遅かった性の初体験

2016年09月23日 18時59分57秒 | 創作欄
徹が就職活動のために初めて濃紺のスーツを仕立てたのは、昭和41年の年であった。
母親はずっと家政婦の仕事をしており、泊まりがけの日も少なくなかった。
東京・千代田区麹町の呉服屋にも派遣され、住み込みで働いていた。
そのなある日、40代前半を思われる御婦人が世田谷区用賀の借家に訪ねてきた。
「お母さんに頼まれて来ました。よろしいでしょうか?」
「頼まれた?何を?」徹は若い女性に全く縁がなかったが、この中年女性に気が許せそうに思われた。
「背広の寸法を測りに」相手は玄関のガラスドの戸口で逡巡しているような素振りに映じた。
「背広?」
「そうです。時間はそれほどかかりません。よろしいでしょうか?」
徹は一歩退くようにして「どうぞ」と相手を招き入れた。
借家は6畳と4畳半に土間の台所の間取り。
10月半ばであり、家は午後4時を回りすでに薄暗かった。
羞じらう気持ちで裸電球を徹が灯した。
家の前の道は多摩丘陵に続く林の道であり、300㍍ほど行くと尼寺があった。
徹は訪れて来て、沢田美知恵と名乗る女性が尼さんの一人にどこか似ているように思った。
「どのような事情があって、尼になったのだろうか?」文学青年であった徹は想像を膨らませた。
沢田と徹の母親の関係は分からない。
沢田は初めに徹のウエストを計った。
「ウエスト68cm?細いのですね」沢田が驚きの声を上げた。
その声は、ハスキーでしかも甘く耳障りが良く徹が憧れていた北玲子に似ていた。
徹は声に敏感な質であった。
悪性の母親の声に子どもの頃からウンザリしていた。
そして、中学時代から合唱団に所属していた姉の声に魅力を感じていた。
声変わりする前の徹の声は、姉の声に似ていたのである。
だが、その声が段々、母親の声に似てきたのだ。
「沢田さん、素敵な声をしているんですね」徹は言ってしまってから耳を赤くした。
「私の声ですか?!」沢田は心外な表情をした。
徹は気まずい気持ちとなっていた。
話題を変えねばと気持ちが焦った。
「徹さんとお呼びしていいでしょうか?」
「はい」段々、沢田に主導権を握られるような予感がしてきた。
「お母さんに似て、素敵ですよ。女の人に持てるでしょう」
沢田は跪いた姿勢で徹の顔を仰視した。
「それが、全然なんです。なぜでしょうね」徹は自分の心を他人に表出したことをむしろ怪しんだ。
「お好みの望みが高いのですね」沢田は弾みであろうか、ズボンの上から徹のペニスの脇側に指を滑らすようにした。
性体験のない徹であったが、快感が走った。
沢田は何食わぬ顔で、股下の寸法を再度計った。
そして、今度は膨らみかけた徹のペニスに頬を寄せていた。
「若いんですね。いいですよ。遠慮しなくて・・・」

生命の尊さを目の当たりにできる場所

2016年09月23日 13時14分38秒 | 医科・歯科・介護
★児童発達支援センター
「一人一人の障害特性を理解して関わっていくことが、子どもの成長に必ず通じます」
宮崎明美院長
作業療法士に道に入り40年のベテラン。
保育士たちと協力し、子どもたちと真剣に向き合う日々。
子どもたちは遊びや食事などの取り組みを通して、日常生活や集団行動の経験を重ね、自分ができることを増やす。
これを目標にしている。
宮崎さんや担任のもとには、保護者から、さまざまな悩みが寄せられる。
障害がある子どもへの関わり方はじめ、他のきょうだいへの接し方や成人後への不安。
また、夫の理解が得られず孤独感に陥っている場合もある。
母親たちが勇気を出して相談してくれたその思いに応えようと、じっと耳を耳を傾ける宮崎さん。
なかには、子どもの障害は、自分のせいではないかと感じてしまっている人も。
「そうじゃない。この子は命の大切さを伝えたくて、生まれてきたんだから。誰のせいでもないんよ」と包み込むように語る。
「この子が“生まれてきてよかった”とお母さんが思ってくれるように、お母さんが“この子と出会ってよかった”と言えるように、一緒に前を向いていきましょう」
宮崎さんにも障害のある弟がいた。
難産の末に誕生した7歳下の弟は、重度の脳性まひで寝たきり。
人はなぜ生まれながらに幸不幸の差があるんか。
弟が入園している施設でリハビリテーションの場面を目にしたことが、将来の夢を具体的にするきっかけになった。
東京の専門学校を卒業後、、都内の心身障害総合医療療育センターに作業療法士として働き始めた。
9年間、肢体不自由児等の作業療法を担当した後、故郷・岡山の社会福祉法人へ移った。
心掛けたのは治療を受ける子どもだけでなく、付き添っている母親にも積極的に声掛けを行うこと。
作業療法の時間は、週1回40分。
それ以外の長い時間を共に過ごしているほは母親や家族たち。
最も身近にいる人が元気にならなければ、子どもにも伝わってしまうという思いから、母たちの支えになりたい!と。
そうした姿勢が評価につながったのだろう。
児童発達支援センターの園長の辞令を受けた。
長年歩んできた医療の分野から福祉の道へ。
長女の妙美さんは、米国・ネバダ州立大学で音楽を専攻。
現在は、同じ社会福祉法人で、肢体不自由児の生活支援を行う。
得意の音楽生かして、施設内でオーケストラをつくり、技術指導、コンサート運営に携わっている。
「母は、私に小さい頃からいつも、人に尽くす人生を教えてくれました。私も困難があっても、勇気の一歩を踏み出す生き方を貫いていきたい」
障害のあるなしではない。
日々成長していく生命の尊さを目の当たりにできるこの場所で、お母さん方と共に、さらに成長していきたいと思います」
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相模原殺傷事件

障害者が一方的に「社会的弱者」として位置づけられている。
障害者を社会的弱者と位置づける点は容疑者と通じるものがある。
「保護する対象か「殺害の対象」か、両者の考えは真逆だ。
上から目線で「社会的弱者」とレッテルを貼っていることに違いはない。
健常者から「守べき存在」とされている。
あるいは公にすべきではない存在、存在そのものを隠す対象とされる。
警察による被害者の匿名発表。
なぜ匿名なのか?
生命次元の問題である。
つまり「生命」をどのようにとえるかである。

沼田利根

創作欄 「村八分」1)

2016年09月23日 08時05分07秒 | 創作欄
2012年12 月 8日 (土曜日)

『雄弁は銀、沈黙は金』
雄弁は大事であるが、沈黙すべき時やその効果を心得ているのは さらに大事である。沈黙を守るほうがすぐれた弁舌よりも効果的である場合のあることをいう。

物言えば唇寒し秋の風 松尾芭蕉の句である。
余計なことを言うと、それが原因となって災いを招くという意味である。
人の短所を言ったあとは、むなしい気分になることから転じているそだ。
「男はだまって・・・」の日本的な父親像をよしとしていた徹だが、沈黙できない質であった。
そのため、不本意にもしばしば人との軋轢ができてしまった。
徹自身が自己分析すると、自分は何かに拘泥するタイプであるが、いい加減な性格でもあった。
性格は粘着質のようでもあり、蛋白でもあるので、言わば両極端である。
それは父親と母親の遺伝子だと言えばもっともらしい解釈だった。
徹は12月8日には、格別な思いがあった。
挫折感からそろそろ方向転換をする時期に来ていると思ったのである。
いわゆるピンチはチャンスとも考えた。
「捨てる神あれば拾う神あり」
世の中はうまく出来ていて、見捨てる人がいれば助けてくれる人 もいる。
悪いことばかりではないよという意味を徹は実感していた。
「自分の居場所が、必ず何処かにあるはず」と希望を抱いたのだ。
歯科関係の出版社の1社であるO社の社長と徹は懇意にしていた。
社長のOさんは元高校の教師であった。
実は徹は教師に成り損ねていた。
そこで、徹はOさんに親近感を抱いた。
徹は大学で国文科を選んだが、Oさんも国文科卒であり、高校では国語の教師だった。
一方、徹は国文科なのに体育の教師を目指した。
何故、志向が体育の教師であったのかと言えば、教師として向いていると思ったからだ。
では始らか国文科ではなく体育科へ進学すれなよかったのだが、徹には詩人の道も残して置きたかったのだ。
徹は自分の過去を重ねて、Oさんに関心をもったのだ。
なぜ、元高等学校の国語教師が歯科の出版社に関わったのかと・・・

この心秘め

2016年09月23日 07時50分30秒 | 創作欄
なぜあの人を好きになったの
鏡に向かい問いかけて涙ポロポロ
この心秘め口紅をひく
明日の旅立ち伸ばせたら
この街を捨てて行けたら

不思議なほどの出会いだったの
日記に記す乙女のように
この心秘めペン走らせる
旅館の枕濡らすばかりね
あの街は遠くなるばかり

5年経ったらまた逢いたいと
男の身勝手聞き流したの
この心秘め古都の鐘聞く
新たな職場も慣れ親しんで
あの街は戻るすべない