創作欄 徹の過去の歩み 1)

2016年09月05日 17時14分44秒 | 創作欄
2013年10 月18日 (金曜日)
創作欄 徹の過去の人生 7)
徹は約2時間余、王子駅でその人を待った。
待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか。
だが、徹は湧き上がった恋心に賭けた。
「きっと、約束を守り来てくれるはず」
だが、虚しい確信であった。
苛立ちの中で、拳骨で駅の掲示板に怒りをぶつけた。
結局、心が荒み徹は真田から貰った2万円手にして、赤羽駅を経由して池袋駅へ向かった。
午後4時であったが秋の陽射しは、頭上から照りつけており体が汗ばむ。
徹は繁華街をうろつき回っている間に客引きの女に腕を取られた。
「お兄さん! いい男、何処へ行くの? 遊ばない」
相手の年齢は40代と思われたが、何処か徹の母親に似ていた。
不思議な感情が徹を支配した。
徹が5歳の時に、父親は暴力団の抗争に巻き込まれ亡くなったいた。
母親は水商売に転じてから、自宅に男を引き入れていた。
その男が理不尽にも暴力的であり、母親も徹も些細なことで、殴る蹴るの暴行を受けていたのだ。
「大きくなったら。仕返ししてやる」暴力に耐えながら徹は心に誓った。
徹は40代と思われ女性に主導権を握られた様でホテルへ向かった。
近くに立教大学があったので、卑屈な徹は女とホテルに入る時、左の片手で顔を覆った。
ホテルに入りまずお茶を飲む。
それから、女は風呂場へ向かう。
しばらくして湯かげを確かめながら女は振り吹きながら問う。
「あんた、いくつなの?」
「20歳です」
「若いのね。25歳くらいに見えたけど・・・」
徹は無造作に女が衣服を脱ぎ始めたので、仰天した。
「あら、どうしたの?もしかして、あんたは童貞なの?!」
徹は言葉を失った。
性行為が終わって女が3000円を求めた。
実は女が母親の面影に似ていたので、徹は罪悪感に似た感情に支配された。
「あんた、私の別れたタクシーの運転手に似ているのよ。あなんの方がハンサムだけど、私の旦那にならない、食べさせてあげる」
女はホテルの前で、徹の手を強く握った。
2013年10 月17日 (木曜日)
創作欄 徹の過去の人生 6)
思わぬ人との出会いがある。
そして、その存在が心占め、徐々に膨らんでいく。
「人を好きになる感情は、不思議なものだ」と徹は思った。
後楽園競輪場の食堂で働いていた姉さんかぶりの女性に徹は心が惹かれたのである。
父親の戦友であった真田に貰った2万円の大金を持って後楽園競輪へ行く。
幸いその日は競輪場で真田の姿を見かけることはなかった。
「あら、お一人なの?社長さんは?」
心がどぎまぎしていた徹は黙って肯いた。
一度きりの出会いであったのに、相手は徹のことを覚えていてくれた。
「君に会いに来たんだ」
徹は予め言うべきことを用意してきた。
「わたしに!」
大きな瞳が戸惑いを示した。
そして、お盆を握りしめため息をついた。
食堂は昼前であり、まだ客の姿はまばらであった。
運ばれてきたコップの水を一口飲んで、徹は前回と同じカツ丼を注文した。
カツ丼を運んできたは「もったいないような、何か、不思議な気持ちよ」と小声で言う。
徹はその言葉で、勇気を得た。
「外で会えないかな?」
「いいわよ。社長さんのお知り合いなら、断れないもの」
徹は受け入れられたのだ。
鼓動が高鳴った。
後楽園競輪は最終日であり、翌日は食堂も休みである。
「明日、映画でも一緒にどうかな?」
「私、映画大好きなの。嬉しい」
実は断られても元々と思って、徹は予め映画の入場券を2枚買っていた。
「私、王子のアパートに住んでいます」
「では、王子駅で午後2時に」
「分かりました」
食堂の手前、会話は短く切り上げた。
だが、翌日にその人は王子駅で待ったが相手は姿を見せなかった。
2013年10 月17日 (木曜日)
創作欄 徹の過去の人生 8
昭和40年秋、徹は就職活動が思わいくなく、挙句の果てに父親の戦友であった真田を頼った。
それは心情的に不本意であったが、結局は生活に窮したのである。
「この1年、徹君、何をしていたの?」
問われて徹は「就職が駄目なんです」と率直に述べた。
「そうだろう、世の中甘くない。うちで働け」真田は相変わらずパイプの煙を燻らせていた。
真田は、部屋の広さに不釣り合いな大きなデスクに座っていた。
徹は社長さんと呼ばれていた真田の職場を想像していたが、訪ねれば渋谷の道玄坂の古びたビルの10坪ほどの部屋であった。
個室から若い女性がお茶を運んできて、徹は驚いた。
その女性は後楽園競輪場の食堂で働いていた女性であった。
鋭い眼光の真田の瞳が緩んだ。
「徹君、覚えているかい?」
「ハイ!」徹は相手の視線を受けながら、その女性に上目づかいに視線を注いだ。
相手の女性は頭を下げながら屈託なく微笑んだ。
あの時の姉さんかぶりお女性は肩に被るような黒髪の長髪の人であった。
徹は黒髪で日本的に映じる長髪の女性を好ましく思っていた。
その人こそ徹の伴侶となる大迫静香であった。
静香は山形県山形市の出であり、多少の東北訛りと人柄の素朴さが徹には好ましく思われた。
「私のこと、選んでくれたんですね」静香は鎌倉でのデートの時、率直に心情を吐露した。
徹は静香の過去は知る由もない。
だが、そのことは徹にとってどうでもいいことに思われた。


後楽園競輪
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<参考>
競輪再開反対総決起集会
更新日 2006年10月01日


東京都知事の後楽園競輪再開表明に対して、個性ある文教都市のまちづくりを進めている我が区にとって不適当との考えから、区と区議会は速やかに反対を表明し、都知事や都議会議長へ要請書を提出するなど競輪再開を撤回させる運動を展開して参りました。また、こうした区や区議会の考えに賛同された、地域活動団体や多くの区民が参加する「(仮称)競輪再開反対文京区民連合」は、9月26日に設立総会が予定されています。
区民連合設立総会の後、区民、区及び区議会が一体となった競輪再開反対総決起集会を開催し、後楽園競輪再開の撤回を多くの区民の結集の下で働きかけていきたいと考えています。皆様のご参加をお待ちしています。
2013年10 月16日 (水曜日)
創作欄 徹の過去の人生 4)
行楽園競輪場へ入り、徹は目を丸くした。
祭日ではないのに、場内は人の群れで溢れていたのだ。
この人たちはいったい何をしている人たちなのか?
自分のように失業でもしているのか?
同時に真田憲にも疑問がわいた。
道玄坂で出会った時には「うちで働かないか」と言っていたが・・・
真田憲の仕事はそもそも何であるのか?
場になれない徹は何度も人の肩にぶっかった。
街中なら喧嘩を売っているとことであったが、徹は場内の喧騒に圧倒された。
2万人いるのか3万人いるのか、検討が付き兼ねる。
多くの人が興奮し、喧嘩でもしているように声高に話していた。
そしてレースが始まると柵によじ登るようにして熱狂していた。
「これは、まったく狂気の世界だ」徹は呆れかえる。
だが、真田はあくまでも沈着冷静であり、鋭い視線を競争する選手たちに注いでいた。
それは、地獄や修羅場を見てきた冷徹な男の視線であった。
真田は車券が当たっても外れても顔色を変えることはなかった。
「徹君、競輪は初めてなんだね。競輪は極めて人間臭い競技なんだよ。徹君、腹が減っただろう何か食おう」
真田は徹を促し食堂へ向かった。
食堂へ入ると店の若い女性が茶を運んで来た。
競輪場で若い女性が働いていることに徹は目を見張った。
「社長さん、何時ものカツ丼ですね。勝ち運が着くように・・・」と言い愛嬌を振りまく。
「徹君もカツ丼でいいかね」
「ハイ、ご馳走になります」徹は飲みかけの茶碗を置きながら、ああねさんかぶり(姉さん被り)の女性の顔に視線を注いだ。
真田は背広のポケットからパイプを取り出しながら、ニヤっと笑った。
「徹君、いい女だろう? ああいう女はいいよ」
実は暴力的な徹は、中学生のころから女生徒たちから敬遠されていた。
切れ長であり三白眼の徹の目はいわる座っていて、若い娘の立場として視線を向けれること自体が怖いのだ。

☆あねさんかぶり【姉さん被り】
女性の手ぬぐいのかぶり方の一つ。
手ぬぐいの中央を額に当て左右の端を後頭部へ回し、その一端を上に折り返すか、その 角を額のところへ挟むかする。

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<参考>

在りし日の後楽園競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。
右隣の施設は、後楽園球場。
競輪場左隣の緑地は小石川後楽園。
基本情報
所在地:東京都文京区後楽1-3


戦後福岡県小倉市(現北九州市)でスタートした競輪を戦後復興の一助にしようということで1949年、東京都が主催して後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。
同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。
1958年1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。
また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、オリンピック予選を始めとするサッカー日本代表の試合が開催されたり、ボクシングやプロレスの興行、1958年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)が開かれたこともあった(同イベントは翌1959年~1987年まで晴海・東京国際見本市会場で開催)。

しかし1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。ちなみに京王閣競輪場は都営が廃止された今日も競輪の開催を調布市など周辺市に主催を移譲して開催している)。
2013年10 月15日 (火曜日)
創作欄 徹の過去の人生 3)
20歳の徹は一度も向学心に燃えたことがなかった。
タクシーは九段坂を下ると白山通りへ出た。
近くに専修大学や日本大学があり、爪入りの学生服を着ている生徒の姿も見られた。
徹はタクシーの中から、屈託なく笑う学生たちの姿を見ると舌打ちをした。
素早く真田憲の視線が注がれた。
街は東京オリンピックへの期待に包まれていたが、徹はオリンピックに全く興味を示していなかった。
日々、就職活動に明け暮れていたのだ。
70社ほど企業を回っていたが、どこも徹を採用しない。
「俺はダメな人間か?!」心はますます荒んできて、暴力的となり喧嘩を仕掛けては憂さを晴らした。
徹は中学生のころ薪で自宅の風呂を沸かしていた。
薪を斧で縦に裂き、釜に入れる長さにするため、薪を拳骨で二つに分断した。
手刀でも試みた。
血豆や裂傷もできたが、2年余続けると自分でも驚くほどの威力を増したのだ。
徹は空手を習ったわけではないが、廃屋の瓦でも拳骨や手刀の威力を試したら、重ねて6枚ほどまでなら瓦は割れた。
歩いて5分ほどの高等学校の校庭へ夜忍び込み、鉄棒で毎日懸垂を試みる。
それも2年続けると腕や肩、胸板に筋肉が着いてきた。
徹は自宅へ戻ると畳の上で腕立て伏せを繰り返した。
体を鍛えあげることは快感ともなった。
父親寿吉の戦友の真田憲は戦地から引き上げてきて、妻子が東京大空襲の犠牲で死んだことを知る。
妻子は実家へ身を寄せていて、義父も義母も空襲の犠牲で昭和20年3月10日亡くなったのだ。
妻の真理子は31歳、息子の清は昭和18年生まれでまだ2歳、娘の里子は昭和16年生まれで4歳だった。
あまりにも戦争は理不尽であった。
妻の真理子は両国の駄菓子屋の娘であり、3人の兄はいずれも戦死した。
音楽家の道を志していた真田憲は長野県の上田から上京し、縁戚であった駄菓子屋の児玉家へ下宿した。
真田憲は昭和14年、真理子と恋愛関係となり結婚した。
戦前は中学校の音楽教師をしながら声楽家を目指していたが、妻子の死で虚無的な心情となった。
徹に渋谷の道玄坂で出会った時、真田憲は自分の若いころの姿を重ね見る思いがした。
自分も徹のような荒んだ目つきをして、闇市をうろつき回っていたのだろうかと・・・
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<参考>
東京大空襲(は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。

東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。
都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。
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参考
東京オリンピックは、1964年(昭和39年)10月10日~24日に日本の東京で開かれた
2013年10 月14日 (月曜日)
創作欄 徹の過去の歩み 2)
徹は東京・渋谷の道玄坂で父親の戦友の真田憲から声をかけられた。
「おお! 寿吉の息子ではないか?」
俯いて歩いていた徹は驚いて立ち止まった。
相手は縦に白筋が入った上下黒の服装で、背広の下には薄いピンクのシャツを着ていた。
普通の勤め人の姿ではない。
頬に5cmほどの傷もあった。
口もとは微笑んだでいるようであるが、大きな二重の目は人を射るように鋭い光を放っていた。
「今、何をしているの?」声は顔貌から想像できないほどソフトであり鼻腔あたりで響いた。
いわゆる美声なのだ。
音楽の道を志していた真田憲を狂わしたのは戦争であった。
「職探しです」
徹は当時、怖い者なしで強気であったが真田からは言い知れぬほどの威圧感を感じた。
「職探しか、うちで働くか?」
徹は真田の目を改めて凝視した。
人を信用しない徹は、誘いに簡単に応じない男であった。
「今日、行くところないなら、俺に付き合え、いいか?!」
徹は懐に2000円しかなく、朝食は喫茶店のモーニングコーヒーと食パンのトーストですませていた。
真田は右手を大きく挙げタクシーを停めた。
そして、乗るように徹を促した。
「行楽園競輪頼むわ」
真田は背広のポケットからパイプを取り出した。
徹はタバコの煙が苦手であるが、パイプの香りに違和感を持たなかった。
死んだ父の寿吉もパイプの愛好家であり、いくつも所持していた。
幼なかった徹はパイプをいじっては父親に怒られた。
真田はタクシーの窓のガラスを少し開いた。
タクシーは青山通りを抜け、赤坂から皇居の半蔵門を通り、九段方面へ向かった。
「行楽園へ行く前、運ちゃん、靖国へ寄ってくれ、勝負運を付けねばな」
真田は真剣な眼差しで言う。
徹は靖国神社へ行くのは初めてであった。
「徹君、お前さんはタクシーで待っておれ」真田は一人靖国神社へ向かい歩み出した。
真田の身長は180cmに近いが、遠ざかる真田の後ろ姿は大鳥居を背景にすると小さく見えた。
参拝に訪れ人は高齢者ばかりであった。
徹はタクシーの外へ出て、身をほぐすように手足を伸ばしたり、膝を屈伸させた。
風はほとんどなく、秋の陽射しは明る照りつけており、徹は気だるさを覚えた。
たくさんの桜の葉は照り輝くように紅葉していた。
大村益次郎の銅像に徹は目を留め、その像に向かって歩みだした。
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<参考>○大村益次郎・・・・・・長州藩出身。靖国神社の創始者、日本陸軍の祖。
蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。
「戊辰戦争」では、その手腕により新政府軍を勝利に導く。
明治維新後は、文字通り、軍権の全権を担い、軍隊の西洋化を奨め、日本陸軍の礎を築く。明治2年に過激な攘夷派による襲撃を受けて、その傷がもとで死去する。
その性格は頭脳明瞭で合理的な思考であるが、堅物で人当たりが下手であったため、人から誤解を招くこともあったであろう。
愚直なまでに新しい時代を作り上げようとした男であった。


ttp://www.geocities.jp/douzouz/epsord/oomura.htm

2013年10 月13日 (日曜日)
創作欄 徹の過去の歩み 1)
徹の父は彼が5歳の時に、暴力団の抗争に巻き込まて死んでしまった。
彼が住む街は、戦後の荒廃を何時までも引きづっているような荒んだ場所であった。
スラム街とも言えただろう。
ゴミの山、違法なバー、ドラム缶のたき火、タイヤのない放置された自動車。
痩せ細った野良犬も多かった。
ドブ川沿いの空き地には掘っ立て小屋が立ち並び、鶏や豚を飼う人々もいた。
小屋からはニンニクの臭いが常に漂っていた。
男たちは、ドブ川に向かって放尿する。
日雇い労働者たちは仕事にあぶれると昼間から1升瓶を抱えて路上で飲んでいた。
些細なことで喧嘩が始まる。
ヒロポンなどの麻薬に溺れる人もいる。
体を売る女性たちは昼間から客引きをしている。
パチンコ屋から出て来る男にまとわりつく女も居る。
競輪場も電車で3駅先にあった。
驚くことに競輪のノミ屋もいたのだ。
背後に暴力団の姿があった。
徹の母親は居酒屋で働きだし、間もなく男ができて同居した。
この男が冷酷な男で、母も徹もしょっちゅう殴られた。
中学を卒業した徹は街工場の工員として働きだしたが、少年のころに負った心の傷は残った。
徹は些細なことで同僚と衝突して、殴り合いのケンカになった。
当然、暴力的な徹は職場での嫌われ者となった。
解雇されては転職を繰り返していた。
母親は徹が19歳の時にくも膜下出血で死んでしまった。
まだ、38歳の若さであった。
母の加奈子は何かを予感をしていたのだどうか、「私に何かがあったら、いいかい徹、秩父のおじさんに相談するんだよ」と言っていた。
世事に疎い徹は母の死に困り果てたが、母親の言葉を思い出した。
結局、埼玉県の秩父に住む母親の弟が葬儀を出してくれた。
昭和19年生まれの徹は、昭和20年の東京空襲で家を焼けれ、母の実家の秩父へ疎開をしていた。
父は召集令状(赤紙)来て高崎連隊へ入隊した。
そして南方派遣で戦地パラオへ向かい、運良くペリリュー島で終戦を向かえ無事日本の国土を踏むことができたのだ。
「俺は運が良かった」と父親寿吉は言っていたが、戦後は元の八百屋に戻らず戦友に誘われいわゆる闇屋になった。
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<参考>
終戦直後の日本では、兵役からの復員や外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、政府の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度が麻痺状態に陥り形骸化していた。
都市部に居住する人々が欲する食糧や物資は圧倒的に不足していた。

まず駅前などに空襲による焼跡や建物疎開による空地が不法占拠された。
工場や作業場などにまだ残っていた製品を持ち出すなど、家々からは中古の日用品、農家から野菜や穀物・イモなどの食糧など、各人がてんでに持ち込んだ品を扱う市場が成立した。次第にそれらの個人店は寄り集まり、小規模な商店街のような様相を呈するようになった。

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<参考>
日本の公営競技では配当金の決定、控除率が概ね25パーセント前後に設定されている。

これはその中から関係者や開催する自治体などへの配分金をまかなうために設けられているが、ノミ屋はこの控除分を減らすことで客に対する配当金を増やす。
つまり正規の投票券を買うよりも配当が増える。

またタネ銭がないときに立て替えてもらえる、当選金は即日支払うがタネ銭の集金は次週まで猶予するなどの個別サービスをすることによって客を集める。
例えば「ハズレ券の購入金額の10%を払い戻す」といった、特別なサービスを行っているノミ屋は少なくないという。

ノミ屋は競馬法第30条・自転車競技法第56条・小型自動車競走法第61条・モーターボート競走法第65条によって5年以下の懲役刑もしくは500万円以下の罰金刑が規定されている。
ノミ屋の利用者は競馬法第33条・自転車競技法第58条・小型自動車競走法第63条・モーターボート競走法第68条によって100万円以下の罰金刑が規定されている。

また、競馬法第29条の2・自転車競技法第54条・モーターボート競走法第13条・小型自動車競走法第58条の規定により、公営競技施行者職員は担当大臣の許可を得てノミ屋の利用者となって公営競技のノミ行為に関する情報を収集するおとり捜査をすることができる。

この様に、現在ではノミ屋の排除は主催者・警察により積極的に実施されている。
そのきっかけになったのは1985年2月23日に高知競輪場の場内で発生したノミ屋の縄張り争いも一因となった暴力団抗争による発砲事件で、これにより死者2名重傷1名が出た事である。


創作欄 徹と静香の愛と別離 4

2016年09月05日 17時11分05秒 | 創作欄
2013年11 月 7日 (木曜日)
創作欄 徹の父親の戦友真田の生と死 1)
真田は第二次世界大戦のペリリューの戦いの生き残りとして、自分の運の良さに感謝した。
ペリリューの戦いとは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長:中川州男 大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘をいう。
日本軍が見せた組織的な抵抗は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。
戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年4月22日に米軍へ投降した。
アジア諸国に駐留した旧日本軍将兵は1945年8月の終戦により現地で武装解除、除隊処分とされ、日本へ帰国し復員した。
真田は戦地から命を得て引き上げて来た時には、自分たちは運が良かったと思った。
だが、日本に帰還して見れば国土は想像以上に廃墟と化していた。
これほど本土が荒廃しているとは思いも及ばなかったのだ。
そして列車内から原爆が投下された広島の光景を見て唖然とした。
さらに、妻子は真田の父母とともに東京大空襲で犠牲者となっていた
戦争は実に悲惨である。
なぜ非戦闘員の人々までが戦争の犠牲になったのか・・・
ちなみに、ペリリューの戦いの生き残りの34人は「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している
真田も徹の父親も戦友会のメンバーであった。
虚無的になっていた真田は、日本国土に進駐していた米兵に対する憎悪を燃やしていた。
だから、日本の婦女子に性的暴行を加えていた米兵を目撃し、怒りに任せて相手を背後から短刀で突きたて殺し、罪悪感もなく真田は米兵の遺体を土の中に葬り去ったのだ。
真田は妻子よ父母の死の無念を払せたとさえ思った。
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<参考>
第二次世界大戦:ペリリューの戦い
大日本帝国
戦死 10,695
捕虜 202
アメリカ合衆国
第1海兵師団
戦死 1,251
負傷 5,274
第81歩兵師団
戦死 542
負傷 2,734
合計
戦死 1,794
負傷 8,010
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日本軍の事情

パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。
日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。
道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。
南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。

国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島に民生用として小規模な飛行場があるだけだったが、国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。
1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成していた。
そしてペリリュー島の300m北隣のガドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができた。
1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていった。

内南洋での日本海軍根拠地に対して米機動部隊は、1944年2月17日トラックを、同年3月30日パラオを、空襲してその機能を喪失させた。トラックが空襲を受ける1週間前に連合艦隊主力はパラオへ向け移動して無事だったのだが、パラオも空襲にさらされたことにより、3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまう。

中部太平洋の米軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワ、マーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。
大本営はその状況から、米軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、米軍へ反撃を加える構想を練り上げた。
それまで古賀司令長官の連合艦隊では新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島~西カロリン~西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくる米軍を迎え撃とうとしていた。
しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想米軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号」作戦として決戦構想がつくられた[1]。 その三角地帯の内側にパラオはあり、グアムやサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していた。

日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団 (日本軍)(照兵団、宇都宮)を1944年4月急遽パラオへ派遣し、その麾下の水戸歩兵第2連隊、及び高崎歩兵第15連隊の1個大隊(第3大隊)が中核となって、ペリリュー島の守備に当たった。
彼らは大本営より米軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸寸前に敷設できるよう機雷を配備して兵士を訓練し、サンゴ礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用して500以上に及ぶといわれる洞窟には坑道を縦横に掘り回して要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築き米軍の上陸に備えた。

日本海軍も、西カロリンへ米機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に進攻してくると予想して、これに決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号」作戦を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも零式艦上戦闘機(第263海軍航空隊と第343海軍航空隊)、月光(第321海軍航空隊)、彗星(第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(第761海軍航空隊)が分遣された。
日本側の予想に沿うように5月26日、西部ニューギニア沖合のビアク島に米軍が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和、武蔵の戦艦部隊を送って米上陸支援艦隊を撃退しようとした。

ところが大本営の予想は外れて、ビアク島の戦いが続いているにも拘らず米軍は、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸してきた。 ビアク島救援どころではなくなった日本海軍は、ビアク島空域の作戦をしていた第一航空艦隊をマリアナに呼び戻して米軍を迎撃させると共に、想定とは違う戦場となるマリアナへ向けて第一機動艦隊を出撃させ、ビアク島到達前に渾作戦が中止となった戦艦部隊も途中で合流させてマリアナ沖海戦に挑んだが大敗、三角地帯で米軍に反撃を加えるという作戦構想は崩壊してしまった。
航空反撃を行おうにも、ラバウルから基地航空隊は既に引き揚げられ、トラックとパラオの航空戦力は壊滅していたため、この時点ではパラオ防衛の戦略的価値は、単に米軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。
2013年10 月29日 (火曜日)
創作欄   徹と静香の愛と別離 9 )
徹の父親の戦友だった真田は言っていた「俺は、最後まで道楽で生きるんだ」。
深い意味が言葉に込められているとは思われなかった。
真田は女好きで酒好き、そしてギャンブル好きであった。
真田は両親と妻子を昭和20年の東京大空襲で亡くしていた。
戦地から戻った真田は虚無的となり、闇市で無頼の徒の一人となった。
戦友の徹の父は暴力団の抗争に巻き込まれ命を落としていた。
真田たちを襲ったのは3人組で真田は相手の刃を何とか交したが、徹の父は刺され死んでしまった。
激戦の戦地から運が良く帰還出来たのに呆気ない死であった。
言わば犬死に等しかった。
徹は真田から父親が死んだ時の様子を聞かされた。
昭和24年、国鉄が人員整理通告したことで、ストが行われ、不穏な社会が醸し出され、下山事件、三鷹事件、松川事件などが起きた年である。
当時は「人身売買」も行われていた。
貧しい農村子女らが1人2500円程度で売買されていた。
真田は売られた女たちを不憫に思って逃がしてやったのだ。
このことが真田の命を狙う要因となった。
だが徹の父親はそれには関わっていなかった。
「待て、この男は関係ない」と真田は叫んだが、無防備であった徹の父親は背後から男の一人に体当たりしながら刃で刺された。
倒れ混んでところを再度、首筋を狙って刃が打ち落とされた。
夥しい血が吹き出し、徹の父は痙攣しながら絶命した。
失血死である。
「今度は貴様の番だからな!」と刃を真田に向けた。
その時、傍を通りかかった女性二人が大きな悲鳴をあげる。
3人の男たちは「畜生!」と吠えるように声を発し、その場から逃げ去った。
闇市周辺では抗争による凄惨な殺人事件が多発していた。
徹は父の死の様を聞き衝撃を受けた。
5歳であった徹には父に対する良い思い出はない。
夜、遅く帰宅する父親は、午前中寝ていた。
夕飯を父親と一緒に食べたことはほとんどなかった。
徹の父親は近所の幼友達の父親のように朝、勤めに出るわけではない。
性格が控えめな徹の母親は夜遅く帰る父親に愚痴一つ言わなかった。
無事戦地から戻って来てくれたことに感謝していたのだ。
夫の死を覚悟し、銃後の妻、母の立場で居たのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=sDaURMmurAY

2013年10 月26日 (土曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 8 )
「男なんて、同じね。最低!」
静香の言葉が包丁の刃ととも徹の胸にグサリと刺さった。
「自分は恨んだあの男と同じじゃないか」
徹は母親の男のことを思い浮かべた。
男から深い理由もなく些細なことで母親も徹も殴る蹴るの暴力を受けてきたのだ。
「何時か殺してやる」徹は7歳であり、まったく抵抗ができず、恨みを募らせていく。
「何であんな嫌な男を家に入れたのか!」徹は母親にも怒りを覚えた。
居酒屋で働いていた母親は、20代の後半であったから男にとって誘惑の対象であっただだろう。
昭和24年闇市での暴力団の抗争に巻き込まれて、徹の父親は死んでいた。
徹の父親の戦友の真田は現場に居たが難を逃れた。
襲ってきた相手は3人であった。
自分たちに因縁を付けてきたが、明らかに相手側の勘違いであった。
一人が徹の父親の胸を短刀で突く。
それは問答無用であり、「話し合おう!」と真田が言った瞬間、男たちの一人が隠し持っていた短刀が抜かれ、体の反動とともに勢い良く徹の父親の背中から胸に突き立てられた。
激戦の戦場で生き抜いた徹の父親は、呆気なく皮肉にも短刀の刃で命を失ったのだ。
徹は後年、真田から父親の死の様子を聞かされた。
「徹君の親父さんを助けられなかったんだ」戦友の真田は無念さを思い浮かべ涙ぐんだ。
戦後の混乱期であり、闇市では犯罪も多発していた。
幼い頃、徹は進駐軍たちの横暴を聞いてきた。
戦後の復興期には平和を願う日本各地で米兵による婦女暴行が横行していたのだ。
それは敗戦国の屈辱である。
真田はそうした米兵の一人を殺していたが、これは闇に葬られていた。
真田が通りかかるとある家屋の庭で、昼間の時間であったが米兵が日本女性を暴行していた。
真田は怒りを爆発させ短刀で米兵を背後から殺したのだ。
真田はその家の庭に深く穴を掘り、そこに米兵の死体を埋めた。
2013年10 月25日 (金曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 7 )
人生の伴侶として「私のことを選んでくれてありがとう」と誕生日などの区切りに感謝の気持ちを伝える。
静香はそのことを率直な気持ちとして何度も吐露してきた。
だが、人生は皮肉なものであり、相思相愛と思われた2人が、ボタンの掛け違いのようになってしまうこともある。
そして、下向きな愛の心があったのに、その意に反して憎しみあい、最終的に互を憎悪するハメにもなる。
徹は静香に不信の念を抱いた。
「静香、お前に男ができたんだな!」
性行為のあと徹が唐突に言う。
「ええ!なんのこと?」
同衾から静香は身を起こした。
「ふざけるな、おれは節穴じゃない。お前の今日の反応はこれまでにまいものんなんだよ」
徹は静香のこれまでにないような性の反応に疑念を抱いた。
だが、それは静香にとって、到底理解に及ばぬ言いがかりであった。
静香は日々徹の求めに応じて性行為に及んでした。
だから、性行為は生活の営みに付随しており、静香にとっては特別なことではない。
「自分の性に対する反応は、繰り返されれば画一的なるはずだ」と静香は思っていた。
心外にも徹は言いがかりをつけるように静香に理不尽なことを言ったのである。
「徹さんは、私に何を言いたいのよ。はっきり言ってよ」静香は声を荒げた。
徹はいきなり、静香の顎にパンチを食らわせた。
「オイ、静香、俺以外の男とやっているな!」
静香は逆上して、台所へ向かい包丁を手にした。
徹は刺されないと思い込み無防備であった。
だが静香は躊躇いもなく徹の胸に包丁を突き立てた。
徹はあっけなく抵抗もできずに台所の床に崩れ落ちた。
徹が幸運であったのは、刃が心臓を外れていたことである。
そしてこの出来ごとが警察沙汰にならなかったことであり、それは奇跡でもあった。


2013年10 月24日 (木曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 6 )
静香は18歳の時に東京・新橋の印刷工場の経理課長であった52歳の市川孝介に酒を飲まされ、強姦された。
その市川は優しそうに見えたが豹変し、暴力的に振舞ったのだ。
結局、静香は市川から逃れたのであるが、後楽園競輪場で出会って同棲していた徹も突然、豹変し暴力を振るう男になっていた。
「私のこと選んでくれてありがとう」
あの日、鎌倉でのデートで恋心が高揚して、静香は徹に真情を伝えたのであった。
「人を好きになる感情はいいものね」
円覚寺の山門を潜ると静香は自らの腕を徹の腕に回した。
その仕草は如何にも女らしく、徹は静香の愛情の発露に心が満たされていく。
出会いがまさに縁であったのだ。
20歳の徹と21歳の徹は、ともに歩んで行くこことなった。
だが、徹の暴力によって期待は完全に裏切られた。
静香は父親のような男の優しを求めていた。
アパートを飛び出した静香は、大久保から夜道を新宿方面へ向かって歩きはじめていた。
「本当に優しい男がいるのなら、会いたい」
静香は涙を浮かべた。
路地裏で空を仰ぐと滲んだ目に朧月が見えた。
月も泣いているように静香には映じた。
静香は歌舞伎町まで歩いて行く。
そして、映画の看板に誘われるように深夜映画館へ入り込んだ。
映画は「骨まで愛して」であった。
深夜映画館へ女性が一人で入るべきではない。
油断すると痴漢行為をされるのだ。
静香は隣に座る男の手を払い除けて、立ち上がると外へ出た。
「私は、これから何処へ行けばいいの?」
静香は思い余って、新宿駅で真田に電話を入れた。
「こんなに遅い時間に電話をかけて申しわけありません」
「静ちゃんどうしたの? 何かあったのかい」
真田の声は包込むように温かかった。
静香は経緯を告げた。
「そうかい。徹君も困ったものだな。今、何処にいるの?」
「新宿駅にいます」
「ともかく、アパートに戻りなさい。いいね。明日徹君に会って、2度と静ちゃんに暴力を振るわないように諭すからね」
静香はその言葉に背中を押され大久保のアパートへ戻った。
徹は寝ずにテレビを見ていた。
「もう、戻って来てくれないと思ったよ。謝るよ、悪かった。俺はどうかしていた」
徹は頭を下げた。
「二度と暴力は振るわないと、誓える?!」静香は怒りが収まらず、徹を睨み据えた。
「誓うよ」徹は座ったまま、立っている静香を藪にらみにした。
その視線から静香は徹のことを信頼できない男だと思った。
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<参考>
映画は「骨まで愛して」
監督

斎藤武市

脚本

川内康範
原作 川内康範
製作

企画 仲川哲朗

出演者

渡哲也
松原智恵子
浅丘ルリ子
城卓矢
宍戸錠


『骨まで愛して』(ほねまであいして)は、1966年(昭和41年)製作・公開、斎藤武市監督による日本の映画である[1][2]。本作に本人役で出演している城卓矢の同名のヒット曲を原作に、同曲の作詞をした川内康範が脚本を執筆、 渡哲也、松原智恵子、浅丘ルリ子らが主演した
2013年10 月23日 (水曜日)
 創作欄 徹と静香の愛と別離 5 )
徹は小学生向けの百科事典の販売が段々苦痛になってきた。
人を騙してまで、百科事典を販売していいのだろうかと疑心暗鬼に駆られたのである。
先輩の社員の一人は言う。
「俺たちは、悪いことをしているわけではないよ。こんなに良い学習百科事典は他にないね。自信を持って売り込むべきだな」
徹は反論の言葉を選びながら反論した。
「でも、学校の方から来たと人を騙しています」
「それは方便だ」先輩はニヤリと笑った。
「方便?」
「そうだ、嘘も方便と言うよね。世の中に神など存在しない。でも、あたかも神が存在するように聖職者は説いているんだ」
先輩の話は飛躍していたので徹は戸惑った。
「学習百科事典には間違いなく価値がある。だが、それを理解している人はあまりいない。だから、我々が啓蒙活動をしているんだよ」
「啓蒙活動ですか?」
「そうだ、啓蒙活動だ。何ら卑屈になったり、罪悪感など感じる必要はないんだよ。社会に児童の教育に我々は役立っているんだよ」
先輩の言っていることは詭弁だと思って、徹は受け入れ難く思った。
アパートに戻った徹は、同居する静香に意見を求めた。
「徹さんはどうしたいの?」
徹は意見を述べない静香に腹を立てた。
「静香の考えを聞きたいんだよ!」
「私には、何とも言いようがないのよ」
徹は苛立ち静香の頬をいきなり平手で打った。
「私に八つ当たりするのね。呆れた」
静香は立ち上がり、洋服ダンスへ向かった。
「おい、出かけるのか?」徹はさらに怒りを爆発させ、静香の腰に背後から蹴りを入れた。
静香はよろけて、洋服ダンスに頭をぶつけて倒れ込んだ。
「私に暴力を振るったのね。徹さんには愛想が尽きた!」
涙を浮かべた大きな瞳に憎悪の感情が浮かんでいた。
醜く歪む静香の顔に一層、徹は怒りを爆発させ、静香の髪を背後からつかみ引き倒した。
「もう、終りね!」立ち上がった静香は挑みかかるように徹の下腹部を蹴りつける。
徹は激痛でうずくまる。
静香は立ち上がると部屋を飛び出して行った。
2013年10 月23日 (水曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 4 )
徹は入社して半年、2人の先輩社員のアドバイスを受け、月に10冊前後は百科事典を売ることができた。
最高20セット売れたこともある。
運が良かった。
ある日、桜が咲き始めていた時節であったが、東京の目白方面へセールスに行く。
名簿を手に大きな邸宅の門をくぐった。
樹齢数十年と思われる見事な桜の木が生垣沿いに数本あった。
徹は心が臆していたが、玄関のベルを押した。
出てきたのは17、8 歳のお手伝さんとお思われる女性であった。
白いエプロン姿で、濃紺のセーターにグレーの長いスカート姿であった。
「何でしょうか?」東北訛りがあった。
「学校の方から来ました」徹は何時ものセールストークで切り出した。
「学校の方からですか。お待ちください」相手は恐縮したようである。
玄関の扉を大きく開き徹を迎え入れた。
会社の女性社員たちが都内の役所の出張所へ出向き、住民台長を手書きで写してきていた。
会社から手渡される名簿には、訪問する家に何歳の子ども居るか記されていた。
徹たちは単なるセールスに過ぎないが、「学校の方から来た」と言うだけで相手は勘違いをした。
学校と関係する人の訪問だと思い込むのである。
「何時も、学校の方でお世話になっております」と相手にまず丁重に頭を下げる。
「お子さんは本を読みますか?」
「いいえ、ほとんど読まず、漫画ばかり読んでます」
「実は私自身も子どものころはそうでした。そこで、お子さん方に本への興味をもってもらうようにと、ふさわしい教材を学校とともに企画しました。本日、持参したのがこの百科事典です」と鞄から1冊を取り出す。
「ご覧のように、イラストや写真が多いですね。とても読みやすく、お子さんたちの興味を引き付ける内容になってます。この事典は単なる事典ではなく学校の教科書を補完する教材なのです」
このセールストークで相手の心の警戒心を解くのであるが、甘くはない。
「うちの子は、全く本に興味を示しませんから、結構です」
「まず、お母さんにこの百科事典に興味を持っていただきたいのです。本を読む面白さをお子さんに伝えてください」
「私は忙しいのよ、百科事典を読む時間などありません」
「実は来年から文部省の学習指導指導要領が改訂されます。この百科事典は学習指指導要領に沿って学校とともに編纂したものなのです」
これは嘘であり、ハッタリだ。
この日、徹が訪問した目白の大きな邸宅の奥さんは、「分かりました。百科事典を送ってください。それから、娘のお友たちにもご紹介しましょう」とあっさりと購入してくれたのだ。
徹は嘘を並べた罪悪感もあったが、心のなかで小躍りした。
地味な色合いの和服姿の奥さんは、気品があり美しかった。
長い黒髪をアップにしていて、女優の誰かに似ていた。
見た瞬間、徹は気おくれしたが、スラスラと何時ものセールストーク口から出てきたのだ。
育ちの良さを感じさせる人であった。
邸宅の門を後にしながら庭の桜を見上げた。
目白駅へ足早に向かう徹は「あのようなご婦人を騙してはいけない」と思いはじめていた。
2013年10 月21日 (月曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 3)
徹は7月生まれなので断然、陽光がギラギラ頭上から照りつける夏が大好きだ。
吹き出す汗が体中から流れ出ると「自分は21歳の青春の今を生きているのだ」と実感した。
紆余曲折はあったが、徹は新宿に職場を得て大久保の安アパートで静香と暮らし初めていた。
静香は徹の父親の戦友であった真田の会社で働いていた。
徹は真田に誘われたが静香と同じ会社で働くことを避けたのだ。                   徹の仕事は、小学生向けの百科事典の販売である。
百科事典は10冊セットで1万円であった。
厳密な意味で固定給とは言えないが、5000円の基本給に1セット売れば2000円が給与に換算される。
先輩、社員の中には月に50セットも売る人も居た。
月収10万円余は当時としては価値があり、先輩の一人であった木嶋悟は派手に飲み歩いていた。
木嶋の奥さんは飯田橋の外堀に面していた喫茶店で働いていたので、木嶋は家へほとんど金を入れていないようであった。
徹は木嶋に可愛がられいたので、連れられて歌舞伎町界隈でキャバレーやバーへも行った。
徹は入社して半月、販売成績が思わしくなく、所長の指示で木嶋との同行販売で板橋方面へ行く。
性格が明るく、声が大きく見るからに元気であり、エネルギーが溢れるような木嶋の販売姿勢に徹は目を見張った。
ユーモアもあり、訪問した家庭の主婦たちを笑わせていた。
木嶋は落語好きであり、新宿の寄席にも行っていた。
木嶋は家庭訪問による百科事典のセールスを楽しんでいるような姿勢であったのだ。
また、木嶋とトップ成績を競っていた近野宏治は彫刻家である。
彫刻家では食べられないので、百科事典のセールの身に甘んじていたようであった。
誠実な人柄で何処か学者のような知性を感じさせた。
常に微笑みを立てていて、出会う人たちに好感を持たれる男であった。
近野の奥さんは同じ芸大卒であり、高校の音楽教師をしていた。
徹は近野との同行販売でも学ぶことがあった。
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<参考>
○昭和40年(1965)の物価:白米10kg:1,125円、公務員初任給:21,600円、日雇労賃:972円、週刊誌:50円。
○07/04 誘拐殺人:吉展ちゃん事件(38年3月)の容疑者・小原保逮捕(5日都の円通寺で遺体発見)。
○昭和40年(1965).1.〔暴力団による家出娘の人身売買事件〕
 東京都新宿区を根城としている暴力団員11名は、芸妓置屋が芸妓の不足に困っていることに目をつけ、昭和39年4月ごろから昭和40年1月までの間、新宿、池袋の喫茶店、バー等で知りあった家出少女ら16名に対し、甘言をもって近寄り、肉体関係を結んだうえ、池袋、中野の芸妓置屋に1人5万円から20万円ぐらいで売り飛ばし、さらにその後も同女等から働いた金を絞りとっていた。
2013年10 月19日 (土曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 2)
優しく思われた上司の市川孝介は豹変した。
「静香、男ができたんじゃないか!」
東京・湯島の安ホテルでの性交のあとにいきなり頭を拳骨で殴られた。
「私、市川課長が初めての男です。誰とも付き合っていますん」
頭の痛みを堪えながら静香は訴えた。
「ふざけんは、このやろう! 俺は節穴じゃねいぞ!」
市川は怒り立ち、今後は静香は髪を鷲掴みにして、両頬を何発も平手で打った。
「今日のお前の反応、これまでになかったんだよ。どこのどいつと、お○こ。やったんだ!」
市川は鬼の形相となり、忌々しげに荒々しく乳房を鷲掴みにする。
「どこのどいつに、この乳を吸わせたんだよ!このやろう」再び頭を拳骨で殴られた。
静香は恐ろしさと屈辱で顔を両手で覆って子どものよう大声を上げて泣いた。
静香の泣き声の大きさに市川は狼狽した。
「静香、もう泣くな。分かったよ」
市川は冷笑を浮かべた。
そしてタバコ臭い口が眼前に迫り、市川は唇で静香の鳴き声を封じた。
静香は再びの性交行為の中で、市川と分かれることを決意した。
翌日には新橋の印刷工場を辞めた。
そして、東京・北区王子のアパートの大家さの奥さんの紹介で、後楽園競輪場の食堂で働くことになった。
静香は徹とその食堂で出会ったのだが、皮肉にも映画を観に行く約束をした日に、アパートに戻ると大家さんの奥さんから電報を手渡された。
「ハハシス スグニカエレ ハルコ」
電文は実家の姉からのものであった。
短い電文を繰り返し読み、静香は大声で泣いた。
「あの優しかった母が、亡くなった? どうしてなの?」
深い悲しみに沈みながら静香は、上野発の急行列車に乗り故郷へ向かった。
2013年10 月17日 (木曜日)
創作欄 徹と静香の愛と別離 1)
静香が9歳の時に、両親が離婚した。
母と6人の子どもたちはたちまち困窮を余儀なくされた。
静香は毎日、学校給食に救いを感じた。
自宅のご飯は、白米に醤油か味噌である。
父親は地方公務員であったが、職場の不祥事で退職した。
地元の建設業者にわずかなお金をもらったり、接待攻勢に乗ってしまったのだ。
しかも、飲み屋の女と深い関係になっていた。
結局、地元の国立大学を出たのに人生を挫折してしまった。
静香は中学を卒業すると、東京・新橋の印刷工場に就職した。
そろばんができたので事務所の経理に配属された。
静香は18歳の時に印刷工場の経理課長に酒を飲まされ、強姦された。
カクテルを飲んだのは初めてであり、その口当たりの好さを堪能した。
だが、最後に飲んだのが足腰が立たないような強いカクテルであった。
静香の上司の経理課長市川孝介は前科6犯、詐欺や窃盗を繰り返していたが、東京・新橋の印刷工場に採用された。
刑務所で印刷工としての技術を身に付けていた。
ハンサムでメガネをかけている市川は知的な男に見えて、如才がなく紳士的に振る舞っていた。
静香は父親の愛を求めていたのだろうか、52歳の市川に心が惹かれた。
「静ちゃん、若さは宝だ。大切しなよ」市川は優しく接してくれた。
「静ちゃん、栄養つけているかい? たまには美味しいもの食べるか?」
市川は何度もご馳走してくれた。
ご馳走されて静香は多少は負い目を感じていた。
だから、市川に誘われるままに、あまり飲めない酒の席にも同伴した。


創作欄 真田と純子 1)

2016年09月05日 17時07分41秒 | 創作欄
2013年11 月27日 (水曜日)
創作欄 真田と純子 8 )
人が心変わりをする。
それを咎めることができるのか?
「例えば、人を愛したり人を慕う。それは一時的なもので、永続しない場合が多いのではないだろうか」と佐々木則夫は思った。
「何時も誰かを愛していたい」と思う人もいるだろう。
それは「何時も誰かに愛されていたい」という願望と表裏であるのかもしれない。
だが、人の心は何かで変わってしまうのだから、現実は思うように運ばないものだ。
飯野遥に去られて佐々木の心にポッカリ穴が空いたのであるが、恨む気持ちは湧かなかった。
「こうなる運命だったんだ」と諦め自分を慰めた。
安保闘争のデモに参加したのは自分の意思であった。
だが、そのデモの中で、自分が脳挫傷を負うとは、想像すらできなかったことだ。
アクシデントは成り行きであり、怒りの矛先をぶつけようもないことであった。
「命を失わなかったことが儲けもの、人生の可能性が絶たれたわけではない」と則夫は思い直した。
純子を知った則夫は「会うべき人に巡り会えたのだ」と歓喜した。
「こんな、私でいいのかしら」 真田との関係が続いていた純子は心に引け目を覚えていた。
だが純子は日々、則夫に惹かれていく。
純子は親子ほど年齢が離れていた真田に恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。
「信頼していたのに・・・」湯島のホテルで一夜を真田と過ごした純子は真田に翌朝、抗議めいた感情をぶつけた。
真田は純子が既に男を知っていると思い込んでいたのだ。
準強姦罪で訴えられても仕方ないケースでもあった。
「二つ部屋を取るからね」と真田は確かに言ったが、「一緒の部屋でもいいですよ」と言ったのは純子であった。
真田は純子が一緒に寝ることを合意し、性行為もできると欲情を募らせたのだ。
真田は純子の体を浴衣越しに優しく愛撫した。
純子はそれを許した。
純子の呼吸は段々と荒くなっていく。
最後は僅かに一線を超えることに純子は抵抗したのであったが、下着を脱がされてしまった。
酒の酔いもあって、純子は成り行きに任せるように抗うことを止め真田に体を委ねてしまった。
行為が終わってから純子はうつ伏せになった泣いた。
「男、初めてだったんだな」
真田は起き上がり純子の背中に手をあてがった。
純子は大声を上げて泣き出した。

2013年11 月26日 (火曜日)
創作欄 真田と純子 7)
佐々木則夫の恋は長く続かなかった。
人生の皮肉と言うものであっただろうか?
飯野遥は文学少女のようであった。
新潟県の浦佐から上京し三鷹下連雀のアパートに住んだのも作家の太宰治に憧れていたのだ。
そして、遥が佐々木則夫に惹かれたのは面影が太宰に少し似ていたからだった。
遥は雪国育ちであり美し肌をしていた。
佐々木はその白い肌にも惹かれた。
遥は高校を卒業し、東京女子大学を受験したが不合格となり進路に迷っていたのだ。
故郷の母親は、「大学は諦めて働くようにしなさい」と手紙で諭してきた。
遥は4人姉妹の末っ子であった。
地元では美人の四姉妹とされて、3人の姉たちはすでに嫁いでいた。
自分もいっそうのこと結婚しようかとも思っていた。
佐々木と遥は三鷹公園や武蔵野面影が色濃く残る玉川上水などでデートを重ねた。
だが、佐々木は1960年6月15日、安保闘争に参加し、脳挫傷となってしまった。

外傷による局所の脳組織の挫滅・衝撃によって組織が砕けるような損傷を脳挫傷と呼ぶ。
脳挫傷の局所の症状として、半身の麻痺(片麻痺(かたまひ))、半身の感覚障害、言語障害、けいれん発作などが現れる。
加害者は警官であるが、抗議は受け入れなかった。
下半身に障害が残った佐々木から、遥の気持ちは離れていく。
薄情であるが、遥の恋心は覚めていたのだ。
佐々木は仕方ないと諦めるほかなかった。
佐々木は子どもの頃から、何かに強く執着するという質ではなかった。
「子どもらしくない子どもだな」と父親は皮肉を言っていた。
「全く、可愛げがない子だね」と母親も呆れていた。
いじめられての泣かない子であったのだ。
このため「いじめがいがない」と悪ガキたちも則夫を相手にしなくなった。
だが、遥に見放されてから、佐々木の心にすきま風が吹いたことは否めなかったが、それも時間が解決してくれた。
もう恋に縁がないと思っていた佐々木の前に現れたのが純子であった。
佐々木の障害に拘りを持たない純子は、心が広いで女であったのだろうか?
佐々木は純子の胸の内を怪しまないわけではなかった。
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<参考>
1960年6月15日、日米新安保条約批准阻止を叫ぶ全学連が国会構内になだれこみ、
弾圧する警察機動隊と衝突し、その混乱の中で樺美智子さん(東大文学部学生、22歳が亡くなった 70年安保闘争は、最も血塗られた闘争だった  
その7年後、佐藤首相(当時)の訪ベトナム阻止を目指す羽田闘争で、京大生、山崎博昭さんが機動隊との衝突の中で亡くなった。
例えば佐藤訪米阻止を目指し、69年の10-11月連続闘争の中でも、岡山大学生の糟谷孝幸さんが、大阪扇町公園で開かれたデモに襲いかかった機動隊に暴行され、10月14日に脳挫傷で亡くなったのは、ほんの一例である。22歳の死であった。
樺さんや山崎さんの名を知る人でも、糟谷さんの名を知る人は少ない。
死をもって安保条約に反対した樺さんや山崎さん、糟谷さんらは無名の犠牲者は、歴史という冷厳な審判で無駄死にであったことがはっきりした。
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11月13日、佐藤訪米阻止闘争を大阪の地において闘った岡大学友,法科2年生糟谷孝幸君は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され,21才の短い生涯を閉じた。
寝屋川署の機動隊員がデモの最前線に立ち闘っていた糟谷君に襲いかかり,暴行を加えながら逮捕した。
そして負傷している糟谷君を曽根崎署に連行し,取り調べを強行し,治療もせずに2時間以上も放置していた。 糟谷君は取り調べ後,気分が悪くなり倒れた。
午後8時45分に北区浮田町の行岡病院に運び込まれたが,糟谷君は手術台の上に放置され,簡単な応急処置がなされているだけであった。
しかも午前4時半までレントゲン撮影すら行れず,14日未明になってようやく,しかも完全な設備のないこの病院で,脳外科の門外漢の手で手術が行れた。
午前6時半頃,京大病院脳外科の佐藤医師が援助を申し出たが,病院は全くとりあっていない。
午後1時頃糟谷君の容態は悪化し,自力で呼吸することすらできない危篤状態に陥いり,そして午後9時,糟谷君は一言もしやべらぬまま死亡したのである。
弁護士,佐藤医師の立ち合いのもとで行れた司法解剖の結果,死因は脳機能障害,脳挫傷,脳種脹,頭部打撲であり,遺体の情況は硬い鈍体による打撲跡が十数カ所にあり,頭骸骨の縫合部にズレが生じている事が判明した。
この明確なる機動隊の虐殺に対し,警察側は路上衝突説,火炎ビン説,鉄パイプ説等で殺人事件としてデッチ上げ,60年安保の樺さん,66年羽田での山崎君虐殺と同じく自らの犯罪をインペイしようとしている。 虐殺弾劾,安保粉砕集会が開かれた。
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この脳の損傷によって起こる症状は、その損傷を受ける部位により様々ですが、代表的なものに脳卒中のような麻痺や感覚障害、手足が震えうまくコントロールできなくなる失調症状、記憶障害や言語、注意力の低下などの高次脳機能障害があります。
ただし一般に頭部外傷では脳の一部分の限局した場所のみがダメージを受けるということは少なく、受傷時の脳挫傷・低酸素・血腫による圧迫などによりダメージは広範にわたることが多いです。
これは、比較的病気の部位が限局している脳梗塞や脳出血と異なる点です。
そのため、頭部外傷で最も多い症状は「広範な前頭葉障害による高次脳機能障害」になります

2013年11 月26日 (火曜日)
創作欄 真田と純子 6)
佐々木則夫には苦い思い出があった。
佐々木には交際していた人が居た。
専門学校の帰りに立ち寄った飯田橋の喫茶店で、その人は働いていた。
佐々木の一目惚れであったが、相手の気持ちに感応したのであろうか、佐々木が訪れると微笑むようになった。
ある日、レジで意を決して声をかけてみた。
「外で会えるかな?」 断られて当然と思っていたが「いいですよ」と相手は首肯いたのだ。
「やった!」佐々木は心の中で小躍りしたい気分となった。
喫茶店は日曜日は休みであったので、「今度の日曜日に」と打診した。
「ハイ、わかりました」と相手は応じた。
「新宿御苑に行きませんか?」
「ハイ」
「佐々木則夫です。午後2時に正門のところで」
「分かりました」相手は名乗らなかった。
 「こんなにうまくいっていいものか?」佐々木は半信半疑であったが、胸を高ぶらせながら30分前に新宿御苑に着いた。
相手は15分後にやってきた。
喫茶店の制服ではないその女性の姿は大人びて見えた。
喫茶店ではポニーテールであったが、当日はロングヘアになっていた。
灰色のロングスカートにグリーンのトックリのセーターを着ていた。
ハイヒールを履いていて、いつも見るより大柄に見てた。
「来てくれて、ありがとう」佐々木は率直に言った。
「私、新宿御苑は初めてです。新宿駅から何度も人に聞きながら来ました。方向音痴なの」 その言葉で佐々木は心が軽くなった。
「桜が満開です」佐々木は入園しながら言った。
「三鷹公園の桜も満開です」
「三鷹に住んでいるの?」
「そうです。私は飯野遥です。遥彼方の遥」と言って微笑んだ。
「遥さんか、遥さんに出会えてよかった」佐々木は握手を求めた。
「私もお会いできて光栄です」社交辞令とは思われない、言葉の響きがあった。
御苑の散策を終えて、中村屋でケーキを食べた。
それからしばし、とりとめのない話をした。
お腹が空いてきたので店伝統のインドカリーを食べた。
「美味しい」と遥は満足そうであった。
午後8時に二人は新宿駅で別れた。
佐々木は小田急線に乗って経堂駅から徒歩5分のアパートへ戻った。
「これは恋の始まりなんだ」と車内で佐々木は満たされた気持ちになった。
2013年11 月24日 (日曜日)
創作欄 真田と純子 5)
人を好きになる感情は、抑え難いものだと純子は改めて思った。
能動的にもなれた。
「純子さん、生き生きとしてきたわ」と多田房江から指摘された。
二人は不動産屋の裏路地を歩いていた。
近くにある大学の学生食堂へ入り昼食を食べたあとだ。
「大学生は、楽しそうでいいな」と房江は言う。
房江は茨城県の取手の中学を出ると東京・上野の印刷会社で働いていたが、人間関係の疲れからそこを辞めていた。
「房江さんは印刷工場ではどんな仕事をしていたの?」
「文選工の助手のような仕事よ」
「文選工?」
「鉛でできた活字を拾って文章にするの。文選工さんが小さな木の箱に活字を並べていくのよ。それがすごい速さなの」
「活字を拾うの?」
「そうなの。漢字や平仮名の活字は棚に並んでいて、原稿を見ながらその活字を素早く探して木の箱に並べていくの」
「印刷はそうやって完成するのね」
房江は微笑んで首肯く。
仕事は嫌いではなかったが、意地悪な女性社員からいじめにあったのだ。
可愛い顔立ちの房江は、「房江ちゃん」とみんなから呼ばれ文選工たちに可愛いがられていたが、それが先輩社員の反感を買ったのだ。
露骨にいじめられた。
ある時には足を踏まれたのだ。
それでつまずいて、せっかく組んだ活字を床に落としてしまった。
房江は意気消沈していた。
上野駅の常磐線のホームで背後から「房江しばらく」と中学校の先輩であった北島銀次から声をかけられた。
房江は微笑んだが、直ぐに硬い表情となった。
「何か元気そうでないね。後ろから見て想ったのだ」
背が高い北島は小柄な房江の顔を上から覗き込むように見詰めた。
「職場で嫌なことがあってね」
「まあ、社会へ出ると、色々あるもんさ」
房江は職場でいじめにあっていることを明かした。
就職して8か月が過ぎていたのだが、房江は今の職場から去りたいと思っていた。
「そんな職場なんか辞めちゃえ」あっさりと北島が言う。
「他に行くところ、いくらでもあるさ」
「そうかな?」
「あるよ、俺が探してやってもいいけど」
結局、房江は先輩の北島が勤めていた水道橋の不動産屋で働くことになった。
「純子さん、佐々木さんと交際をしているのね」房江は真顔で言う。
「なぜ、分かったの?」純子は戸惑いなながら大きな目を見開いた。
房江は二人が水道橋駅のホームで肩を並べて電車を待っているのを反対側のホームで見かけていた。
房江は秋葉原方面へ向かい電車を待っていた。
純子と佐々木則夫は新宿へ向かう時であった。

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<参考> 
文選工のお話です。
印刷屋から活字が消えたのは30年ほど前のことでしょうか ?
受注した原稿を最初に手にするのは活字を拾う文選工でした。
鉛合金の活字は、天地30センチ、左右60センチ、奥行2センチほどの木製の箱に収められています。
活字の大きさによって3段か4段に仕切られ、ケースと呼んでいました。
頻度の多い50ほどの文字は視線の正面に据えられ、その下に平仮名ケースがあります。
文字は、人偏、草冠など「部首」の「一」から「龍」まで、字画の少ない順に配置されています。一時間1,000字に拾えるようになると、いっぱしの職人(文選工)と言われていました。
しかし、その域に達するのは4、5年待たなければなりません。
出版社が顧客の印刷会社には、高名な作家の原稿を読み下せる、作家専属の文選工も居ました。

任期満了で退任 »
2013年11 月23日 (土曜日)
創作欄 真田と純子4)
佐々木則夫は九段下ビルの3階の僅か5坪の部屋を借りた。
トイレは3階にあり、2階の部屋との共用であった。
右足が不自由な佐々木はできれば1階の部屋を借りたかったが、空き部屋がなかったのだ。 1960年の安保闘争の時、佐々木は警官に棍棒で殴られ、倒れたところを靴で頭を蹴られ、脳挫傷となった。
当時、佐々木は飯田橋のデザイン・美術・工芸の専門学校へ通っていた。
専門学校の仲間が佐々木をデモに誘った。
「日本は戦争の道へ逆もどりするんだ。安保条約を断固阻止しなければならない。佐々木君デモにも参加しよう!今、闘わずして何時闘うんだ」
小貫信吾は声を張り上げた。
安保反対の動きは、それまで共産党や労働組合とは距離を置いていた人々にも広がった。
この闘争が、その後の学生運動と違う点は、市民らが一体となって参加していた点にある。
年端もゆかぬ子どもですらも「アンポハンタイ!」と真似するようになった。
佐々木は迷っていたが結局、小貫の気迫に圧されたのだ。
「では、行くか」佐々木は応じたが、何故か嫌な予感を感じていた。
国会周辺を埋め尽くす群集は膨れに膨れ上がっていたのだ。
想像を絶するデモの規模であり危険を感じた佐々木は、一目散にその場から逃げ出したくなっていた。
そこを背後から棍棒の一撃を受けて倒れたのである。
一緒に参加した小貫も顔面を棍棒で殴られ眉間から流血した。
小貫がかけていた眼鏡は壊れ吹き飛んでいた。
女子学生たちは頭を抱え逃げ惑いながら幼児のように泣き叫んでいた。
これがデモの実態なのか、記憶が徐々に遠のく中、佐々木は虚しさと怒りがない交ぜになっていた。
写植の仕事しながら、佐々木はあの日のことを忌々しく思い起こしていた。
純子は社長に頼まれ、不動産広告のデザインを佐々木に依頼するようになっていた。
佐々木は自らが営業に歩く中で、不動産関係の仕事も請け負っていた。
純子は無口でいかにも勤勉な、そして実直で誠実な人柄の佐々木に心が動いていた。
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<参考>
1960年6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死。
中継をしていたラジオ関東の島碩弥も警棒で殴られ負傷する。
国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。


岸信介首相が安保改定に乗り出し、米側と話し合いがもたれ、新安保も現実味をおびた。 だがやがて反対デモが活発化し、1960年5月19日には新安保条約が強行採決される。 請願デモは岸内閣退陣を要求する抗議デモへと変わり、6月15日には国会での衝突のなか、東大生・樺美智子(22歳)が死亡した。 反対デモは想像を絶するものであった。
2013年11 月21日 (木曜日)
創作欄 真田と純子 3)
純子は不動産屋の社長の小島勝治に勧められて、宅建の資格を取得することとなった。
「女の私には無理です」小島社長から法令集を手渡された時は、純子は固辞した。
「純子君、あんたは俺より頭が賢い、受けてみろ。試験は簡単だ。受かるからね」
中卒の先輩社員の北島銀次も2年前に受験し受かっていた。
当時はそれほど難しい資格ではなかったのだ。
宅建試験は、昭和33年に第1回の試験が行われた。
その当時は、現在の「宅地建物取引主任者」ではなく、「宅地建物取引員」という名称でった。 30問の時代〔昭和33年(1958)~昭和39年(1964)〕「宅地建物取引員」の7年間は、権利の変動(9~12問)、法令制限(6~9問)、宅建業法(4~6問)、税法、鑑定評価、需給取引、土地建物(5~8問)であり、 この時代は、宅建業法の出題は比率的には高くはなかった。
当初は、法令集が持ち込み可であった。
結局、純子は昭和39年の試験を受けて宅地建物取引員になった。
また、自動車の免許も取ったが、これも費用を小島社長が出してくれた。
その日、小島社長と先輩社員の北島は外出していた。
不動産屋のガラス戸に掲示してあった物件を見て入って来た若い男が佐々木則夫であった。 「あの、このビルの物件ですが、どこですか?」
事務員の多田房江が応対した。
「九段下ビルですね」多田はカラス戸の裏からその物件を確認した。
純子はお客を応接セットに招き入れた。
「九段下ビルは大正時代に建てられた古いビルですが、確りとした建物で賃貸料は格安です」純子は微笑んだ。
「坪いくらでしょうか?」佐々木は右足が不自由の様子であり、その足を右手で引き寄せるようにしてソファーに座った。
「坪3000円です。部屋は5坪と狭いのですが、いかがでしょうか?」
「5坪、ちょうどいいな」
結局、純子は佐々木を九段下ビルに案内した。
ちなみに、1950年代の後半に坪2000円が3000円になり、1960年代の後半には一挙に倍の坪6000円となっていく。
民間賃貸住宅では住宅ブームの1960年代、特に60年代後半において、大規模な家賃の「実質的」値上げが起きている。
昭和39年に地下鉄東西線が開通しており、九段下ビルは地下鉄九段駅から徒歩2分ほどの立地であった。
2013年11 月19日 (火曜日)
創作欄 真田と純子 2)
「教会で祈っていると安心感があります。そして、なにより前向きになれて、喜びが湧いてくるんです」
何時か純子が目を輝かせるようにして言っていた。
高揚感に包まれていたのであろう。
だが、今日の純子の目は虚ろであった。
喫茶店にはヨハン・ゼバスティアン・バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのバロック音楽が流れていた。
真田は予感していた。
別れの時がきたのだ。
「純子に好きな男ができたんだね」
純子は率直に頷いた。
若い純子が新しい恋をすることは必然であった。
真田と純子の関係は恋愛ではない。
純子は真田に戦死した父親への思慕の情愛を重ねていた。
真田は東京大空襲で亡くした娘への思慕と同時に妻の面影に似た純子に心が動かされたのだ。
戦後ずっと闇ブローカーとして生きてきた真田にとっては、心が解放され満たされるような2年余の男女の交情であった。
「これ以上長く続けるとこのまま、ズルズルと行ってしまいそうで・・・」
純子は涙を流して心の内を吐露した。
「そうだね。潮時と言うよね」
真田に未練はあったが、純子の涙に真実を見る想いがしたのだった。
真実とは? 
真田自身が自覚していることであった。
「信頼をしていたのに!」
純子は真田を安心できる男だと思い込んでいたのだ。
真田は初めから純子を一人の女と見ていたのである。
純子は父親のような年の差の真田を性愛の対象とは思っていなかった。
後楽園競輪が開催された日、レースが終わって水道橋の寿司屋へ誘われた。
その後は真田が行きつけの神田のバーで深夜までウイスキーを飲みながら話し込んだ。

そして、湯島のホテルに誘われたのである。
「部屋を二つ取るからね」真田は純子に配慮した。
「私、同じ部屋でも大丈夫ですよ」純子は警戒心もなく言う。
それで、真田は誤解をしたのだった。
「この女は男を知っているんだ」
2013年11 月15日 (金曜日)
創作欄 真田と純子 1)
真田は君嶋純子とお茶水駅に近い音楽喫茶で待ち合わせをしていた。
店内にセレナーデが流れていた。
「誰が歌っているのか?」と耳を傾けた。
店の人に聞くと、歌手はベニャミーノ・ジーリであった。
真田はソーダー水を飲んでいた。
サクランボが添えてあり、コップに手を差し入れて、それを摘んで食べた。
真田の妻は山形県南陽市の出身であり、故郷の母親からサクランボが送られてきた。
真田は妻の冬子の故郷へ何時か行こうと思っていた時があったが、戦争が始まり行き損ねた。
「大切な話があります」と電話で純子が言っていた。
「大切な話? それは何?」真田は聞き返したが、純子は「会ってからお話します」と言った切りである。
純子は水道橋の駅から歩いて5分ほどの不動産会社に勤めていた。
闇ブローカーの真田は不動産関係も手掛けていた。
その関係で純子との交情に発展した。
日曜日に純子を連れて後楽園競輪へ行く。
純子にとっては初めての競輪だった。
「こんなにも、競輪をする人、多いんですね」 競輪場へ足を踏み入れて純子はその喧騒と人の多さに圧倒された。
レースが始まると金網にしがみつくようにしてファンたちは絶叫した。
そして口汚い言葉が場内に飛び交った。
真田は冷静そのもので、鋭い視線を送っていた。
その目は獲物を獲る野獣のようであった。
純子は競輪場そのものに異様なものを感じた。
「この人たちは尋常ではない」純子はその場を立ち去りたい気持ちになった。
「競輪、どうだい。おもしろいだろ? 競輪は人間的なんだ」
「人間的?」純子にはその意味が分からない。
真田も詳しくは説明しなかった。
純子の心は揺れ動いていた。
親子ほど年が違う真田とこれ以上、深い交情を重ねていくことに疲れてきたのだ。
純子は中野駅から歩いて10分ほどのアパートで暮らしていた。
アパートの隣に住む沢口園子に度々銭湯であっていた。
銭湯の帰りには喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだり、甘味を専門とする店に立ち寄ったりして、かき氷やあんみつを食べていた。
それもささやかな楽しみとなっていた。
「私、日曜日は新大久保の教会へ行っているのよ。純子さんもどう?」と誘われた。
「教会?」
「そうよキリスト教の教会」
「一度だけならならいいかな」と純子は心で思い園子に着いて行く。
「神は人間を創造された」
「神は過去にも人間を復活された」
「神は将来、人間を復活させたいと思っておられる」
「亡くなった大切な人たちにまた会えます」
教会で初めて聞く言葉は純子は違和感を覚えたが、「亡くなった大切な人」にの言葉を聞き純子の心が動いた。
1941年生まれの純子は4歳の時に、母菊子の実家の甲府へ疎開していた。
母親は両国の自宅へ整理のために戻り、1945年3月10日の東京大空襲に遭遇し、命を落としたのは実に皮肉であった。
地方の甲府も空襲に遭っていたので、東京へ戻ることを菊子の母親鈴が反対した。
「家の整理なんて、いつでも出来じゃないか。東京へ戻るは反対だよ。よしな」 だが、それを振り切るようにして菊子は上京したのだ。

後楽園競輪が廃止され、それを機に真田は競輪から遠ざかったのだが、それまではずっと競輪三昧であった。
10分ほどして、純子が喫茶店にやってきた。
黒いロングスカートに赤いトックリのセーター姿であり、小さい革のバックを左手に下げていた。
真田が首筋に付けたキスマークを隠すための純子はトックリのセーターにした。
三面鏡を覗いて純子はキスマークに気づいのだが、普段のように胸もとを開けた衣服では恥をかくところであった。
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○ 東京大空襲
東京大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。

東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い[1]。都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。

○ 後楽園競輪
1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。
○ サクランボ
学名はPrunus aviumで、バラ科サクラ属。
西アジアの原産で、明治初期にヨーロッパから移入された。桜桃とも呼ばれる。 
○ 山形県南陽市

山形県南陽市の西部、漆山地区を流れる織機(おりはた)川のそばに、古くから民話「鶴の恩返し」を開山縁起として伝承している鶴布山珍蔵寺がある。
この地区には、鶴巻田や羽付といった鶴の恩返しを思い起こさせる地名が残り、明治時代には製糸の町として栄えた。
地域に口伝えで残されてきた鶴の恩返しをはじめとする多くの民話を、これからも伝えていくために夕鶴の里資料館、語り部の館がつくられた。
1967年(昭和42年) 4月1日 - 宮内町、赤湯町、和郷村が合併し、南陽市誕生。

○ ベニャミーノ・ジーリ
Beniamino Gigli : ベニャミーノ・ジーリ(1890年3月20日 - 1957年11月30日)は、イタリアのテノール歌手。20世紀前半の最も偉大なオペラ歌手の一人である。
http://www.youtube.com/watch?v=qmGSV1ttzqM&list=RD02i_mNHsiaKNg
http://www.youtube.com/watch?v=ru8Lf_SAPIo&list=RD02YkvjWlqrcU8
http://www.youtube.com/watch?v=qmGSV1ttzqM&list=RD02i_mNHsiaKNg

創作欄 真田と公子 1)

2016年09月05日 17時04分44秒 | 創作欄
2013年12 月 9日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 1)
競輪ファンである真田は、競輪選手である松本勝明が日本プロスポーツ大賞に選ばれた時、溜飲を下げた思いがした。
マイナーなイメージが定着し、真田が通っていた後楽園競輪は、1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)。
だが、皮肉なことに競輪選手である松本勝明の実績が評価されたのである。
真田は松本勝明選手が出るので久しぶりに取手競輪場へ行った。
すでに松本選手は44歳であり往年の走りを失っていたが、自転車競技の感動を改めて味合う。
真田は62歳になっていたが、気持ちは松本選手への強い思い入れがあり、同世代のつもりになって応援する。
結果は松本選手の負けであったが、松本選手の主導権を握る競争スタイルとそのプロセスに満足することができた。
競輪が終わって、真田は取手駅前の居酒屋で酒を飲んだのであるが、思いがけなくその店で真田は元女子競輪選手に出会う。
1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたので、主だっ選手を真田は覚えていたが、取手に元選手の大田栄子が在住していたのである。
大田栄子は35歳になっていた。
栄子は高校生時代はバレボールの選手であり、競輪好きであった父親の勧めで女子競輪選手になったのであるが、8年前に女子競輪はファンの指示も得られずは廃止されてしまった。
原因は男性選手の競輪競技に比べ、レース運びが単調であり、プロスポーツとしての面白みに欠けていたことは否めない。
つまりエキサイティングな競争競技ではないので、ファンたちに飽きられたのだ。
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<参考>
歴代大賞受賞者・団体・スポーツ種類
1968 1 西城正三 プロボクシング
1969 2 読売巨人軍 プロ野球
1970 3 大鵬幸喜 大相撲
1971 4 長嶋茂雄 プロ野球
1972 5 松本勝明 競輪
2013年12 月 6日 (金曜日)
創作欄 真田と千代 4)
千代は母が亡くなった時、遺品を整理した。
その中に桐の箱に入った金杯を見つけた。
「戦没者叙勲記念」と書かれていた。
千代の父親はアジアの南方で戦死していて、それが唯一の生きた証であった。
母と父の結婚生活はわずか2年であった。
その金杯を貴金属店で鑑定したみたら、ほとんど価値のないものであった。
母が誇りにしていた「お国にから頂い金杯」はそのようなものであったのだ。
終戦後まだ若かった母は再婚できたが、独身を貫き一人娘の千代を育てた。
真田は千代からそのようなことを聞かされ、切ない気持ちになった。
「お国のために・・・」 満蒙開拓団満蒙開拓移民は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された。
中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。
日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。
満蒙開拓青少年義勇軍は15歳~19歳の若者で編成された。
千代の母親の弟も15歳で満州に渡って命を落としている。
母親の長兄は教師の立場から教え子たちを送り込む立場にいた。
生き残って日本へ戻ってきた教え子は誰も居なかった。
長兄は罪悪感にとらわれ、戦後は教師を辞め農業に身を転じた。
真田と母親の長兄が偶然、同じ師範学校出身学校であった。
真田も戦後、教師に戻ることはなく闇市で無頼の徒に身を落とした。
教え子たちに言っていた「お国のために」が不遜であったのだ。
戦場では「天皇陛下万歳」と叫んで、「万歳突撃」で戦友のほとんどが無為な死を遂げた。 「戦争は、無謀だったのね」千代は真田から「万歳突撃」の実態を聞かされた。
「戦後、何度も戦場が夢に出てきて、うなされた。それを紛らわすため酒を無茶飲みし、賭博にものめり込んだ。ヒロポンもやった」
「ヒロポン?」
「ヒロポンは覚せい剤なんだ。一時的に疲労や倦怠感を除き、活力が増大に錯覚させられた。それで中毒になった奴もいた」
もはや戦後とは言えないが、戦争の傷が完全に癒えたわけではなかった。
1970年安保に多くの国民は距離を置いたが、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。
1970年安保は1960年安保に比べると反対運動はあまり盛り上がらず、世論も、安保延長は妥当という見方が強まっていたため、大規模な闘争にはならず収束した。
還暦を迎え真田の戦後も終わったのである。
「60歳になったのね。お祝いをしなけば」と千代は言った。
「そんなものよしてくれ」と真田は苦笑した。
60歳まで生きてこられたことが奇跡のようにも思われた。
千代はバーの経営を続けていた。
「私には水商売が合っているの」
「そうかい。好きなようにしればいい」真田は千代を束縛するつもりはない。
女子大生であった竹内雅美は都市銀行に就職した。
時どき同僚たちと飲みに来て、店でカラオケを歌っているそうだ。
真田は千代と一緒に暮らし初めてから、店へ顔を出していない。

http://www.youtube.com/watch?v=m0u0yzJ5y-g  

http://www.youtube.com/watch?v=8OjDIq5uyi8

2013年12 月 3日 (火曜日)
創作欄 真田と千代 3)
「恋や愛に理屈はない―と誰かが言っていたけど、私が真田さんに、男として惹かれたのは理屈じゃないの」千代が言う。
「一緒に暮らそうか?」真田はホテルのベッドから身を起こしながら手枕をしている千代を見詰めた。
千代は左手を出して、「起こして」というので、真田はその手を握り引き寄せた。
「そうね。考えておくわ」 千代は女子大生の竹内雅美と自由が丘の一軒屋に暮らしていたので即答を避けた。
真田は原宿の分譲マンションで暮らしていた。
これまでずっと一人で暮らしてきた真田であったが、家で待ってくれる人がいることを欲する気持ちになっていた。
「俺も家庭の温もりや安堵を求めていたのか?」自分の気持ちの変化にむしろ驚いた。
真田は何時も誰かを好きになっていたい、という質の男であったが、好きになった女と暮らそうとは思っていなかった。
「会いたければ会いにいけばいい」と割り切っていた。
また、去って行く女を追いかける気持ちもなかった。
もし、戦争がなかったら、妻子と平凡に暮らしていただろう。
真田は何時の間にか、東京大空襲で失った妻子の夢を見なくなっていた。 そ
れなのに、父母や兄弟たちの夢は見ていた。
夢の中の自分は旧制の中学生の姿のままである。
夢の中には初恋の人も出て来た。 相手はお寺の女の子で内気であった。
当時の女の子は着物姿であり、いかにも立ち居振る舞いがおっとりとしてた。
可憐で繊細であり大和撫子というイメージである。
初恋の子の姫木園子は出会うとうつむいて顔を赤らめていた。
真田が長い髪の女に好意を寄せるのは、初恋の女の子の思い出が原型になっていたと思われる。
里山の一本の田舎道にたたずみ、真田を帰りを待っていた少女の姿が夢に何度も出てきた。 「最近、真田さんの夢を見る」と千代は言っていたが、真田の夢は不思議と日本の戦前の原風景のなかで展開された。
2013年11 月30日 (土曜日)
創作欄 真田と公子 2)
看護婦の小西公子は、真田が考えているような女ではなかった。
上昇志向が強く、しかも優しさから不幸な人、悲惨な状態に置かれている人々に対して憐憫の情を注いだ。
公子はある日、ベトコンの若い女性兵士が囚われ、南ベトナムの兵士たちに川の中で責め苦にあっている写真を週刊誌で見て、大きな衝撃を受けた。
女性兵士は公子と同世代と思われた。
その1枚の写真が、女性兵士が置かれている立場を如実に物語っていた。
女性兵士は長い髪の毛を鷲づかみにされ、川の中にしばらく頭を埋められ窒息する瞬間に、頭を川面に引き戻された写真である。
片手を捻じ挙げられている。
別の兵士が憎しみの表情を浮かべ横から女性兵士のお尻を軍靴で蹴っていた。
女性兵士は泣き顔になっていた。
その写真を見てから数日後、先輩の看護婦に誘われて公子はベ平連に関わった。
真田は心の優しい公子と過ごすと気持ちが穏やかになった。
何時も傍にいてほしいと思ったが、公子には夜勤があった。
「公子、よく働くね。カラダは大丈夫かい?」
その日、公子は夜勤明けであったが、真田に会いに来てくれたが、だいぶ疲れているように見えた。
「今月は夜勤が10回なの」 と深いため息をついた。
「10回?! 3日に1回だね。それは酷いな」 真田は目を丸く見開いた。
公子は喫茶店の2階の窓から道ゆく人に視線を注いでいた。
「日本は、平和でいいわね」
「そうだね」真田はタバコを吸う。
「私にも、1本ください」
「公子はタバコのむのかい?」真田は怪訝な表情を浮かべた。
「看護婦はタバコのむ人多いの」
ピースを1本箱から出して真田は公子の口に近づけた。
そしてライラーで火を付けた。
「タバコは、どうすえばいいのですか?」
公子は指にタバコを挟みながら、火が着いた部分を確認するように見詰めた。
「たばこは、呼吸をするようにすえばいいんだ」
公子はタバコを口に含むようにして、煙を少し吸い込んだ。
真田はそんな公子を愛おしいと見詰めた。
まるで、子どもがイタズラをした時のような表情を浮かべ肩をすくめた。
「これが、タバコの味なのね。いいものね。先輩たちがタバコをのんでいるの、分かる気がする」
公子の笑顔は疲れを徐々に癒していくようにも映じた。
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<参考>1
ベトナム反戦運動ベトナムに平和を!市民連合
略称「ベ平連(ベへいれん)」)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。ベトナム戦争(1960~75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。
それまでの反戦運動に比し、ベトナム反戦運動は、質的にも量的にも、はるかに際だったものであった。
とくに戦争当事国アメリカの中で、自国の戦争政策に反対して行われた運動は、軍隊内部での抵抗をも含めて、
第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であった。
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<参考> 2
二・八闘争】(ニッパチトウソウ) 1965年、人事院は夜勤制限の必要性を認め「夜勤は月平均8日以内」「1人夜勤の禁止」などの「判定」を出した。 この判定をテコに1968年、新潟県立病院における看護婦の実力行使を背景とした「夜勤協定」獲得のたたかいが始まり、それを皮切りに「2人以上・月8日以内」夜勤制限を要求する実力闘争が全国的に広まった。 「2人以上・月8日以内」の数字をとって「二・八(ニッパチ)闘争」といいます。
2013年11 月29日 (金曜日)
創作欄 真田と公子 1)
真田は何者かに背後から拳銃で撃たれ新宿の医科大学病院に救急車で搬送されていた。
幸い弾丸は22口径のものであり、しかも撃たれ場所が腰であった。
相手は真田を殺すつもりではなく、意図をもって警告を発したのだとも思われた。
色々とこじれている問題もあった。
真田は警察の事情聴取を受けたが、加害者には実際のところ心当たりがなかった。
真田は仕事の内容を根掘り葉掘り聞かれたが、コンサルタント業で通した。
いわゆる仲介業であり何でも屋でもあったのだ。
当然、警察は胡散臭い男だと目を付けただろう。
そんな真田に看護婦の小西公子は温かい心遣いで接してくれた。
真田は聞かずには居られなかった。
「あんたの、その優しさはどこから、くるんだろうか?」
「わたしは、自分が選んだ看護の仕事を忠実にしているだけです」
小西の微笑みは人の心を癒すものであった。
小西のネームプレートを見詰めながら「小西さん、あんたは独身かい?」と真田は聞いてみた。
「独身ですよ」と言いながら、小西は交通事故で入院している若い男の病床へ向かった。
「独身かい。結婚したら、いい奥さんになるよ」真田は小西の背後に言葉を投げた。
公子は父が戦死し、小学校4年生のころから、日雇いの仕事をしていた母に代わって家事などを担っていた。
弟や妹の面倒もよく見ていた。
公子は進路について相談したところ、中学校の担任の教師から「君は看護婦の仕事に向いているかもしれないね」と言われた。
そこで、家計を支えながら勉強できる看護の道を選んだ。
当時、競争率が高かった千葉県内の准看護学校へ進んだ。
人間関係は不思議なもので、公子は真田に好意を寄せたのである。
真田は50歳になっていたが、男の魅力を感じさせる男であった。
真田に父性を公子は感じたのである。
この感情は純子にも共通する情愛でもあった。

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創作欄 真田と栄子 1)

2016年09月05日 16時58分24秒 | 創作欄
2013年12 月13日 (金曜日)
創作欄  真田と栄子 5)
「真田さん、ご家族に連絡したのですか?」
大田栄子は気遣った。
「独り身なんだ」
「ご家族はいなのですね」
「そうなんだ。心配する者がいない、ということは気楽だね」真田は笑顔になった。
「私と同じですね」 栄子も微笑んだ。
「栄子さんに家族はいなにの?」
「そうです。私に女子競輪選手になるように勧めた父は52歳の時に脳内出血で亡くなりました。植木職人をしていて、ギャンブル好きでした」
「52歳! 若すぎる死だね」
「倒れて、一度も目覚めることなく亡くなりました」栄子は涙ぐんだ。
真田は麻雀仲間が同じ52歳の年に心筋梗塞で呆気なく逝ったことを脳裏に浮かべた。
癲癇持ちで突然発作が起きて、「あ~」と叫びながら雀卓に倒れこんだり、床に倒れ込んだりしていた。
真田たちは何度か男の発作が収まるまで見守った。
その男は大手の電機メーカーの工場に勤務していたが、土曜日に雀荘に表れ徹夜麻雀に加わっていた。
その日も男は癲癇の発作をおこしたのだと真田たちは思った。
だが心筋梗塞であったのだ。

突然死んだ男は真田より2歳年下であった。
栄子は真田の姿に死んだ父を重ね見た。
父が生きていれば同世代と思われたのだ。
「栄子さんのおふくろさんは?」
問われて栄子の顔は複雑な表情となった。
「母は・・・母は私が小学校2年生の時に居なくなりました」
「居なくなった?」
「家へ帰って来なくなったの」
真田は栄子の悲しげな顔を見詰めながら余計なことを聞いたと悔やんだ。
2013年12 月12日 (木曜日)
創作欄 真田と栄子 4)
若い倉持由紀江ととりとめのない話をしていたが、真田は突然、メランコリーな気分となる。
尿意をもようしたのでトイレへ向かう。
そして戻ってくる間に異変が起こった。
右足がつるような感じがした。
トイレから戻ってくるまでおしぼりを手に由紀江が立ったまま真田を待っていた。
その笑顔が揺れているように見えた。
ボックス席に着いた真田は受け取ったはずのおしぼりをテーブルにおとした。
右手がまるで骨折したようにだらりと重く垂れ下がった。
そして手首に痺れが走った。
それは電流が走ったような軽い痛みであったが、脱力感で手首の辺りが重くなっていた。
酒を飲めば収まるだろうと盃を右手でつかんだが、それを床に落とした。
「真田さん、どうかしましたか」 由紀江は真田の顔を覗き込むよに見詰めた。
「大丈夫、疲れが溜まったたんだ。徹夜麻雀もしたしね」
頭を何度も振りながらボックス席に背中をもたげると、真田の意識が遠のいていく。
結局、真田は取手駅前の通りに面した取手協同病院に運ばれた。
「俺は、いったいどうしたんだ」 ベッドに横たわっている自分の姿に真田は愕然とした。
「ここはどこだ?」真田は豆電球が灯る天井を見上げながら身を起こした。
古い部屋であり木製のガラス窓の外は闇に包まれていていた。
腕時計を見ると午前2時であった。
実はこの病院に戦前のことであるが、作家の坂口安吾が住んでいたのである。
真田は翌朝、看護婦から脳梗塞を起こしたことを聞かされた。
「真田さん、運がよかったですよ。比較的軽い脳梗塞だったのよ」
40代と思われる小太りの看護婦は、検温をしながら言う。
「脳梗塞だったんだ。気を失って何も覚えていない」
「この病院が、駅前でよかったのよ」
「病院は取手駅前にあるのか」
「そうね。駅まで1分ほどよ」
午後2時ころ、元女子競輪選手だった大田栄子が真田のことを心配して病室にやってきた。
「真田さん、昨夜は驚いたわ。倒れた時はどうなるかと思って・・・」
「俺は倒れたんだ」
「席から床に転げ落ちたのよ」
「そうだったのか」
栄子は何時ものように午前2時に店を閉めて、起きてからすぐに銭湯の朝湯に入り、掃除、洗濯をしてから真田の見舞いに来たのである。
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<参考>

茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院 (旧・茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院
1976年 9月 旧取手協同病院と旧龍ヶ崎協同病院とが合併 現在地に新築移転し取手協同病院となる

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坂口安吾(小説家)1938年から2年間、取手病院に住み込む。
1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで小田原に移住する。
2013年12 月12日 (木曜日)
創作欄 真田と栄子 3)
「居酒屋では、日本酒を飲んでいましたね。やはり日本酒ですね」
栄子はおしぼりを出しながら尋ねた。
「取手の地酒があれば、それがいいな」
「それなら、田中酒造の君萬代ですね」
「ユキちゃん、君萬代をお願い」と大田栄子は立ち上がってカウンター内の倉持由紀江に声をかけた。
間もなく由紀江が日本酒を運んできた。
20代と思われた由紀江はまだ18歳であった。
男好きのする顔立ちであり愛想が良くて由紀江を目当てにバー「ジャン」に通ってくる客の多かった。
髪をアップにしているので大人びて見えた。
「ユキちゃんお願いね。私は向こうへ行くから」と栄子はカウンター内へ入った。
常連客はみんなかつての栄子の競輪ファンたちであった。
「お客さんは、どこからいらしたんですか?」
真田は濃紺のスーツを着ていて、地元取手の人間には見えなかったようだ。
「東京の自由が丘から」真田は日本酒を一口飲んで答えた。
口あたりはまろやかで思いのほか美味しい地酒であった。
「日本酒を美味しそうに飲むですね」
由紀江が微笑むと幼さが漂った。
「君はまだ、高校生みたいに見えるね」
「来月、19歳になるの」
「若くていいな」
「お名前、お聞きしていいですか?」
「真田、生まれは長野県の松本だけど、残念ながら真田幸村の子孫ではない」
由紀江には真田幸村が何者であるか知識がなかったので、話が通じなかった。
「真田さんは取手競輪に来たのですね」
「そう、往年のスター選手だった松本勝明が出ていたのでね」
由紀江は競輪の知識がないので、松本勝明の名前を出しても反応がない。
「ママが元女子競輪の選手だなんて、すごいことようね。お風呂に一緒に入って太腿を見てびっくりしたの」
由紀江は両手で輪を作りながら、「ママの太腿は、私のウエストくらいあるのよ」と無邪気な笑顔となる。
真田は栄子の太腿を見てみた衝動にかられた。
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<参考>
真田 信繁 / 真田 幸村 は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
真田昌幸の次男。

江戸時代初期の大坂の陣で活躍し、特に大坂夏の陣では、寡兵3500を持って徳川家康の本陣まで攻め込み家康を追いつめた。
戦国乱世最後の英雄であり、大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。
さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。
そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。
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http://www.kimibandai.sake-ten.jp/history.html
2013年12 月11日 (水曜日)
創作欄  真田と栄子 2)
競輪好き人間であれば、競輪女王であった田中和子元選手のことを誰もが知っているであろう。
田中選手は1955年に「全冠制覇」達成し女子競輪における唯一の選手であった。
特別競輪を実に15回制覇している。
驚愕ともいえる強さであり、落車を1回した以外は全て1着だったという年まであった。
神奈川の渋谷小夜子も強かったが、渋谷が引退すると田中和子は独擅場の強さを誇るようになった。
後続をぶっちぎって悠々と1着ゴールしたケースも数知れなかった。
「田中和子は強かったね」真田は田中和子の走る姿を思い浮かべた。
「本当に、田中さんは強かったです。とても私には勝てませんでしたね」
元女子競輪選手の大田栄子の目が輝いた。
まさか取手駅前の居酒屋で元女子競輪の選手と出会い、女子競輪時代の昔話ができるとは真田は思わなかったので気持ちも高揚してきた。
大田栄子は実はバー「ジャン」という店を経営していて、居酒屋で客引きをしていたのだ。
居酒屋の店主は競輪好きであり、選手時代の大田栄子のファンの一人であったので、店内での客引きを大目に見ていた。
競輪帰りのファンの常連客でその居酒屋は競輪開催日には賑わっていた。
「私の店に来ませんか?バーですが日本酒も置いています」
真田は喜んで誘いに応じた。
通称祇園横丁にバー「ジャン」はあった。
カウンター席とボックス席二つがあり、10数人で一杯になるほどの広さである。
店には、20代の女性と40代と思われる女性が居た。
カウンター席に6人の男性客が居て、その日の競輪の話などをしていた。
大田栄子はビックス席に真田を招き、接客した。

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<参考>
取手地区はかつて、陸前浜街道の宿場町として栄え、本陣をはじめ、旅館や茶屋が並ぶ陸上交通の要所であった。
また、江戸時代中期から明治時代にかけて諸藩の産物を運搬する利根川水運が盛んであった時代には、宿場町として河岸を中心に発展した。
昭和22年取手町に井野村を編入し、昭和30年、取手町、稲戸井村、寺原村、小文間村と高井村の一部が合併し、取手町が誕生した。
昭和40年を転機に日本住宅公団、民間の宅地開発、大手企業の進出などで人口が急増し、同45年10月、取手町は、県内17番目の市制を施行した。
1970年(昭和45年)取手町は取手市となった。
取手は、地域の中央部を南北に水戸街道(国道6号)が通る。
1970年代から1980年代にかけて東京都心のベッドタウンとして開発され人口が増加。
1971年(昭和46年)上野―取手間は複々線化により輸送力が上がっている。

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<参考>
女子競輪
最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていった。
また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。
そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した。
なお、女子選手が男子選手と結婚し、その子供も競輪選手になったという例もある。
女子競輪が衰退していった理由としては、男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、 ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと。
女子の強豪選手は西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。
「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。
元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。
圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を輩出できなかったこと。
一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。
最初から選手の質の維持に問題があったことなど。
2013年12 月 9日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 1)
競輪ファンである真田は、競輪選手である松本勝明が日本プロスポーツ大賞に選ばれた時、溜飲を下げた思いがした。
マイナーなイメージが定着し、真田が通っていた後楽園競輪は、1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)。
だが、皮肉なことに競輪選手である松本勝明の実績が評価されたのである。
真田は松本勝明選手が出るので久しぶりに取手競輪場へ行った。
すでに松本選手は44歳であり往年の走りを失っていたが、自転車競技の感動を改めて味合う。
真田は62歳になっていたが、気持ちは松本選手への強い思い入れがあり、同世代のつもりになって応援する。
結果は松本選手の負けであったが、松本選手の主導権を握る競争スタイルとそのプロセスに満足することができた。
競輪が終わって、真田は取手駅前の居酒屋で酒を飲んだのであるが、思いがけなくその店で真田は元女子競輪選手に出会う。
1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたので、主だっ選手を真田は覚えていたが、取手に元選手の大田栄子が在住していたのである。
大田栄子は35歳になっていた。
栄子は高校生時代はバレボールの選手であり、競輪好きであった父親の勧めで女子競輪選手になったのであるが、8年前に女子競輪はファンの指示も得られずは廃止されてしまった。
原因は男性選手の競輪競技に比べ、レース運びが単調であり、プロスポーツとしての面白みに欠けていたことは否めない。
つまりエキサイティングな競争競技ではないので、ファンたちに飽きられたのだ。
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<参考>
歴代大賞受賞者・団体・スポーツ種類
1968 1 西城正三 プロボクシング
1969 2 読売巨人軍 プロ野球
1970 3 大鵬幸喜 大相撲
1971 4 長嶋茂雄 プロ野球
1972 5 松本勝明 競輪

物事に満足したら、発明は生まれない

2016年09月05日 11時33分31秒 | 社会・文化・政治・経済
★だれよりも「聞き上手」になればいい。
その上で大事なことは「自分の“心”に豊かな中身があるかどうかだ」
★実は発明の多くは生活の中から生まれている。
発明は、難しいことではなく、自分にできることをやればいい。
「こうしたら便利になるのでは」と思うことに時間をかけて一生懸命やる。
ただその際、人が困っていることをどうにかしたいという優しさから発想することが大事だと思う。
発明に向いている人は?
不平不満が多い人だ。
実は不平不満をいう人は問題を見つける視点を持っている。
物事に満足したら、発明は生まれない。
町の研究家を応援する「発明学会」中本繁実会長
★全ては、「源流」の「勢い」と「団結」で決まる。
★人を育てる人が、真の人材である。

























「開かれた対話」が重要

2016年09月05日 11時18分13秒 | 社会・文化・政治・経済
★仏教には、地球上に存在する多くの課題を解決する力がある。
★それゆえに、仏教の精神が現代に生きている。
★飢餓や不平等、差異差別、民族差別などのさまざまな課題に取り組むために、仏教の思想が啓発の源になる。
★つまり、仏教は社会に深く根差した宗教である。
★仏教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などを結ぶ宗教の「懸け橋」となる存在である。
★「開かれた対話」が重要である。
★今日の消費文化は、「あなたは決して満たされない」とのメッセージを送り続けている。
テレビを1台持てば、2台目、3台目が欲しくなるように。
★しかし、後先を顧みない資源の浪費が、深刻な環境汚染を引き起こしている。
★人間はもっと質素な生活に立ち返るべきだ。
★仏教は「足るを知る」と教えている。
こうした思想は、地球環境の保全にも資するのではないだろうか。
★ともあれ、消費文化は物質に最大の価値を置くものだ。
★購買意欲を刺激する宣伝が入り乱れる中で、私たちの生活は、浅はかで不安なものへと変わっていく。
★いつしか人々は自ら思索し、価値を創造することを諦め、受動的な「買い手」としての生き方にとどまってしまう。
★人は、消費をあおられる対象物ではない。
★文化の主体者であり、価値の創造者なのだ。
このことを、多くの人が知るべきだ。
★歴史上、人類は宗教や思想を背景に他者を征服し、信仰を奪ったり、押し付けてきたことは事実である。
そうした宗教間の対立を、繰り返してはならない。
★他の宗教を尊重し、協力し合う一方で、自らの思想と信念を失わないことだ。
全ての宗教が画一されるのではなく、それぞれの持つ特徴を、輝かせていくことが大切だ。
★宗教を超えた対話が重要だ。
★受け身ではなく、主体的な実践の中で信仰を深めてこそ、価値を創造することができる。
ハーバード大学・ハービー・コックス名誉教授

言葉の力

2016年09月05日 10時07分13秒 | 社会・文化・政治・経済
★言葉の力とは、言葉を生み出す人の「心」の強さであるにちがいない。
★「銃弾で受けた負傷はまだ治るけれど、言葉によって与えられた傷は、決して治らない―トルストイ
★言葉は「武器」である。
人を追い込む凶器にもなれば、心と心を結び付け、生きる力ともなる。
★ネットなどに言葉が氾濫する社会だからこそ、相手を思う励ましの言葉が期待される。
★心が劣化すれば、言葉も劣化する。
★人生の勝敗は途中では決まらない。
栄光は、粘り抜いた逆転劇によって勝ち取るものだ。

智慧は伝達できない

2016年09月05日 07時14分13秒 | 社会・文化・政治・経済
★「知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかない」
★“民衆から学ぼう”とする姿勢で臨んだときだけ、本質に肉薄できる。
★「相手から学ぼう」とする姿勢。
★受け止める力とは、まさに実践者から学ぶ姿勢でもある。
★つまり、知識があっても、智慧がなければ、受け止めることはできない。
★人間に内在する仏の生命は、智慧がなければ確信できないのである。
★自身の可能性の肯定か否定か・・・
人生の分岐点である。

宗教的視点

2016年09月05日 06時29分02秒 | 社会・文化・政治・経済
★自分が理解できないことを「拒否してしまう心の反応」
★インターネット上の仮名の書き込み。
仮名であることで、過激化する。
★では、実名でどこまで表現できるのだろうか?
★宗教を否定しても、宗教的なものは否定できない。
人間を超えた視点こそ宗教的視点である。
★それは宇宙的視点とも言える。
宇宙飛行士が、宇宙から地球を見た時の視点とも言える。
★死を迎えるまで「生かされている人間」は謙虚であるべきだ。
死者と生者はつながっているのだから・・・
★極論すれば、今日、死を迎える人にとって、1億円の金は無益でもある。
墓場には何も持っていけないのだ。
★苦しみのなかにこそ飛躍の可能性が眠っているということです。
今の苦しみは、あなたを将来、もっとおもしろく、深みのある人間に大成させる糧になるのです。
とにかく耐え抜くことです。諏訪中央病院名誉院長・鎌田實さん