能率技師のメモ帳 経済産業大臣登録中小企業診断士・特定社会保険労務士の備忘録

マネジメント理論、経営理論を世のため人のために役立てるために

日本最初のビジネススクール 日本能率学校 日本最初の経営コンサルタント、能率技師上野陽一が創設

2013年03月02日 | 学問

第二次世界大戦、太平洋戦争に突入した1942年。その学校は生まれました。

「日本最初の経営コンサルタント」「能率技師」と呼ばれた上野陽一(1883~1957)が、私財を投げ打ち設立した日本能率学校。

当時の文部省の許認可を得ることはできず、まさに寺小屋的な位置づけからのスタートだったようです。


当時、国際経営学者としての名声もあった上野陽一。

単に、科学的管理法を中心とした欧米流のマネジメント理論を教えるというだけではなく、東洋思想や礼儀作法から生活態度までを教育する学校だったようです。

戦局の悪化により、学生は徴兵に取られ学校としての体をなさなくなるということになりますが、その志は引き継がれ、戦後の1950年、学校法人産業能率短期大学(現学校法人産業能率大学)という日本初の短期大学(夜間)というカタチで復活することになります。

上野陽一は、能率技師(経営コンサルタント)として個々の企業の経営指導、公的機関の業務改善、図書の刊行、能率についての講演活動等をする「売れっ子」コンサルタントでしたが、日本に近代的なマネジメント思想と方法論を浸透化させるというその志を実現させるために、自分自身の分身を作っていくことを考えたようです。

実務家でありながら教育家としての側面を持つ上野の特質が、この日本能率学校に結実したものだと考えます。

天然資源に恵まれない日本に、人的資源に「能率」をプラスすることにより、より良い日本を作っていく・・・そんな想いが上野やその思想に同調する同志によってカタチになっていくのです。

そのあたりを、わたしが書いた修士論文から抜粋させていただきます。

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 能率の日本国内への普及のため、上野が最終的にたどり着いたのが、学校教育である。社会人を中心とする能率教育の限界を感じ、若年層からの能率教育の必要性を感じていたのである。上野は、26歳で心理学通俗講話会での講演(19095月、長野県教育会で「実験心理学」を講演)を皮切りにして演壇に立った。33歳の時、早稲田大学広告研究会で広告心理学を講義、同年電通の広告研究会で毎月講演を実施している。教員としての活動は、36歳の時、早稲田大学商科において広告心理学の教壇に立ち、以降、40歳の時に日本大学講師、52歳の時には横浜専門学校(現神奈川大学)で科学的管理法概論、事務管理を講義、2年後に横浜専門学校講師となっている。さらに55歳の時に武蔵野写真学校校長に就任、翌年、再度横浜専門学校講師、早稲田大学講師、中央大学講師となっている。そして、60歳の時に戦時下で経営が厳しくなっていた立教学院の企画委員となり、立教大学教授、立教大学経済学部経営経済学科長に就任している。上野の生涯の中で、学生への高等教育は大きなウエイトを占めているのである。

 上野が、能率の普及にあたり、学校教育の重要性を認識したのは、社会人に対して能率教育を実施したこと、そして前述した大学において学生教育に従事したことの二つに起因していると考えられる。

 学生教育に対しては、日本において幼少期から詰込み型、画一的な教育が展開され、独創性、創造性の開発を阻害していること、そして大学を卒業し就職したとしても、その専門性が十分活かされていないことを主張している。一般的に法科や経済科を卒業し企業組織において事務職につきにしても、事務についての専門教育を何も施されていないことについての危惧を述べているのである。また、社会人になってからの教育の重要性も十分に認識していたのである。上野は、自らの教育観を具現化するために、産業能率専門学校設立を計画する。

 上野は、59歳となった1942年に私財を投げ打ち日本能率学校を創設する。戦時下局面にある厳しい状況である。日本産業能率研究所をベースとして創立された日本能率学校は、上野の思想たる能率道の具体化を図る場として設立されたのである。

 

 日本能率学校の学生募集広告によると、その内容は次のとおりである。

1.所在・・・東京都世田谷区玉川等々力町3-312

2.開校・・・昭和17417

3.修業年限・・・本科2年 専攻科1

4.入学資格・・・中等学校卒業者

5.入学試験・・・学力および性格についての試験

6.募集人員・・・17年度本科1年 100

7.寄宿舎・・・校長は生徒と寝食を共にする

 

同募集広告の中での解説には、「軍モ官モ民モマタ家庭モ工場モ国モ アゲテ 能率ノ 必要ガ サケバレテ イル トキニアタリ 能率方法実施担当者ノ養成ハ 目下 急務中ノ急務デアリマス。(中略)午後ハ 全部研究実習ニアテテ 実際ニ 役ニ タツ指導的 人物ヲ 養成スル コト ヲ 目的ト シマス。」とある。付属実習工場として目黒区下目黒6-1531と板橋区板橋3丁目505の住所が、そして付属施設として能率道場と日本産業能率研究所が記されている。

 また、同校の入学試験は、「学力および性格についての試験」としているが、その内容はユニークなものであった。①イロハウタをひらがなで書け、②イロハウタを漢字カナマジリ文で書け、③イロハウタの意味を書け、④五十音図を書け、⑤五十音図をローマ字で書け、⑥自転車の略図を書け、⑦漢字にふりがなをつけよ、⑧能率学校入学の動機を書け、⑨筆の持ち方を知っているか、⑩百科事典の中から目的となる題目をさがせ、といった試験内容であった。心理学者である上野の出題意図が垣間見られる。

 日本能率学校のカリキュラムも独自性を有していた。

 日本能率学校カリキュラムは、テーラーの科学的管理法を習得するためのステップを前提に編成されていたものと考えられる。工学概論と能率概論を土台として、作業管理、工程管理、工具管理、工業簿記、事務管理、工場組織、賃金論、工場建築といった生産管理分野を中心として編成されている。さらに、戦時下にも関わらず英書講読の時間が第一学年で4時間、第二学年で3時間となっている。最も独自性が見られるのが、実習時間である。学生募集広告の記述にあるよう午後の時間はすべて研究実習にあてられることが、このカリキュラムからも読み取れる。全39時間中15時間が実習にあてられているのである[1]

 

 しかしながら、学生募集は上野の期待を裏切った。募集定員100名に対し志願者は50名足らず、入学試験に合格したものは30名であった。日本能率学校の経営基盤を支えるには不十分だったのである。日本能率学校は、実習を重視し、学校で作った佃煮を生徒が近所で売り歩くといった形の実務的教育[2]を行っていた。しかし、そういった学生教育への世間の理解はまだ不十分だったし、戦争中ということもあり評価を得ることができなかったのである。このため1943年には社会人(工場労働者)向けの夜間6か月の能率講座を企画し定員を超える聴講生を集めたことは、日本能率学校の価値を認めていたということであり、将来の姿を暗示させた。だが、戦争は長期化、学生の徴兵、空襲の危険性等のため、同年本科は中断することとなった。

 

 日本能率学校の再開は、終戦後の1947年である。産業能率専門学校として学習募集が行われた。生徒募集案内の中に「目的」が記されている。「能率ノ原理ニ モトヅキ 合理化ノ質ヲ アゲルタメニ 産業ノ科学的管理法ニ 通ジタ 人材ヲ 養成スルコト」である。この時の就業年限は3年、本科生(生産科50名・事務科50名)、校外生(夜間・日曜日)若干名、聴講生若干名であった。 

そして、1950年、上野66歳の時、日本能率学校は産業能率短期大学に昇格した。初代の人事院人事官であった上野のポジションが少なからず後押ししたものと推測される。 

 上野の設立した日本能率学校は、学生教育と社会人教育を同時に行うデュアルスタンダードの学校であり、日本初のビジネススクールということが出来よう。戦前、戦後を通じ学生募集に苦労した上野は、中等教育卒業の学生と企業や団体に所属する社会人の双方を「学生」とすることにより、学校の経営基盤が安定化することを認識していたことも推察される。さらにそのことは、「能率」教育の全階層性、普遍性と相まって、ヒジネススクールとしての性格を濃くしていったのである。 

 1942年に上野によって創立された日本能率学校は、従来の商業学校や工業学校とは一線を隔する学際的が学校であった。管理、組織、事務などの実学を習得するための欧米型のビジネススクールに近い存在であった。能率というコンセプトを軸として、いわば心技体で体得していくという学習形態であった。 

 上野は、知識偏重、詰め込み型の教育を否定し、独創的・人間的な全人教育を目指したのである。ムリ・ムダ・ムラをなくす能率道を能率道場で極めつつ、科学的管理法をベースとする欧米のマネジメントのエッセンスを習得し、日本の産業界に貢献する人材を輩出することを志向したのである。上野の想い、構想を、第二次世界大戦中という非常時に実現させなければならなかったことは、大きな難問であった。教員、職員の充実、学生募集、施設の整備等を同時に行っていかなければならず、しかも資金確保のため、上野自身、能率についての指導、講演等で飛び回らなければならなかったのである。いわば、自身の想いを実現させるために私財を投げ打ち、自らの全てを賭して日本能率学校の創設に向かったのである。しかしながら、戦時という中、学生募集も思うように進まず、まだ、徴兵、勤労動員により学生が召集され、最終的に学生数がゼロとなる危機に陥ることになるのである。

 

 上野の苦悩は続くものの、昭和20年の終戦により、米国を中心とする連合国の管理下に入り、学校再開に向かうことになる。さらに、戦後初代の人事院人事官に就任することにより日本の公務員制度の構築、公務員の教育研修制度の確立に向けて動いていくことになる。人事院人事官の就任には、戦前の友人であった故ギルブレス夫妻のリリアン・ギルブレスのGHQに対する強い推薦があったと言われている。公職への就任は、その後、日本初の短期大学の一つとなる産業能率短期大学の認可に大きく影響していると言われている。

 

 昭和241015日付で文部省から認可がおりた学校法人産業能率短期大学は、他の148校とともに短期大学となる。学科は、能率科第二部(生産能率専攻・事務能率専攻)である。しかしながら、設備、資金、教員組織等により夜間部(Ⅱ部)だけの短大となる。この夜間部だけの設置ということが、社会人向けのビジネススクールとして後に開花することになるのである。

 設立当時のカリキュラムを見ると、現在のビジネススクールに近い科目構成となっている。

 

[1] 日本能率学校は、教室、寄宿舎、食堂、農場等で構成されていた。そこでの学生の生活は、朝6時太鼓(上野陽一記念文庫に「能率太鼓」として保存)を合図に起床、顔を洗った後仏壇のある二階で思い思いに30分間静座、その後日によっては上野陽一より仏教や禅の講話。それから道場の掃除をし、8時に一階の食堂に集まり唱え言葉を唱えて朝食。9時から講義を聴き、昼食後は講義、畑仕事または社外実習、5時半夕食、9時太鼓とともに就寝といったのが平均的な一日であった。「上野陽一記念文庫案内」 産能短期大学図書館 1996.7.5より 

[2] 「上野陽一記念文庫案内」12ページ 産能短期大学図書館 1996.7.5


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