能率技師のメモ帳 経済産業大臣登録中小企業診断士・特定社会保険労務士の備忘録

マネジメント理論、経営理論を世のため人のために役立てるために

日本橋室町一丁目 福島ビル・・・大学を卒業して入社した第一広告社が入っていた古~いビル・・・まだありました

2020年03月06日 | まち歩き

久々に日本橋室町に行って来ました。


三越本店、日銀、三井銀行、コレド室町など、三井グループの牙城です。
昔は、商人の街という雰囲気でしたが、今ではコレドを中心としたバリバリのビジネス街に変貌しています。


包丁で有名な木屋、ケーキのトップス、にんべんなどがありました。


日本橋室町一丁目 福島ビル・・・大学を卒業して入社した株式会社第一広告社が入っていた古~いビル・・・まだありました。

裏から見ると、こんな感じ・・・。

企画書が行き詰まると、屋上に珈琲を持って行きましたっけ・・・。


当時は、10階に上野精養軒、そして裏のカレースタンドでは精養軒のカレーライスを格安で食べることができました。

耐震工事もしているみたいで、入口もちょっと変(笑)。


株式会社第一広告社・・・読売新聞、日テレ、TBS、フジテレビ、テレ朝などが株主のメディア系の広告代理店。
略称、「一広(いちこう)」。
第一企画は「イチキ」、電通は「ツキジ」、旭通信社は「アサツー」でした。


一広は、ラテ(ラジオテレビ)、電波媒体の扱いが多い代理店。
上皇陛下と美智子様の結婚パレードを森永製菓をスポンサーにつけて全国に放送して大きく躍進しました。
クライアントは、花王、ライオン、資生堂、キユーピー、ブリヂストン、YKK、全日空、本田技研工業、マツダなど。
当時、500名の社員が働いていました。
ホイチョイプロダクションのマンガ「気まぐれコンセプト」の舞台、白クマ広告社のような、楽しい職場でした。


その後、飛ぶ鳥を落とす勢いだった西武セゾングループの広告代理店セゾンプロモーションネットワークと合併・・・メディアと流通を結びつけるという画期的なM&Aでした。
会社名は、I&S(アイアンドエス)に。


そして、アメリカ最大手のオムニコムグループの傘下に入り、現在は、I&S BBDOという会社になります。
現在は、晴海のトリトンスクエアの高層階に入居しているそうです。


BBDOは、ニューヨーク・マジソンアベニューにある名門アドエージェンシー。
学生時代、マジソン街に行って、街を行き交うコピーライターやデザイナー、AE(アカウントエグゼクティブ)、CD(クリエイティブディレクター)を見て、広告、マーケティングを一生の仕事にしたいと思いました。


入社1年目は、第3連絡局(サンレン)に配属・・・当時は営業の部署を「連絡局」と呼んでいました。
先輩の後について雑用係。
クライアントであるシオノギ製薬やワーナーブラザーズ、本田技研工業などの営業補助。
フジテレビ「ミュージックフェア(今でも続いています)」やテレビ東京「素敵なこの人(人に歴史あり)」も第一広告社の扱い。

当時、新宿曙橋にあったフジテレビにツカイッパで行っていました。
素材(コマーシャルフィルム)を銀座にあるローカルテレビ局に運んだり、銀座、赤坂、六本木での接待の場所取りをしたり、キー局の制作スタッフのために弁当を買いに行ったり、ニールセンやビデオリサーチの視聴率の分析表を作ったり・・・。


一番お世話になったのが、ワーナーブラザーズ映画会社宣伝部のTさん。
お元気ですかねえ。
大学の先輩でもあったので、毎日のように飲みに行っていました。


新作が来ると、一か月前から、日テレ、TBS、CX、テレ朝、TXで15秒のテレビスポットをバンバン流す・・・女子大生を10人アルバイトとして雇い、有楽町のピカデリー(ピカ1、ピカ2)、新宿ミラノ座、渋谷パンテオンで前売り券を販促するためにチラシと缶バッジを配ったり・・・。


当時は、土曜日が封切り・・・この日の興行成績でその映画が評価されていました。
映画業界は、結構アナログで、映画のことを「写真」、映画館のことを「小屋」と呼んでいました・・・「ケツかっちん」という言葉を覚えたのもココです・・・外資系の映画会社なのに・・・笑。


地下にあった試写室では、おすぎとピーコさんや淀川長治さんなどの映画評論家ともよくお会いしました。


当時のワーナーは、ロマンス系や恋愛モノなどの「写真」は少なく、ほとんどがドンパチもの・・・アクション系の映画でした。


前評判のあまり高くなかった「ターミネイター(もちろん「1」です)」が大ブレークしたり、「グーニーズ」や「グレムリン」などのキャンペーンも手伝いました。
スティービー・ワンダーの主題歌でヒットが期待された「ウーマン・イン・レッド」が意外と売れなかったり、日本ではあまり知られていなかったプリンスの「パープル・レイン」がオタク的にスマッシュヒットしたり・・・。
本当に懐かしい記憶です。


それが、合併という事件によって、人事局人事部へ異動。
青天の霹靂でしたが、そこから今の生業である人事労務や教育、経営という世界に入っていくことになります。


サラリーマン人生は、偶然や出会い頭の事件によって変わる、移ろい多きもの・・・本当に分からないものです。
経営学者ピーター・ドラッカー博士も言っています。
「最初の就職先は、バクチのようなものだ」と。


日本橋室町・・・蕎麦屋や天ぷら屋、とんかつ屋、鰻屋、牛タン屋などなど江戸のグルメの宝庫でした。

喫茶店ミカド・・・まだ、ありました。


喫茶店ミカド・・・。
新入社員の時、始業時間の一時間前に出社し、先輩の机を雑巾がけしていました(笑)。

体育会系です・・・笑。
9時30分には、先輩たちが出社・・・そして、ミカドに行って珈琲を一杯、打ち合わせ。
のんびりした時代でした。

ミカドは、今でも軽井沢に出店があると思います。


昼は、真ん前にある三越本店に行ってデパガのお姉さんにちょっかいを出したり、レストラン東洋でランチをとったり・・・。


新雑ラテの4媒体の時代だからこそ出来た広告代理店が輝ける日々、栄光の日々でした。
現在のようなインターネットマーケティングの時代では、とても考えられない世界です。

本当に古き良き時代でした・・・今では天下の電通さんも赤字となり大苦戦しているような時代。

未来のある若き才能を過労死させたり、今やブラック企業です。


青春の日々を思い出しながら、ゆっくりまったりできた日本橋室町でした。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« REOスピードワゴン「涙の... | トップ | ランチタイム、リバーサイド... »
最新の画像もっと見る