16日(火)。14日(日)からTBS系列で連続ドラマ「さよならマエストロ ~ 父と私のアパッシオナート」(日曜夜9時)が始まりました 残念ながら娘にチャンネル権を奪われて観られませんでしたが、面白そうですね 15日の朝日朝刊のラテ欄のコラム「フォーカスオン」によると、「天才指揮者の夏目俊平(西島秀俊)が、ある事件をきっかけに別れた娘・響(芦田愛菜)と親子の絆を取り戻していくヒューマンドラマ」とのことです 第1話では、「俊平は財政上の問題で存続の危機に瀕した地方オケから指揮者就任を頼まれる 日本のオケは都市部に集中しており、財政面では行政や民間からの支援を得て運営しているところが多い 地方の文化的な資源であり自治体の助成がなければ厳しい状況に置かれる地方オケに、今作は光を当てる」としています。「苦労したのはやはり、演奏シーン 出演者たちは、早い人で昨年の7月ごろから楽器のレッスンを受け始め、撮影と並行しながら熱心に練習を重ねているという 撮影は基本、音源を流して演奏している振りをする『当て振り』だが、フルート奏者役の新木優子は、手元がクローズアップされるため、『ある程度(楽器のキーを正しい指使いで)押さえていないといけないので、ごまかせない』と苦労を語る」「毎話ごとにテーマとなる楽曲が登場する 第1話はベートーヴェンの交響曲第5番『運命』。東仲プロデューサーは『物語にリンクした素敵な名曲をたくさん使っているので、楽しんで聴いてもらえたら』と期待している」
芦田愛菜さんが出演するので第2回目は是非観たいです
ところで、サブタイトルになっている「アパッシオナート(appassionato)」とは、イタリア語で「熱情的に、激情的に」という意味で、「熱心な人」を表すこともあります ちなみに有名なメンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品35」(いわゆる「メンコン」)の第1楽章は「アレグロ・モルト・アパッショナート(Allegro molto appassionato)」です ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57」は「アパッショナータ(Appassionata)」と呼ばれ、日本では「熱情」と訳されています
また、タイトルにある「マエストロ」は「(主として芸術の分野で)卓越した才能や技能を持ち、多くの人から尊敬されている存在。巨匠。〔狭義では指揮者を指す〕」(「新明解国語辞典」より)という意味です 私が「マエストロ」と聞いてすぐに思い浮かべるのはロヴロ・フォン・マタチッチやカルロス・クライバーやセルジュ・チェリビダッケです ひと言でいえば「誰もが認める巨匠指揮者」です ところが 最近では、コンサートのチラシやSNSなどで、人生経験も音楽家としての経験も浅く、実力が伴わない若手の指揮者を「マエストロ」と呼ぶケースをしばしば見かけるようになりました この傾向について私は「マエストロの安売りはやめてほしい」と思っています 「マエストロ」という言葉があまりにも軽く扱われています 言われている本人も「恥ずかしいからマエストロと呼ばないでほしい」と思っているに違いないと確信します 音楽関係者に限らず、言葉は大切に扱ってほしいと思います
ということで、わが家に来てから今日で3289日目を迎え、ロシアの詩人で、ウラジーミル・プーチン大統領に批判的なレフ・ルビンシテイン氏(76)が今月、モスクワで交通事故に遭い、死亡していたことが明らかになった というニュースを見て感想を述べるモコタロです
誰も交通事故死だったとは思っていないだろう プーチン政権は何でもやるからね
昨日、夕食に「ビーフカレー」と「生野菜サラダとアボカドのサラダ」を作りました ビーフは今回バラ肉を使いました。「月曜日はカレー」というローテが確立しつつあります 料理をしない人には分からないでしょうが、料理で一番面倒くさいのは「夕食の献立をどうしよう」ということです 献立さえ決まれば、あとはレシピ通りに作れば良いだけなので迷いはありません その点、「月曜日はカレー」とか「隔週金曜日は鶏の唐揚げ」とか決めてしまえば、それ以外の曜日の献立を考えれば良いので それだけ気分が楽になります 同じ「カレー」でもメインの具材を牛肉、豚肉、鶏肉、野菜と換えれば飽きないので、合理的だと思います
日本モーツアルト協会主催「沖澤のどか講演会 ~ 『フィガロの結婚』におけるテンポ設定」に参加申し込みしました 2月8日(木)14時から16時までで、会場は東池袋の「あうるすぽっと3階 会議室B」です モーツアルトのオペラが大好きなので、テンポ設定に興味があります 先着70名とのことで、13日にメールで申し込んだところ、昨日 受付完了メールが届きました 今から楽しみです
久坂部羊著「人はどう死ぬのか」(講談社現代新書)を読み終わりました 久坂部羊(くさかべ よう)は1955年大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部付属病院の外科および麻酔科で研修。その後、大阪府立成人病センターで麻酔科医として勤務。「廃用身」(幻冬舎)で2003年に作家デビュー 著書多数。2014年「悪医」(朝日新聞出版)で第3回日本医療小説大賞を受賞
本書は次の9章から構成されています
「はじめに」
第1章「死の実際を見る、心にゆとりを持って」
第2章「さまざまな死のパターン」
第3章「海外の”死”見聞録」
第4章「死の恐怖とは何か」
第5章「死に目に会うことの意味」
第6章「不愉快な事実は伝えないメディア」
第7章「がんに関する世間の誤解」
第8章「安楽死と尊厳死の是々非々」
第9章「”上手な最期”を迎えるには」
「おわりに」
著者は医師としての経験から、「望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人を数多く見てきたが、問題は、死が一発勝負で、練習もやり直しもできないということだ」と書いています その上で、「練習できないのなら、せめてほかの人の例を参考にすべきだ ところが、医療が進歩し、死が病院の中に隠されるようになって、死はどんどん世間の目から遠ざけられてしまった それに輪をかけたのが、生の無条件肯定と、死の絶対否定だ しかし、いくら否定しても死は必ず訪れる。であれば、あらかじめしっかりと準備しておいた方がいい」と述べています
第1章では、「死の判定」について「人の死を判定するときには、医者は『死の3徴候』と呼ばれるものを確認する 『呼吸停止』『心停止』『瞳孔の拡大』である。この3つが揃うと、人は死んだと判定される」と説明します
著者が本書の中で繰り返して主張していることは第9章「”上手な最期”を迎えるには」に集約されています 超略すると次の通りです
「死は生物としての生命の終わりなので、ある程度は苦しいのは当たり前だ。痛みや苦しみは、忌避すればするほど強く感じられる だから、死ぬときはある程度は苦しいものだと、今から覚悟を決めておく方が、落ち着いて最期を迎えられるだろう」「たくさんのチューブやカテーテルを差し込まれ、意識もないまま、あちこちから出血し、浮腫や黄疸で生きたまま肉体が腐っていくような状態になりながら、機械によって生かされる最期は好ましくない これは命を延ばすための医療を受けたときに起こる状態だ。この例からも分かるように、最期を迎えるに当たっては、病院で高度な医療は受けない方がいい 何度も繰り返すが、医療は死に対して無力と言われる所以だ」「高度な医療をしない在宅医療での看取り、あるいは、家族さえ納得していれば施設での看取りも望ましい」「経験から言うと、死ぬときにいろいろと求める人ほど、苦しむような気がする 上手な最期を迎えた人は、あらかじめ自分の死に注文などつけず、虚心坦懐にあるがままを受け入れる心構えができていたように思う すなわち、『求めない力』の強い人たちだ」
私は本書を読んで、将来 人生の最期に際しては 延命治療はしないよう家族に伝えようと思いました 著者自らが書いているように「死に関する新しい教科書」としてお勧めします