囲碁きちの独り言 Ⅱ

趣味の旅行、うたごえ、囲碁の事や日常の出来事を記録する。

第3回 多喜二祭 IN 所沢 を観る

2013-02-19 11:50:52 | 囲碁きちのつぶやき
「蟹工船」などを書いたプロテタリア作家 小林多喜二 が特高警察に虐殺されたのは1933年(昭和8年)2月20日でした。治安維持法違反容疑で正午過ぎに逮捕され、築地警察署に連行された後、拷問により、その日の夜、絶命しました。

小林多喜二没後80年、生誕110年を記念した所沢で第3回 多喜二祭 が開かれました。



所沢市文化センターミューズには、沢山の資料が展示されてました。
その中には、多喜二が来ていたコートなどもありました。両側のコートの中央に飾られているのが、多喜二のデスマスクです。虐殺されたその夜に千田是也と佐土哲二が制作したそうです。



1929年 「蟹工船」「不在地主」を完成させましたが、働いていた北海道拓殖銀行を馘首され、上京しました。
プロレタリア作家同盟の活動をする傍ら、労働運動、反戦平和の運動にも加わり、その貴重な足跡なども紹介されていました。



代表作「蟹工船」の草稿の下書きも展示されていました。

改めて、多喜二の偉大さに感銘しました。

貧困と格差が広がる現代は、「蟹工船の時代と同じだ」と今でも「蟹工船」が多くの若者に読まれています。

この展示を観て、結局、「多喜二を虐殺した警察は誰も責任をとっていない」のに驚きました。あたかも、原発事故の責任を誰もとっていない現代と同じです。

また、平和憲法を変えて、戦争する国造りを目指す勢力が台頭しています。私たちが、黙っていたらいつ、「多喜二が虐殺された時代」に後戻りさせられるかもしれません。

「お上の言うことはごもっとも」と唯諾々で何でも従うのでなく、為政者がやることを厳しくチエックする必要があると思います。そんな気持ちを強くした多喜二祭でした。

なお、参考までにネットから小林多喜二のことを引用しました。


ペンを武器に戦い拷問死した作家
【 あの人の人生を知ろう~小林 多喜二 】

Takiji Kobayashi 1903.10.13-1933.2.20 (享年29才)
 

書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。

特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。
特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。

小林多喜二は1903年に東北の貧農の家に生まれた。親に楽をさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていた。音楽が好きな弟には、初月給の半分を使ってバイオリンを買ってあげた。

ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に全国で数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。
彼は日記に記す。
「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」

貧農出身の彼はもともと権力・抑圧者への反抗心を持っていたので、この3・15事件は多大な影響を与えた。保釈された友人たちから過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は事件を小説にし世間に国家の横暴を訴える決心をした。
彼はまた、権力と戦う人物を欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。

「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」(自伝)

完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。

翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。
登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。

しかし天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。
多喜二は腹をくくった。
ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。

そして運命の1933年2月20日。
非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲の人間が正義感から彼を取り押さえたという。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。
…まだ29歳の若さだった。
※3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。

彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。
「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。
下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。
しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」

 
  変わり果てた多喜二の亡骸を悼む友人たち(北海道新聞)

警察が発表した死因は心臓麻痺。母親は多喜二の身体に抱きすがった。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。
彼の死に対して文壇では志賀直哉だけが
“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”
と書き記した。
この国の文学界は沈黙を守ったのだ。どの作家も、自分に火の粉が降りかかることを恐れたためだ。


多喜二が小樽に自分で建てた墓

多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。僕は墓石の裏側を見て絶句した。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」。昭和5年(1930年)といえば、『蟹工船』発表の翌年だ。多喜二は『蟹工船』によって警察にマークされ、5月に初めて逮捕されている。そして、墓を建立した3週間後に再逮捕&起訴されており(『蟹工船』で不敬罪)、翌年1月まで約半年間、多数の思想犯が送られた豊多摩刑務所に収容されている。つまり、多喜二は当局による弾圧を日増しに実感するなか、保釈の隙をぬって自ら“小林家之墓”を建てたのだ。そこには「いま建てておかないと、ペンを握り続ければ死ぬかもしれない」という覚悟が込められているように見える。墓建立の3年後、多喜二は絶命した。

※多喜二の訃報を聞いた中国の作家・魯迅は次の弔電を寄せた--「我々は知っている、我々は忘れない、我々は固く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」。
※後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている--「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」


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