合財、失っていた。

貧困はもちろん問題ですが、職場でも家庭でも「生きる場」があれば当面なんとかなる。ところが、ここが解体してしまうとどうしようもない。この点でひとつ申し上げておきたいのは、新自由主義が揺らいだだけに、今度は新保守主義というか、これからは市場ではなくてコミュニティだ、家族だという議論が出てきそうな気がしています。親父が家族をしっかりと支えて、皆が愛国心をもてばうまくいくのだと、そんな調子の議論がこれからも増えそうです。

私はそれでは「生きる場」は守れないし、そんな単純な議論は保守主義の何も値しないように思います。コミュニティとか家族がいかに崩れやすいか、壊れやすいかということを分かったうえで、保守であってほしい。そこの理解がないと結局は「生きる場」が解体していくのを放置することになります。

さっき「惰性としての新自由主義」でも「焼け太り型利益誘導」でもなく、「よい政府」をと言いましたけれども、そのひとつの物差しとして、「溜め」を増やしていく政府、「生きる場」を支える政府というのがあると思います。

///以上、岩波ブックレット『脱「貧困」への政治』(2009年)より引用でした。///

関連記事:子どもが泣き止まない-ハローワークにて 2009年12月08日
関連記事:宮本太郎氏の「官僚主導の三重構造」-原口一博氏ツイッターより 2010年01月13日
(→宮本太郎氏の『福祉政治』と『生活保障』からの引用が少しあります。)

駅前では33度とのことでしたが、さわやかでした。33度を示すデジタル表示を携帯電話で撮ろうとしましたが移りません。表示速度が合わないんでしょうか。

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東京の夜は…寿司を食べました。

2012-09-17 | まいにち

15日の午後と、16日の午後に 墨田区で研修があったので参加してきました。

連続講座…いうて 午後・午後いうのんも 面白いやろ。

安い、昔でいうたら ユースホステルのような宿に泊まって カオサン東京ゲストハウス サムライ店の施設写真  まあ、一泊3500円やったさかい。(お金を出してくれるところがなかったさかいなあ、安ないとアカンかったんや)

マリアと二人で浅草寺(漫画)

東京にいる長男と 浅草で会いました。 まあ、30分・40分かけて 会いに来てくれたんやさかい…というわけでもないんやけど、寿司清で寿司を食べたんや。やっぱり回転すしとはちゃうわ。

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DVだったん…

2012-09-17 | 読書
選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ (講談社現代新書)
信田 さよ子
講談社

新幹線の車中で 信田さよ子さんの『選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ』を読み直しました。

どこで買う鷹は忘れたけんど、2010年7月16日いう、彼女のサインがあるからなんか研修会の時に買うたんやなあ、きっと。 この人の歯切れのいい話が好きで、ちょこちょこ 聴きに行ってたさかい。いっつも 本こうて、買うて…ていうてはるし。

前回読んだときは 何とも思わんと読んだんやけど、今回はちょっと気になるとこがありましてん。

僕は 気に入らんと ぶすっと 無口になることが(しばしば)あるんやけど、彼女は

それはDVだと 書いてはります。

選ばれる男…にはほど遠いけど、持ってる彼女の本、もういっぺん読み直しますわ。

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大きな壁が崩れる…中川五郎 We shall Overcomを歌う

2012-09-17 | まいにち

Dig Music Gazette11 「We Shall Overcome 大きな壁が崩れる」 中川五郎

今、やっと気づいたんやけど 歌の時には もし聞こえない人が見てくれたら、なんもわからへんなあ…と 思って 中川さんのブログからちょっと拝借…。

 

大きな壁が崩れる

 

photo

「We Shall Overcome」という歌とぼくが初めて出会ったのは、ぼくがアメリカのフォーク・ソングに夢中になり始めた中学生の終り頃だったから、恐らく1963年か64年のことだったと思う。キングストン・トリオやブラザース・フォア、ピーター・ポール&マリー、そしてジョーン・バエズといったグループや歌手が人気を集め、日本でもフォークが大きく広がり始めた頃、「勝利を我等に」という邦題が付けられた「We Shall Overcome」は、「花はどこへ行った/Where Have All The Flowers Gone」、「500マイル/500 Miles」、「風に吹かれて/Blowin’ In The Wind」、「我が祖国/This Land Is Your Land」、「ドンナ・ドンナ/Donna Donna」、「天使のハンマー/If I Had A Hannmer」などと並んで、アメリカのモダン・フォークの代表曲のひとつとなっていた。
 しかしぼくが「We Shall Overcome」という歌の真髄に触れ、心を鷲掴みされたのは、ピート・シーガーが歌うこの歌を聞いた時だった。すでにピートは1963年に発表したライブ・アルバム『The Bitter And The Sweet』で「We Shall Overcome」を歌っていたが、ぼくが衝撃を受けたのはその翌年、1964年に発表されたライブ・アルバム『We Shall Overcome Recorded Live at His Historical Carnegie Hall Concert June 8,1963』の最後でピートが歌っている「We Shall Overcome」だった。

 ピート・シーガーのカーネギー・ホール・コンサートが行われた1963年の夏といえば、アメリカの黒人たちが人種差別の解消と公民権とを求めて激しく闘っていた時代で(アメリカの公民権法は1964年7月2日に制定された)、公民権運動の中でさかんに歌われ、運動のテーマ・ソングとなっていた「We Shall Overcome」をピートは、コンサートに参加した公民権運動の活動家たち、そしてカーネギー・ホールを埋め尽くした聴衆たちと共に熱く、力強くシング・アウトしていた(聴衆はきっと白人が多かったことと思う)。
 ぼくはこの「We Shall Overcome」を聴いて、歌の力のすごさというものを痛いほど思い知り、ここを出発点として自分も真剣にフォークを歌いたいと決意するようになった。だから「We Shall Overcome」こそが、ぼくのフォークの原点だと言っても、決して過言ではないのだ。

 それから数年後、高校生のぼくは人前で歌い始めるようになり、1960年代後半、さまざまなフォーク集会、ベトナム戦争の反戦集会やデモ、あるいはフォーク・ゲリラ、はたまた大学闘争の中で、必ずといっていいほどみんなで「We Shall Overcome」を歌うようになった。
 しかしその「We Shall Overcome」は、英語のままで歌われたり、よく歌われていた日本語の歌詞にしてもぼくには何だかぴったり来ないものだったりして、大声で歌っていてもピート・シーガーの歌を聞いた時に感じた大きな「歌の力」をその歌の中に見つけ出すことはなかなか難しかった。
 そして時代の移り変わりと共に「We Shall Overcome」は、日本ではめったに歌われることがなくなり、たまに歌われるとしても1960年代の懐かしい歌、あるいは運動とは切り離された単に美しいメロディの歌としてしか歌われなくなってしまったようにぼくは思える。

「今度のライブ、みんなで一緒に歌える歌は何かないかしら? 『We Shall Overcome』を新しい日本語で歌えたりしたらいいけど」と、ぼくに声をかけてくださったのは、東京都清瀬市でギャラリー・カフェ・バー「ナルドの壷」をやられている池田いづみさんだった。
「ナルドの壷」では、2011年10月に初めてライブをやらせてもらい、今年の6月30日に二度目のライブをやらせてもらうことになっていた。その四、五日ほどまえに「一緒に歌える歌は何かないか? 『We Shall Overcome』の新しい日本語歌詞はどうか」と、池田さんに言われたのだ。
 池田さんから連絡があった日の三日ほど前の6月22日の金曜日の夜、ぼくは毎週金曜日に行なわれている首都圏反原発連合が呼びかける首相官邸前での大飯原発再稼働反対行動に初めて参加した。そしてほんとうにたくさんの人たちと一緒に「再稼働反対」のシュプレヒコールをあげながらも、ただひとつの言葉を連呼するだけではなく、こうした動きの中でみんなで一緒に歌える歌があればいいのにと痛感していた。新しい「We Shall Overcome」の必要性も、その時ぼくの頭をよぎっていた。
 だから池田さんの提案にぼくは「できるかどうかわからないけどやってみます」とふたつ返事で答え、何日かかけて「We Shall Overcome」の新しい日本語詞を考えてみた。そしてライブの前々日の6月28日に全部で5番の歌詞からなる「We Shall Overcome」の新しい日本語の歌詞を何とか作り上げることができた。

「We Shall Overcome」の新しい日本語詞を作るにあたって、ぼくはあることを自分自身に課した。それはこれまでの日本語詞で必ず使われる、We=我ら、Overcome=勝利、Someday=いつの日か、を禁句にして作ろうということだった。Weが主語になったり、Somedayが強調されたりすると、かえってこの曲の歌の力が弱まり、何だか曖昧で漠然としたものになるようにぼくには思えたからだ。
 それに「勝利の日まで闘い抜くぞ」と歌っていたかつての日本語詞は、歌いながらも勝利という言葉がちょっと上滑りしているというか、かたちだけになっているような感覚をいつも抱いていた。だから勝利という言葉はできれば避けたかったのだが、結果的には一か所だけでどうしても使わざるを得なかった。
 ぼくはWe Shall Overcome、すなわちわたしたちは打ち勝つ、というこのフレーズを、自分たちは大きなものを乗り越えて打ち勝つと解釈し、「大きな壁が崩れる」という日本語を当てはめることにした。そして出だしの「We Shall Overcome」を「大きな壁も/ぶつかり崩す」と歌ってみることにした。
 そして最後の5番だけは完全にぼくの創作にして、「大事なものは/必要なものは/もう一度考えてみよう/おお、便利な暮らしか/緑の自然か/100年後に生きる子どもたち」というオリジナルの歌詞を作った。
 最後の一行はひとたび原発事故が起こったりした時の影響は100年後どころか、千年、万年にも及ぶので、100年はあまりにも短すぎる気がしたが、あまり先だとリアリティがないようにも思え、自分の孫や曾孫の二世代、三世代後の子供たちということなら、すごくよくわかるのではないかと思って、最終的には100年後にすることにした。

 そして作ったばかりの新しい日本語詞をコピーしたものをみんなに配って、6月30日の「ナルドの壷」のライブで「We Shall Overcome」を歌ってみたのだが、みんな一緒には歌ってくれたものの、ほとんど反応がなくて、「うーん、これはちょっとよくなかったかな」とがっくりきてしまった。
 ぼくの作る歌詞の常で、ちょっと字余りの度合いが強すぎるのか、みんなで一緒に歌うには難しいのだろうか。とにかく再検討の余地はある。みんなの意見を聞き、言葉も変えて、もっと歌いやすくして、歌い込んでいけば、反原発、脱原発の高まる動きの中で、みんなで歌える歌になるかもしれないではないか。

 それからぼくは8日間の北海道ツアーに出かけ、「ナルドの壷」でのライブから二週間後の7月13日の金曜日にも首相官邸前、国会前での原発再稼働反対抗議行動があった。二週間の間に大飯原発3号機は7月5日に再稼働してしまい、シュプレヒコールは再稼働反対から再稼働撤回に変わっていた。もしかしてみんなで歌える機会があるといいなと、ぼくはこの日は、ギターと「We Shall Overcome」の新しい日本語詞のコピー100枚ほどを持って、行動に参加した。
 二週間前に比べて規制はうんと厳しくなり、抗議行動ができる歩道はいくつものブロックに分断され、いったん進めば引き返すことができず、とにかく身動きのとれない状況で、もちろん車道に出ることはできない。指示されるまま進んで行くと、国会前の第二ステージと呼ばれている場所の近くまで行くことができた。
 再稼働撤回のシュプレヒコールが一段落した時、「誰かスピーチをしたい方はいますか?」というスタッフからの呼びかけがあったので、ぼくは植え込みの後ろを抜けていちばん前まで行き、「歌を歌いたいんですが、いいですか?」と聞いてみた。対応してくれたスタッフから「一番だけならいいです」、「盛り上がらなかったらやめてもらいます」、「歌詞を配るのはだめです」と言われ、それでも新しい日本語詞の「We Shall Overcome」を歌い始めると、「もうちょっと歌ってもいいですよ」と4番まで歌わせてくれた。しかも嬉しいことに歌詞のコピーを配ることもOKになり、すぐにまた全部の歌詞を歌うことができた。
 前にいた人たちだけだったが、歌詞を見て大きな声で一緒に歌ってくれる人たちもたくさんいて、手応えがしっかりとあり、歌っているうちにぼくはどんどん熱くなっていってしまった。スタッフもマイクをずっと持って助けてくれ、とても心強く、ありがたかった。

 7月後半は自分のライブがほとんど連日のように続き、ぼくはその中で新しい日本語詞の「We Shall Overcome」をみんなと一緒に歌い続けている。歌うたびにこの歌がどんどん成長して行くというか、確かなものになって行く実感をぼくは味わっている。
 もっと歌いやすく、歌詞も推敲して、「大きな壁もぶつかり崩す」、「大きな壁が崩れる」と歌われる新しい日本語詞の「We Shall Overcome」が、じっとしていられずに立ち上がったみんなの中に広がっていくことをぼくは強く願っている。
 もちろん広がっていく中で、歌詞はみんなが歌いやすいように、みんなが歌いたいようにどんどん変わっていけばいい。そもそも「We Shall Overcome」という歌自体、20世紀の初めにフィラデルフィアの牧師でゴスペルの作者でもあった人物が書いた「Overcome」という言葉が使われた歌が、何度か変化し、発展して、1946年にサウス・カロライナのタバコ会社のストライキの中で黒人の女性たちが士気を高めるために歌う讃美歌「We Will Overcome」となり、その後テキサスの労働者教育センターの白人女性のジルフィア・ホートンが歌い継いで、それを教わったピート・シーガーがガイ・キャラワンやフランク・ハミルトンと共に手を加えて行き、今の「We Shall Overcome」となったのだ(だから作者のクレジットはこの4人となっているが、この歌の使用料や収入のすべては、非営利的法人「We Shall Overcome基金」に行き、そこからは毎年アメリカ南部でアフロ・アメリカ音楽を促進するための助成金が供出されている)。
 言葉を変えながら新しい日本語詞の「We Shall Overcome」があちこちで歌われて広まって行き、やがては誰が作ったのかわからないまま、みんなの心をひとつにして、行動を支える歌となれば、それほど素晴らしいことはない。それは確実に大きな壁を崩すことに繋がる。そんな夢のようなことをぼくは考えてしまっている。



2012年7月13日国会前で歌っている新しい日本語詞の「We Shall Overcome」の映像
https://www.youtube.com/watch?v=QXsTaeHaDQk&feature=player_embedded#!

 

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