具体的な「一人」を思う情熱

2016年09月20日 22時02分20秒 | 社会・文化・政治・経済
★「詩はね、美辞麗句を格調高く並べ、百万人のためね作ろうとしてもダメなんだ」
「たったひとりの悩み、悲しみ、訴えを書き得てはじめて百万人が耳を傾けてくれるし、泣いてくれるんんだ」作詞家・藤田まさとさん
★今、具体的な「一人」を思う情熱が、胸中に燃えて」いるかどうか。
その心から発した行動こそが、人を動かす。
★真の生命尊厳の思想は、法華経にしかない。
★学校以外の学びの場、安心できる居場所が必要。
★学校教員が多忙ゆえ、子どもの多様な発達特性に対応しきれない実態。
さらに一人親世帯の増加や「子どもの貧困」など、苦しい家庭状況がある。
★「教育のための社会」の実現へ。
★人権教育の導入はいまだに多くの課題を抱えている。
★目の前の「一人」を心から大切にする。
慈悲の医療・看護・介護を期待。





















創作欄 真田と栄子 7)

2016年09月20日 21時10分49秒 | 創作欄
2013年12 月18日 (水曜日)
創作欄 真田と栄子 7)
新四国巡礼
江戸時代の頃、巡礼が流行となり、各地に大小さまざまな巡礼地ができた。
一般に四国の八十八カ所霊場を巡礼することを「遍路」といい、巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。
新四国相馬八十八カ所霊場は、現在の取手市〜我孫子市周辺に現存する250年もの歴史のある巡礼地だ。
真田は取手駅前通りに面して存在した取手協同病院を退院した日、白装束姿の巡礼者を見かけた。
駅まで送ってきた栄子から、「お遍路さんたちよ」と教えられた。
宗教心が全くなかった真田であったが、「俺も過去の罪滅ぼしに、巡礼でもするか」と呟くように言いながら、巡礼者たちの姿を見送った。
「天皇陛下万歳」と叫んだ太平洋の島での戦場では、天皇は神の存在であった。
思えば、思うほど愚かな戦争であった。
子どもたちが大人に戦いを挑んだも同然の戦争であった。
食料と武器弾薬を運ぶ輸送船のことごとくが米国の攻撃で沈没されて、島へは補給されなかった。
まさに兵糧攻めにあった戦国時代の城のようなものであった。
さらに栄養失調の上にマラリアでも日本兵士たちは死んでいったのだ。
制空権を奪われ退路も断たれていたので、島の戦場から逃げ出すこともできないのだ。
最後は洞窟に身を潜めていたところを、アメリカ兵たちの容赦ない火炎放射器の攻撃で日本兵たちは焼き殺された。
あれは地獄そのものであった。
真田があの太平洋の島で生き残ったことが奇跡であった。
そして真田の妻子たちの命を奪った昭和20年の東京大空襲の地獄絵を真田を何度も想って見た。
神や仏など無意味な存在と思うのも必然である。
だが、脳梗塞が軽くすんだことで、真田は大きな何かの存在に生かされたのだと考えはじめていた。
これまで 虚無的な真田の心情を埋めてくれたのは出会った女性立ちであった。
自治医科大学を卒業した小西公子は医師として秋田の赤十字病院に勤務していると手紙をよこした。
「看護婦の経験を活かし、日々、患者さんたちから学んでいます。我々医療従事者は基本的に患者さんたちに育てられていることを実感しています」真田はその手紙の箇所を何度も読み返した。
巣立った娘を思う気持ちに真田はなっていた。

http://www3.ocn.ne.jp/~kumaken/index.html


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2013年12 月16日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 6)
真田は実は当時、国民的な人気プロレスラーであった力道山との因縁が深かった。
真田は仲間内から力道山が北朝鮮の出であったことを闇ブローカーの仲間から聞いていた。 真田は1956年、東京オリンピックが開催される前、東京・世田谷用賀の不動産屋で力道山と対面した。
実業家としての力道山は、オリンピックの会場の一つとなる世田谷駒沢などに目を付けていた。 だが、世田谷に居を構える右翼の大物も世田谷駒沢の利権に食指を伸ばしていたのである。 力道山は結局、世田谷駒沢などへの投資を断念して、渋谷と赤坂に後年、拠点を構えている。 真田は身長182cmであり、会ってみると力道山が小柄に見えた。
公には180cmとしていた力道山は実は176cmであった。
真田は力動山のファンであったが、力動山に危うさを感じていた。
機嫌がいい時と機嫌が悪い時の力道山の話を真田は仲間うちから聞いていたのだ。
さらに力道山は酒グセも良くはなかった。
粗暴な性格が災いしたことな否めない。
真田は力動山の死を知った時、「やっぱりな」と受け止めた。
真田は昭和40年、取手が関東のベットタウンの一つとして開発されつつあることに便乗しようと思い始めていた。
このため、取手協同病院を退院した翌月には、住まいを取手に移した。

----------------------------
<参考>
暴力団山口組三代目組長の田岡一雄は「(力道山は)酒を飲まなければ……」と自伝で嘆いている。


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創作欄 真田の人生 1)

2016年09月20日 21時08分46秒 | 創作欄
2013年12 月22日 (日曜日)
創作欄 真田の人生 1)
真田は斜めに世の中を見てきた男である。
3億円事件が起きた時、戦後の多くの事件の謎に通底する事件だと思った。
通底とは、ある事柄や思想などがその基本的なところで他と共通性を有することを意味する。
重大な事件は何故、迷宮入りすのか?
言わばそれは、それまでの常識を超えているからだ。
正解を導き出す手法の一つとして、過去の経験に負うところが大きい。
だが過去の経験や想定がないころで事件や事故は常に起こり得る。
日本の裏とも言える闇社会やギャンブルの世界に生きてきた真田にとって、過去の経験や想定など無に等かった。
つまり未来など予想できないのである。
だからギャンブルはギャンブルなのだ。
真田は闇の世界でそれなりに金銭を蓄積した。
だが、東京・新宿で出会ったわずか27歳の大沢拓郎は、麻生の高級マンションを購入していた。
「真田さん、一度、うちのマンションに来てください」と大沢は得意気に言う。
真田は直感的に大沢が3億事件に絡んでいると思った。
3億円事件は単独説ともされていたが、「複数氾だと」真田は直感していた。
さらに、この事件を国の暗部とも結びつけて考えていた。
犯人検挙のためにローラー捜査も行われた。
結果として、学生運動やいわゆる過激派運動家の封じ込めに、公安警察の情報活動にも名目を与えたのではないか?
真田は不可解な日本の戦後の事件などから類推して想像を膨らませていた。




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2013年12 月20日 (金曜日)
創作欄 真田と冬子 1)
「君には見えない部分があるんだ。それは何んなんだろうね?」
真田は30代のころ左翼運動の同士とも思われた男から言われた。
左翼運動は日本の国のあり方を変えるだろうと思われたが、真田には運動を進めるうちに違和感もあった。
真田は裏の社会で生きてきたのだから、右翼的な考えも捨てきれずにいたのだ。
真田は結局、その男と距離を置くことになるのだが、その男の愛人と親くなった。
彼女は在日2世であり「真田さんには、朝鮮の血が流れている感じがするの」と言う。
「君は朝鮮系なのか?」真田は驚いた。
真田は戦後の日本の動乱期を知ったいたので、心のどこかで朝鮮の人を警戒し蔑視しもしていたのだ。
だが、真田は女の魅力に惹かれていく。
「真田さんの子どもがほしい」と言うので、真田は応じた。
それまでの真田は家庭をもつつもりもないし、父親になるつもりもなかったで心境が変化いたのだった。
女に会いたけれ会いに行く質であり、女を束縛したり、囲い込む気持ちにはなれなかった。 また、去っていく女を追うこともしなかった。
女は金山冬子と名乗っていた。
「2月生まれなの。真田さんは?」
「俺も2月に生まれた」
「そうなの。どうりで波長が合うとなと思ったのよ」
冬子は真田の手をとり胸にあてがうようにした。
「波長か」真田は胸の温りをまさぐる。
「私の鼓動が伝わるかしら」
冬子は真田の胸に身を強く寄せた。
「私ね。妊娠したみたいなの」 冬子は嬉しそうに微笑んだが、真田にそれを喜ぶ表情はなかった。
冬子は敏感に読み取って「産んでもいいんでしょ?」と念を押すように言う。
真田は「ああ」と答えるしかなかった。
「愛してくれているのよね」
「ああ」
「愛していると言って!」
冬子は波長の狂いを懸念したようであった。
「愛しているさ」真田は冬子の瞳を見詰めた。
「この胸に誓える」冬子の目が潤んできた。
「誓う」真田は冬子を強く抱きしめた。
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<参考>
韓国でも日本でも歴史教育現場では、 日本人を「加害者」、朝鮮人を「被害者」という側面でしか教えられていませんが 実は、戦後に朝鮮人が「戦勝国民」「朝鮮進駐軍」と自称して日本全国で狼藉を働いたこと、 朝鮮半島でも朝鮮人が多くの日本人に対し虐殺や強姦などしていた加害者としての歴史があるのです。
日本が敗戦した後、日本国内にいた朝鮮人達は、「我々は戦勝国人であり、連合国人である。」と称し、「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国の法律に従う義務はない。日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない。戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」と称し、その通り実行しました。
彼らは武装解除された日本軍の武器と軍服を着て武装し 徒党を組み多くの日本人を無差別に殺しました。
GHQの記録に残ってるだけで4千人以上の日本人が餌食になりました。
それは、各地における暴行、略奪、窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、人民裁判などであり、それは酷いものであったと言います。
朝鮮人たちはやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に占領されました。
当然、日本人は在日を強く憎むようになりました。
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「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より) 
 彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
警官が駆けつけても手も足もでない。
「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。
警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
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堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した 

 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った 

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た 

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない 

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“浜松事件”は、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。
“浜松大紛争”とも呼ばれた 事件の発端

戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。

在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。

1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。

事件の概要

4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。
小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。
5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は岐阜軍政部にMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。

その後の顛末

この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円の見舞金が送られた。
同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。

            

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創作欄 真田の人生

2016年09月20日 21時06分47秒 | 創作欄
2014年1 月10日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
50歳をとうに過ぎた真田は、昭和40年代に取手が変貌していく中、今後の人生として、働き、遊び、休み、そして学ぶ生活が理想だと考え始めていた。
人間はバランスが大切だと思った。
真田が肺炎で取手協同病院で入院した時にお世話になった看護婦の二ノ宮亜紀は、生涯独身であった。
真田と親しくなってから真田が経営する喫茶店「たまりば」に姿を見せるようになった。
45歳の亜紀は若く見えた。
「ジャン」に出入りするみんなから「婦長さん」と亜紀は呼ばれていた。
亜紀はカウンター席に何時も座り、潮来出身の木村勝枝と言葉を交わしていた。
「婦長さん、お金ばかり貯めてどうするの?」 木村勝枝に問われ亜紀は戸惑い沈黙した。
「私なら旅行するな。お金があったらフランスのパリに行きたい」と勝枝は夢みるような瞳となる。
亜紀はうつむきながらバックからタバコを取り出した。
真田は亜紀を連れて海外旅行へ行こうかと思いついた。
だが、亜紀は夜勤明けの日に自宅で倒れてそのまま帰らぬ人となった。
「働く、遊ぶ、休む」バランスが大切なんだと真田は悟った。
悟ったと言えば大げさであるが、生きる知恵でもある。
同時に真田は自分には学ぶが欠落していたと思った。
競輪などギャンブルは遊びであった。
働くとは正確には言えないが、戦後の闇社会を行き抜きてきた。
たまたま金儲けの才覚があった。
だから金に不自由することはなかった。
また、女も愛してきたので性欲も満たされてきた。
思えば不足していたのは、学ぶことであった。
真田は亜紀の死を契機に取手図書館で過ごす時間を増やした。


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2013年12 月31日 (火曜日)
健康長寿を志向
寝たきりに
なりたくないね
年越しの
ソバに託す夜
温泉の宿
          東雲一樹

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創作欄 真田の人生 
真田は喫茶店「たまりば」で働く潮来出身の木村勝枝に誘われ、潮来へ行く。
「前川をゆく嫁入り舟に、子どものころ憧れたのよ」勝枝が言うので、その嫁入り舟を見に行くことにした。
真田は趣味の競輪に多くの時間を費やしてきた。
真田がこれまで行った観光地と言えば、小田原競輪開設記念や伊東競輪開設記念の帰りに、小田原に宿泊したり箱根、熱海、伊東、川奈、網代、伊豆の下田に足を伸ばしていた。
「茨城県民になったんだ。茨城の観光地巡りもせねば」と真田は店で言う。
真田は電車で行くことを考えていたのだが、「俺も行こう」と客の染谷勉が自動車で行くことを提案した。
染谷は潮来へこれまで3度行っており、道程を知っていた。
「たまりば」で働く麻生紀子も同行した。
自動車から眺める長閑な景色を楽しみながら、真田は穏やかな表情になっていた。
そして、これまでの自堕落な生活との決別の時機を感じていた。
あやめ祭は昭和20年生まれの勝枝が7歳の年に始まったとされる。
当初は、あやめや花菖蒲の愛好家たちがビール瓶などに花菖蒲やあやめの切り花を入れて行われていたそうだ。
園内には、約500種類100万株のあやめ(花菖蒲)が植えられており、見頃を迎えると一面に咲き誇る。
一番の見頃は例年6月10日頃と言う。
さらに、期間中は潮来花嫁さん「嫁入り舟」やあやめ踊り披露など水郷ならではのイベントが盛りだくさであるそうだ。
毎年、約80万人を超える多くの観光客が水郷情緒とあやめを鑑賞するため訪れているのだ。
「年間80万人? 取手にもそれくらいの客が来ればな、少しは発展するだろうに、競輪だけではな」と染谷勉が言うので、みんなが笑った。
笑顔がこぼれるのも観光地へ向かう高揚感からであった。
真田は「潮来の伊太郎 」を歌った。
「真田さんの歌初めて聞いた。歌うまいんだね」と運転席の染谷勉がほめる。
「そうね。真田さんがこんなに歌うまいんだ。驚き!」と真田の脇に座る木村勝枝が頬んだ。
真田は戦前、音楽教師をしていたのだが、誰にも言っていない。
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<参考>
http://www.youtube.com/watch?v=mzArqu1lkeg
潮来市は、古くから水運陸路の要所として栄え、大化の改新のころ国府(現在の石岡市)から鹿島神宮ヘ通じる駅路「板来の駅」を設けたのがまちの始まりだと伝えられています。
その昔は、地名を「伊多古」「伊多久」と称し、また常陸風土記には「板来」と書かれていたのを、元禄年間に徳川光圀公が「鹿島の潮宮」にあやかって「潮来」と書き改め、今日に至っていると云われています。

近世になると、奥州諸藩の物産を集めて江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川にて潮来に至り、潮来で1~2反帆の高瀬舟に積み荷の積み替えを行い、前川は行き交う大小の船で賑わい、荷の揚げ降ろしの船付場(河岸)が続き中継港として大いに繁栄をしました。

しかし、潮来が大いに繁栄したのは、この江戸時代中期ころまでであり、元文年代(1736~1740年)の大洪水で利根川の本流が佐原地方に移ると、中継港としての機能を失ってしまいました。
http://www.youtube.com/watch?v=udtkxuqDJG8
さらに、明治に入って常磐線が開通し、陸運が盛んになってからは、水運は一挙に衰退し、それに歩調を合わせるかのようにして潮来も寂れてしまいました。

それ以来、この地方では、産業らしき産業もなかったことから、地元の若い娘の収入源として、観光客の案内を兼ねてサッパを操ったところ観光客に好評を博したことから“娘船頭さん”として知られるようになりました。

昭和30年3月には、美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的に知られるようになりました。http://www.youtube.com/watch?v=ZAV9VaQ5LJ8

この地方は、周囲を水に囲まれた水郷地帯であったことから、この地域一体には水路(江間)が縦横に張りめぐらされ、嫁入りする際に花嫁や嫁入り道具を運搬するときにもサッパ舟が使われており、昭和30年前半ごろまでは日常的に行われていました。

この嫁入舟が、全国的に知られるようになったのは、昭和31年10月に松竹映画「花嫁募集中」とタイアップし“ミス花嫁”を募集したことがきっかけとなり、花村菊江さんが歌った「潮来花嫁さん」の大ヒットによりさらに全国的に知られるようになりました。http://www.youtube.com/watch?v=P_f6BI0umYA


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2013年12 月29日 (日曜日)
創作欄 真田の人生 
検診を受けない方が健康でいられる。
真田は友人、知人たちが突然のように死んでいくのを経験して、そのことを実感した。
友人の小田裕三が検査入院で亡くなったのだ。
あの日、「これから、一杯やろか?」と真田は小田を誘った。
小田は彼独自のギャンブル観を持っていて、真田はじっくり拝聴したいと思っていた。
「残念ながら明日、検査入院するんだ」小田は苦笑を浮かべた。
「検査入院? どこかおかしいのか?」真田は検査嫌いなので聞いた。
「どうも、疲れやすいんだ。気分もすぐれない」三田は顔を曇らせて弱音を吐く。
「どこか、痛むのか?」
「痛みはないが、胸がつかえる感じもする」胸に手をあてる。
「そうか。それでは一杯やるのは次の機会にするか」 タクシーを停めた三田は、手を振って乗り込むが振り向かない。
如何にも疲れた様子で背を丸めて去っていった。
それが生前の三田を見た最後だった。
三田は満州に抑留された経験があるが、多くを語らなかった。
沈黙の深さだけ過酷な体験であったのだろう。
それは真田も同じであり、太平洋の島の地獄の戦場のことについては誰にも語っていない。
終戦後、2年余は悲惨な戦場の夢も見たが、段々と見る夢は生活実感の伴うものに変化していく。
茨城県の取手市内に在住した真田は喫茶店を経営した。
店は女性二人を雇い真田はオーナーの立場であり、客席で新聞を読んで過ごしていた。
株の投資のため地元の証券会社の営業の北アキを度々電話で呼び出していた。
朝の散歩では携帯ラジオを聴いていた。
経済の動き、政治情勢にも関心を抱いていた。
それらは株の投資のための情報源としていた。
博打の才能に長けていた真田は勘を重視していた。
喫茶店「たまりば」は競輪好きの人間たちのたまり場でもあった。
いわゆるコーチ屋やノミ屋も出入りしていた。

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<参考>
コーチ屋(コーチや、コーチヤともいう)とは、公営競技の施行場内外や場外投票券発売所で、投票券に関する自分の予想を教えたり買い目を指示するなどの行為を装い、客から金を詐取することを行う者を指す。

場内にいる場立ちの予想屋はその場の主催者が公認しているが、コーチ屋は非公認であり、詐欺罪で検挙された例もあるという。




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2013年12 月23日 (月曜日)
創作欄 真田の人生 2)
真田は戦後、闇市から身を起こし危ない仕事や取引にも手に出したり、裏社会の人間とも繋がってきたが、一度も警察に逮捕されたことがなかった。
違法な賭博の場が警察官たちに踏み込まれた時も、裏口から逃げて無事であった。
思い返せばただ単に運が良かったのである。
身を守るために短剣を所持していた時期もある。
また、22口径の拳銃も身に忍ばせていたが、一度も使用しないですんだ。
昔の人は「短気は損気」とは言ったものだ。
激情にかれて人を殺める場合もあるだろう。
弾みが怖い。
弾みで電車に飛び込む人もいるだろう。
真田は金儲けに長けていたので、金で苦労したことがなかった。
つまり、多額の借金の経験がない。
常に100万円くらいは所持していた。
だから、どのような店へ入ろうと支払いについて頭を巡らせることがなかった。
多くの女性と深い関係になろうろ一度もトラブルはなかった。
だが、取手に移り住んだ真田は、初めてトラブルに巻き込まれた。
その男は小柄であり何時もカウンターの端に居て黙ってウイスキーを飲んでいた。
「何者かと」と真田は目にとめたが、それほど気にしなかった。
数日後、真田は取手競輪場のゴール前の正面スタンドから、男を見かけた。
男はいわゆる競輪のノミ屋であり、ファンの間を動き回りながら投票用紙と現金を受け取っていた。
真田はノミ屋が相手にする一般の客と違って、一桁車券の購入額が違っていたので、的中したらノミ屋も払い切れないであろう。
5000円単位、1万円単位で車券を投票をしていた。
的中すれば、払い戻しは数十万円になっていた。
大穴なら数百万であり、地元の銀行の帯付が付いた札束が数束、大口の専用窓口で払い戻されるので、周囲に居た者は度肝を抜かれる状態となった。
真田のようなファンは後楽園競輪場に居たが、昭和40年代の取手競輪場では見かけなかった。
真田には希な博才が備わったいたのだ。
たまには農地を売って勝負をするファンも居たが、負けて破滅していくだけであった。
「1点勝負はよしな。裏も返せ」と仲間がアドバイスをしたのに、その男は本命の1点勝負である。
真田は本命買いはしない。
冷ややかに見ていたら、レースの結果は案の定、車券の裏で決着した。
男は落胆しその場にしゃがみこんで、しばらく立ち上がれなくなった。
2-5の車券の配当は3倍。
男は100万円を2-5に投じたが、結果は5-2となる。
300万円を夢みて、車券は紙くずとなる。
「裏目で泣く」と言う典型的なパターンであった。
5-2は8倍の配当であったので、100万円を50万円に分けて二つの車券に賭けるべきであったわけだ。
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<参考>

ノミ屋とは、日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。
また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 
例えば「ハズレ券の購入金額の10%を払い戻す」といった、特別なサービスを行っているノミ屋は少なくないという。
配当金の上限は100倍まで」などの制限を設けて対策している模様である。
現在ではノミ屋の排除は主催者・警察により積極的に実施されている。
そのきっかけになったのは1985年2月23日に高知競輪場の場内で発生したノミ屋の縄張り争いも一因となった暴力団抗争による発砲事件で、これにより死者2名重傷1名が出た事である。
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「短気は損気」気が短くて怒りっぽいと、自分の損になることが多いということ

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創作欄 真田の人生

2016年09月20日 21時02分22秒 | 創作欄
2014年1 月14日 (火曜日)
創作欄 真田の人生
真田は改めて、戦争について考えてみた。
政治が国を導くはずであったが、軍が政治に介入してしまった。
言わば軍の暴走であった。
結果的に軍事政権となったのである。
その下地となったのが大逆事件であり、それを契機にするように思想や言論の自由も規制、統制されていった。
明治の精神は死んだのである。
真田は明治の精神を日本が継承していたら、米国を敵に回してまで無謀な戦争などしなかっただろうと思った。
図書館へ通うなかで多くの想念が真田の頭を支配するようになった。
あの二・二六事件は何であったのか?
三島由紀夫事件が起きたことも真田に二・二六事件を考える契機となった。
つまり一部の軍部の暴走は天皇の威光で収束されたのである。
では、米国との戦争は天皇の威光で回避できなかったのか?
そこを掘り下げていくと、天皇の戦争責任問題に帰着するのであるが・・・
さらに、戦争犯罪とは何であるのか?の問題にも帰着するのである。
勝者が敗者を裁く構造であることは否めないのではないのか?
真田は図書館を出ると西日が射す取手の利根川堤防を歩きながら想ってみた。
東京大空襲で妻子を失った虚しさが蘇ってきた。
どこまでも10月の空は澄み渡り、富士山が見えていた。
一度も登ったことがない富士山は戦争を生き抜いた真田にとって、特別な存在に想われたのだ。
日本本土を攻撃した米国の軍機は富士山を目標に飛来したのであった。
ちなみに真田は青年時代に愛読した夏目漱石や森鴎外の小説を図書館で読み返していた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa
/question_detail/q1313703983
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大逆事件(たいぎゃくじけん)

1.1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。
2.特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。

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二・二六事件(にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。
一般に、「ニニロクジケン」でなく「ニーニーロクジケン」と伸ばして発音されることが多い。
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三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家、三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。


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2014年1 月13日 (月曜日)
創作欄 真田の人生
真田は取手図書館に通うなかで、日本史にまず注目した。
このため、日比谷図書館へも出向いて行った。
天皇の起源いついても興味があったのだ。
天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。
672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。
天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めたのである。
「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代とするのが通説である。
天皇号が成立する以前の君主号は、倭国王だったと考えられている。
天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かったと伝えられている。
また、そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。
天皇の仏教保護も手厚いものがあったとされ、真田はその説に着目した。
次に真田が注目したのが、平安時代と鎌倉時代であり、武士の起こりも調べた。
武士は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本分とするとされた、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。
「もののふ」とも読み倣わすが、その起源については物部氏の名に求めるなど諸説がある。
武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。
旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。
近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。
陸軍中将・遠藤三郎は戦後、日本の陸軍教育は誤っていたと明言し、「軍隊の残忍性」は戦争そのもの本質だと批判した。
日本の陸軍は明治・大正時代を経て変貌したとしたら、どのような要因であったのかを真田は探ろうとした。
未だ日本に蔓延る精神主義にも真田は拘った。
精神主義で例に出されることの多い第二次大戦の日本軍。
しかし、本来は第一次大戦の列強の総力戦を見た日本が、これに追随することは出来ないという現実を認識し、窮余の策として非物量的側面へ注目した事がその起源。
それが、大正・昭和と時代を経て、第二次大戦での過度な精神主義へと変貌・傾倒していったのは何故だろうか。
真田はさらに調べてみたいと思った。






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創作欄 真田の人生
真田は取手図書館に通うなかで、日本史にまず注目した。
このため、日比谷図書館へも出向いて行った。
天皇の起源いついても興味があったのだ。
天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。
672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。
天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めたのである。
「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代とするのが通説である。
天皇号が成立する以前の君主号は、倭国王だったと考えられている。
天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かったと伝えられている。
また、そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。
天皇の仏教保護も手厚いものがあったとされ、真田はその説に着目した。
次に真田が注目したのが、平安時代と鎌倉時代であり、武士の起こりも調べた。
武士は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本分とするとされた、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。
「もののふ」とも読み倣わすが、その起源については物部氏の名に求めるなど諸説がある。
武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。
旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。
近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。
陸軍中将・遠藤三郎は戦後、日本の陸軍教育は誤っていたと明言し、「軍隊の残忍性」は戦争そのもの本質だと批判した。
日本の陸軍は明治・大正時代を経て変貌したとしたら、どのような要因であったのかを真田は探ろうとした。
未だ日本に蔓延る精神主義にも真田は拘った。
精神主義で例に出されることの多い第二次大戦の日本軍。
しかし、本来は第一次大戦の列強の総力戦を見た日本が、これに追随することは出来ないという現実を認識し、窮余の策として非物量的側面へ注目した事がその起源。
それが、大正・昭和と時代を経て、第二次大戦での過度な精神主義へと変貌・傾倒していったのは何故だろうか。
真田はさらに調べてみたいと思った。






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創作欄 真田の人生

2016年09月20日 21時00分43秒 | 創作欄
2014年1 月16日 (木曜日)
創作欄 真田の人生
無知は罪悪である。
何故なら無知がゆえに罪悪に加担することがあるからだ。
悪はしばしば、無知に付け入るのである。
一番性質が悪いのは、宗教に名を借りた詐欺だ。
悪は詐欺師同然に人を巧みに誘導して、人の無知に付け込み騙す。
例えば「あなの前世が分かるのです。前世を見てみたくありませんか?」と誘いをかける。
ここで冷静に「前世など、見て何になるか?」と問えばいいのだが・・・
基本的に人間は人間以上には成り得ない。
つまり人間が超人的な能力など発揮できないはずだ。
しかも、人間はまぎれもなく動物なのだ。
生命の進化の過程がそのことを厳然と証明している。
ところが、「神様が人間を創造した」などと嘘を並べる。
嘘を平気で並べる立てるのが宗教の本質と真田には思われた。
真田が取手の図書館などで宗教関係の本を読んだ結論であった。
ある日、真田は自分に歯軋りをして腹を立てていた。
と言ってもたかが競輪のことである。
真田は大勝負に出たのであるが、気になっていた6番選手が絡む車券を押さえていなかった。 押さえていれば800万円以上の払い戻しであっただろう。
過去に真田は最高で786万円の払い戻しをしていた。
何時かそれを越えたいと念じていたのである。
深い意味があったわけではない。
掲げた目標に拘泥しただけだ。
何故、拘泥したのか?
自分に壁があるとしたら、それを超えたいという願望がある。
だが、それは余りに瑣末な願望であった。

投稿情報: 23:56 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
創作欄 真田の人生
真田が経営する喫茶店「たまりば」に若い女性が2人やってきた。
「私たちは、内村鑑三先生の無教会の流れを汲むキリスト教のグループです。聖書を愛読し、真の日本的なクリスチャンを目指しています」と言う。
実に目が澄んだ美しい顔立ちをしていた。
「君たちは、取手に住んでいるの?」
真田は俯き加減の女性を見詰めながら聞いた。
その女性は場慣れしない様子であり、信心がまだ浅いのだと思われた。
一方の目の澄んだ女性は笑みを浮かべながら「わたくしたちは、我孫子から来ました」と言いながら手提げ袋から小冊子を取り出した。
「昨今、心を痛める事件が多発しています。わが国は物質的には豊かになってきました。でも、精神面ではますます荒廃しているのではないでしょうか? ぜひ、この小冊子をお読みください」
真田は心にあるわだかまりをぶつけたく思ったのであるが、女性の澄んだ瞳に見詰められると何故かはばかれた。
「ありがとう。後で読んで見るよ。ご馳走するからコーヒーを飲んでいきない」と席を目で示したが、「お気持ちだけいただきます」と言いながらその人は丁寧に頭を下げた。
そして、連れを促し店から出て行く。
「マスター、あの人たち先週、わたしの家まで来たのよ。熱心なんでビックした」とカウンターに立つ二ノ宮亜紀が言う。
「あの人、誰かに似ているなと思ったんだけど、日活の女優の松原千恵子に似ているのね」亜紀の言うとおり松原千恵子に似た面影の女性であった。
思えば東京大空襲で亡くなった真田の妻も出会った頃は松原千恵子の面影に似ていた少女であり、真田の教え子の1人でもあった。
昭和40年代の後半、布教活動に20代の若い女性が歩いていることに真田は時代の変化を感じ取った。
真田は取手図書館で内村鑑三について調べてみた。
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http://www.youtube.com/watch?v=XCr6nUiJiM0
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内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日(1861年3月23日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。


非戦論を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。
また、弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。
しかし、時既に遅く、斉藤は教職を追われてしまう。

これは「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める無教会主義者の教理に基づく。
内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。
また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。

内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げた。
若きキリスト教兵役者に「身体の復活」と「キリストの再臨」(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。
「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議に積極的に参加したと同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を正当化した。


投稿情報: 06:58 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
創作欄 真田の人生
真田は取手図書館で初めて聖書を読んでみた。
それは一つのことが契機となる。
知人と2人で台風で増水した利根川へ魚を釣りに行った。
増水した川では不思議とナマズなどの魚などが釣れるのである。
ウナギが釣れることもあった。
ところが知人がバランスを崩し、川へ落ちたのである。
知人は泳ぎが得意ではない。
さりとて、真田も知人を助けに川へ飛び込むことにちゅうちょした。
幸い川に落ちた知人は浅瀬に流され自力で岸に辿りついたのだ。
子どものころ長野県松本の川で遊んでいた時に、友人の5歳の妹が足を滑らせ川に落ちたことが真田の脳裏に浮かんだ。
尋常小学校4年生の真田は流されて行く女の子を助けるために川に飛び込んだ。
女の子は仰向けの姿勢で浮いたり沈んだりして流されて行く。
もがきながら浮き上がっては泣き叫んでいた。
10メートルくらい泳いで女の子に追い着いたと同時に真田は女の子にしがみつかれて、まったく動きがとれなくなる。
2人はおぼれだ状態となる。
結局、たまたま2人を目撃した大人の男の人2人によって真田たちは救助されたのだ。
あの時、3人いた友人たちも呆然として助けに来なかった。
それは責められることではなかったが、川に流されながら水を飲み苦しみ悶えるなかで「俺は死ぬんだな」と絶望的となった。
「死にたくない。神様助けて!」と叫んでさらに水を飲み込んだ。
あれは1分、2分のできごとであったのか?
時間は定かではない。
真田は聖書を読みながら、生きているというより生かされているのだと改めて思ってみた。


投稿情報: 04:12 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年1 月15日 (水曜日)
創作欄 真田の人生
時代の空気に何かが失われ、閉塞感が漂っている。
真田は人生のたそがれを生きている想いがしていた。
図書館では妻が娘時代に憧れたという作家の吉屋信子のわゆるい乙女小説も読んでみた。 「紅雀」を読み「なるほど」と真田は肯いた。
個性のハッキリした少女、どこか寂しげで誰にも馴れえぬ悲しい性をもつ主人公・まゆみ 。
彼女を暖かく見守る男爵家の家庭教師・純子。
まゆみにしだいに想いを寄せていく若き 男爵・珠彦。
そして意地悪な金持ちの娘・利栄子。
少女の微妙な心の成長を描いていた。
小説の会話の部分には、地方の少女たちに憧れを抱かせるような言葉遣いがあり、斬新な筋書きで展開されていた。
真田は大学ノートに思いついたことなどを万年筆で記した。
「振り向けば貴女がいた」 と記した。
どのような貴女なのか?
真田は妻を含めこれまでに出会った女性たちを頭に浮かべてみた。
競輪場で若い女性と出会うことはほとんどないが、一度だけ見かけた女性が居た。
あれは昭和30年代の後楽園競輪場であった。
振り向けばその女がいて、車券をお守りのように握り占めていたのだ。
前髪が半分顔を隠しており大きな右の瞳が輝いていおり、祈るような思いでレースの展開を見詰めていた。
レースは1-4で決着した。
しばし青くなった頬に赤みが差してきたので真田は女が車券が的中したことを悟った。
払い戻し場は人がまばらであり、車券は大穴となったのだ。
「とても買えないな!」多くの男たちはぼやいていた。
100円券が1万2700円、女は10枚も持っていたのだ。
100万円以上の払い戻しは真田には珍しいことではなかったが、20代と思われる女性であることに真田の心は動いたのである。
女は東京新宿を拠点にしているヤクザの情婦であることを後に知った。
君子危うきに近寄らずである。
真田の喫茶店「たまりば」にも地元のヤクザが来ていて、情婦を伴って来ることもあった。
「マスターは、相当のギャンブラーなんだね。先日、大金を払い戻しているのを見させてもらったよ」と金歯を覗かせニヤリとしたが目が笑っていない。
人の噂では200万円の自慢の金歯である。



創作欄 真田の人生 

2016年09月20日 20時59分08秒 | 創作欄
2014年1 月21日 (火曜日)
創作欄 真田の人生 
真田は手島郁郎の存在を知った。
「大いなることを神から期待せよ」
手島郁郎は記していた。
「多くの人は『信ずる』というけれども、その信じ方は『~かもしれぬ』という淡い期待であって、決定的に信じてはいない。ただ自分が信じている程度で、自分の考えを出せませんから、信仰というものが弱い。私たちに必要なのは、神が必ず何かをなさる、という信仰です」
「聖書を読んでごらんなさい。特に福音書、使徒伝などをお読みになったら奇跡の連続ですね」
真田はさらに、「大いなる事の実現を、神様から与えられるということを期待せよ。そして、神のために偉大な事を企てよ!祈るならば、神が私たちと共におられるから大きな事も企てられるのです」
と記している箇所に着目した。
真田は祈りの意味を自分なりに解釈してみた。
願望が強いか弱いかで、自ずと結果な違うのではないか、と考えた。
抽象的な願いでは何事も成就しないだろう。
より具体的で実行性のある願望を抱き突き進むなら、自ずと結果はついてくるはずだ、と思ったのである。
元々ギャンブル好きで賭博の才能に秀でていた真田には、必勝を期すための強烈な意志が働いていた。
博打の神が真田の隣に常にいたのだ。
真田はそれを確信しながら、勝負をしてきた。
真田とて負け続けることもあった。
だが、真田は賭博の神が着いているのがから、負けは次の勝利を約束するものだと自分を納得させてきた。
つまり、負けには勝ちの因が潜んでいるのである。
多くのギャンブル好きたちは、負けたことを活かしきれていないのだと真田は思ったのである。
そこで、真田は喫茶店「たまりば」で「競輪講座」を始めたのだった。
この男は宗教関係の書物を読んでも、ギャンブルに結びつけるのであった。
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手島 郁郎(1910年~1973年12月25日)は、無教会派の流れを汲むキリスト教系宗教団体、キリストの幕屋の創始者。
1927年 - 熊本バプテスト教会で洗礼を受ける。
1932年内村鑑三の無教会の夏期聖書講座に参加して、1933年より熊本聖書研究会を主宰する。
1948年 - 独立して伝道を始めた。
「生命の光」を機関紙として、現在はテレビ放送も行う。
「神の幕屋」と呼ばれる集会を全国に開いた。

投稿情報: 06:44 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年1 月17日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
真田は布川事件を知るにつけ、実に不可解な事件であると思った。
冤罪事件ではないか?と直感したのは、取手競輪の帰りであった。
犯人は競輪にのめり込んでいる人間の中にいるのではないだろうか?と思ったのである。
真田は推理してみた。
被害者は取手競輪場で複数の男たちに目を付けられた。
万車券を的中させ、白い布製の財布に払い戻した大金を仕舞い込むのを目撃された。
男たちはその大金を奪おうとしたが、人が多い競輪場では奪えない。
そこで被害者の後を付けたのである。
そして犯人たちは目的を遂げた。
この推理は、被害者が競輪好きでなければ成り立たないのであるが・・・
そして真田は利根町布川の事件現場を見に行ってみた。
利根町は、茨城県南部に位置する町であり、現在、北相馬郡(旧下総国)に属する唯一の町である。
利根川を挟んで千葉県と接しており、千葉県我孫子市側と結ぶ栄橋が1971年に架け替えられた後、利根ニュータウンなどで新住民が増加した。
農業は稲作が中心であり、町域は取手と違ってほとんど平坦である。
町の南側は利根川に沿っており、気候は比較的温暖である。
また桜や銀杏の木が美しい通りがいくつもあり、利根川の土手とともに地元住民の散歩コースとして人気である。
真田が布川に行ったのは銀杏の木が紅葉している10月であった。
町には利根川のほかに新利根川、小貝川が流れている。
1955年(昭和30年に布川町、文村、文間村が合併し、利根町が発足した。
素朴な光景を見て、凶悪な事件が起きたことが信じがたく思われたが、邪悪な人間の心が犯罪を犯すのであり、事件はどこでも起こりえる。
真田が訪れたころの利根町は人口が1万人に満たない町であった。
そして事件の真犯人は地元に在住する人間の中には、そもそもいないのではないか?と真田は思った。
深い理由があるわけではない。
町内を通る鉄道路線はないので地理的に不便な町である。
直近の路線・駅は、JR東日本成田線(我孫子支線)の布佐駅であるが、上野駅へ出る本数は少ない。
ちなみに民俗学者の柳田國男は、開業医をしていた兄を頼って旧・布川村に移り住み、少年時代の2年間を過ごしている。
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柳田 國男:1875年(明治8年)7月31日~1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者。
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。
日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。
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布川事件(ふかわじけん)は、1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件である。
犯人として近隣に住む青年2人を逮捕・起訴し、無期懲役が確定したが、証拠は被告人の自白と現場の目撃証言のみで、当初から冤罪の可能性が指摘されており、2009年、再審が開始され、2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。
日本弁護士連合会が支援していた。
この事件では、犯行を実証する物的証拠が少なく、桜井・杉山の自白と現場の目撃証言が有罪の証拠であった。
しかし、その自白は取調官による誘導の結果なされたと主張する。

•金銭目的の強盗殺人とされているが、何が実際に盗まれたのかを明確にしていない。被害者の白い財布の件も供述調書で変遷しており、犯行後どのようになったかが明確になっていない。
•43点の指紋が採集されたが、桜井・杉山の指紋が現場から出ていない。
•裁判では指紋は拭き取ったとしているが、物色されたはずの金庫や机から多くの指紋が検出されている矛盾点については説明がなされていない。
•被害者宅へ侵入した方法についての自白が不自然である。
•供述調書によれば、「勝手口の左側ガラス戸を右に開けると、奥の8畳間から顔を出した被害者の顔が見えた」とされているが、現場の勝手口は左ガラス戸の内側に大きな食器棚が置かれていたため、わざわざ障害物がある方の戸を開けるのは不自然である上、第一被害者の顔が見えるはずもない。また、反対側の戸は40cm程度は開けられる。
•事件現場の家の図面は、取調室内で見せ取調官の誘導で自白調書が取られた。
•アリバイとなる8月28日に2被告に会った人物の裏を捜査陣が取り、それら全てを8月28日以外の事にした。
•自白では両手で首を絞めとなっていたが、被害者は紐で絞殺されていた。(再審時の新証拠で明らかになる。)


○布川事件の概要
 昭和42年(1967年)8月30日の朝、利根町布川で独り暮しの老人が自宅で殺害されているのが発見された。
被害者は、玉村象天(たまむらしょうてん)さん(当時62才)で、その発見者によると、この日玉村さんに大工仕事を頼みに来て声を掛けたが、庭に自転車があるのに返事がないので、不思議に思って勝手口の戸を開けてみると、8帖間で玉村さんが殺害されていたということでした。
 警察の検証記録によれば、現場の状況はおよそ次の通りです。 •被害者宅の玄関と窓は施錠されていたが、勝手口がわずかに開いていた。
•便所の窓が開いており、木製の桟が2本はずされて外に落ちていた。
•8帖間と4帖間の境のガラス引戸が2枚とも4帖間側の方に倒れ、割れたガラスがあたりに散乱していた。
•8帖間の押入の前の床板が割れていて、そのV字形に落ち込んだ所に被害者が倒れていた。
•被害者は、両足をタオルとワイシャツで縛られ、口の中にはパンツが押し込まれた上、首にもパンツが巻きつけられて窒息死していた。
•室内には、寝具、衣類などが散乱し、ロッカ-、机の引出し、タンス等に物色の跡が見られた。
•室内の蛍光灯は、8帖間、4帖間とも点灯していた。 •合計43点の指紋が採取されたが、犯人に結びつくものはなかった。
 何が盗られたかは不明だったが、日ごろ使用していた<白い財布>が見当たらないので、それが被害にあったものと思われました

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創作欄 真田の人生

2016年09月20日 20時57分30秒 | 創作欄
2014年1 月29日 (水曜日)
創作欄 真田の人生
「どんな戦いであれ、腹を決めて徹している人間は強い」
真田は、改めて思った。
「今日は、誰も買わない車券を買うぞ!」 海老原修治が思いついたように言う。
真田は海老原の性格を知っているので、「口先に終わるな」と冷笑を浮かべた。
2-3の車券が本命であり、オッズを見たら2.5倍であった。
「2.3でかたいな」と周囲のファンがつぶやくと海老原はもう「誰にも買えない車券」が買えなくなった。
真田は人気薄のラインの3番手の8番選手に着目した。
1-5-8の並びである。
もし、1番選手が玉砕的に逃げたら5番と8番で決まるとレース展開を脳裏に描く。
「1番をマークする番手の5ではなく、3番手の動ける8番が1着でゴール線を突き抜けるかもしれない」と確信した。
中断を取るのが9-7-4である。
3-2-6のラインは後方に置かれ、捲くり(追い込むこと)不発になるのではないか。
真田は小さな手帳にレース展開を万年筆で描いた。
この日はレースが荒れていた。
多くのファンは懐具合を寂しくしていくばかりであった。
「今度こそ、本命が来る」と思い込むファンが増えてきた。
同時に「何がなんだか分からない」と頭を混乱させている。
つまり冷静でいられなくなる。
真田は常に熱くならず、冷静に競輪のレース展開を見てみた。
レースが荒れることで、それは走る選手にも微妙に影響するだろう。
本命選手には必要以上のプレシャーがかかるはずだ。
真田が予想したとおり、1番選手は果敢に先行した。
しかも、追走する別線のラインの9-7-4ラインは3-2-6の本命ラインを牽制して車間を大きく開けた。
つまり走行を緩めたのである。
本来なら1-5-8-9-7-4ー3-2-6の一列棒状で走行するのに、1-5-8----9-7-4-3-2ー6の状態となる。
8番と9番の間が約10メートルの車間となる。
その車間を見て、ファンたちは騒ぎだす。
「おい、何やってるんだ。3-2は届くのか?!」
結局、レースは8-5で決着したのだ。
みんなが呆然としていた。
そして引き挙げて行く本命の2番、3番選手に「バカ野郎、帰れ!」「くたばれ!」と口汚く罵声を浴びせていた。
配当金を告げる場内放送を聞いて、大きなどよめきが場内に起こった。
8-5は7万8400の配当であり、真田をその車券を5000円押さえていたのだ。
真田が払い戻したのは392万円であった。
「マスターはやっぱい、尋常じゃねいな。すげい!」
ご祝儀に1万円もらって海老原はハンチング帽を脱いで何度も頭を下げた。
「マスター何時も、ご祝儀もらってすまんな」
特別観覧席から下を見下ろすと喫茶店「たまりば」の常連客がたむろしていた。
真田はみんなを連れて、キャバレー「桃山」へ行こうと思い海老原に告げた。
「下に麻生君たちがいるから、声をかけてくれ、桃山へ招待するとね」
「マスター、いいですね。桃山ですね」 海老原は喜色満面となり特別観覧席から走りだして行く。
http://insite.typepad.jp/shigakuinfo/2013/02/22406.html


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2014年1 月27日 (月曜日)
創作欄 真田の人生
真田の喫茶店「たまりば」には、競輪ファンの他にアルコール依存症と思われる人たちも出入りしていた。
コーヒーカップを持つ手が震えている。
だが、年齢は70歳を超えている。
この先、治療をしても効果があるのかないのか?
真田の店の並びに2軒のスナックがあり、午前3時まで店を開いていた。
客が帰らなければ、午前4時過ぎまで店を開いていた。
やがて客同士の喧嘩が始まる。
ビールビンやコップが砕け散る。
パトカーが2台やってきて警官8人が客の喧嘩の収拾に当たる。
昭和50年代初め、足下がおぼつかないのに車を運転して帰る客もいて、電信柱などで自爆もする。
「また、自爆か!」 折れ曲がった電柱に自動車の左座席まで食い込んでいる。
運転手は重傷ですんだようだ。
喫茶店は午前7時に開店していて、モーニングサービスもやっていた。
ジョギング帰りに寄る客も居た。
地元の商店の店主たちのたまり場でもあった。
新聞社の通信記者もコーヒーを飲みに来ていた。
真田には格別健康志向はないが、誘われて店主たちの朝の散歩に付き合うこともあった。
なかにはプールへ通って、体を鍛える人もいた。
誘われたが真田は60歳近くなって泳ぐ気持ちにはなれない。
国鉄職員でボクシングもやっている客もいて、券を買わされた。
真田は4枚券を買って、店の客たちと後楽園まで国鉄職員でボクシング選手の試合の応援にも行った。
帰りは水道橋駅前の居酒屋で酒を飲んで帰る。
真田はみんなの酒代を出す。
「マスター、マスター」と呼ばれ、真田はすっかり自分が取手の住民になったこにある種の感慨を覚えていた。
1949年に開設された後楽園競輪が廃止されたのは1972年(法的には休止扱い)であった。 真田と同様に喫茶店「たまりば」の常連客たちは、水道橋に久しぶりにやってきて、後楽園競輪の郷愁に慕っている気分になっていた。
「あのころは、競輪の全盛だったな」と染谷銀二が言う。
倉持勝義は「俺たちはまだ20代、東京でタクシーの運ちゃんやっていたけど、よく客からチップをもらったな」と言いながら焼酎をグイと飲み干した。
真田は日本酒の浦霞を飲んだ。
日本酒を飲むのは真田だけであった。
「日本酒を飲むと頭が痛くなる」と斉藤修は真田の浦霞に目を注いだ。



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2014年1 月24日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
真田の喫茶店における「競輪講座」は、結果的に真田の気持ちを充実させた。
「君たちのお頭(つむ)では、競輪に勝てない」真田は辛らつに指摘した。
昭和40年代後半の取手市在住者たちで、競輪愛好者たちは中卒者たちが多かった。
「競輪は推理と記憶が基本だよ。また、八百長とまでは言えんが、人間関係が無視できない。競輪選手同士の借りと貸しの世界でもある。ご存知のように、逃げる選手は絶対不利だ」
「本命など、無視するんだよ。例えば1000円買った車券が2000円、3000円になって喜んでいてはダメだね」
本命買いの染谷勝司は聞いて不満顔をした。
「本命の1番人気で決着するレースは1日に何回あるの? もし、1日に本命で決まるレースが2回か3回としても、そのレースは無視するんだ」
染谷は1日に1回あるかないかのレースに賭けるタイプであった。
だが、「このレースが固い。絶対だ」と思って買ったレースで常に損をしていた。
多くのケースでは、本命選手のラインが後方に置かれて、捲くり不発になるのだ。
あるいは、別の選手のラインと逃げ争いで本命選手が走る足をロスして戦線から離脱することもある。
競輪は9人の選手が、それぞれの仲間と結束して競争をする。
基本的に競争は3人単位が組むので、レースは3人対3人のレースで展開される。
競輪は風圧との戦いであるので風避けとなる逃げる選手の後に位置する選手が自ずと有利である。
同時に逃げる選手の後ろにいる選手は、逃げる選手をアシストする役割が課せられている。
走る格闘技とされている競輪は、追い上げてくる選手をブロックすることが許されている。
競馬で斜行することは禁止されているが、競輪は斜行ありだ。
追い上げる選手や併走する選手への体当たりや頭突きもありだ。
真田はこれらのレース展開を含めて「競輪講座」で持論を展開したのだ。
「ヨーロッパを買ってハワイへ行こう」 真田の口癖である。
競輪では、基本的に4番、6番、8番の選手は格下である。
実力のある選手にとって、4番、6番、8番の背番号を背負って走ることは1軍選手が2軍選手として走るのと同じで屈辱である。
このことが多くの競輪愛好者の意識に影を落としているのだ。
真田に勝利の女神が微笑むのは、競輪愛好者たちの常識を突き放すようにして、常に疑ってかかっていることであった。
本と無縁な競輪愛好者たちは、阿佐田哲也を知らないだろう。
真田は、阿佐田哲也の言葉などを「競輪講座」に引用した。
真田は競輪講座で、「自分がやりたいことを見つけたら、楽しんで徹底的にやることだ」との思いを強くしていた。
ところで元音楽教師であった真田はオペラのアリアを歌い、喫茶店「たまりば」の常連客を魅了させることもあった。
真田の声は実に美声であり、地元取手の人たちにオペラアリアの世界を堪能させていた。
喫茶店「たまりば」には常にはオペラのアリアの曲が流れていた。
真田は後楽園競輪の後には、神保町のレコード店で多くのオペラアリア曲を集めていた。
その枚数は300余であった。

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色川武大(いろかわ たけひろ)1929年3月28日~1989年4月10日)は、日本の小説家、エッセイスト、雀士。
筆名として、阿佐田哲也(あさだ てつや)、井上志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を名乗った。
阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。
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http://www.youtube.com/watch?v=qCImfJUFSf0  
http://www.youtube.com/watch?v=1H-O1WxDf40&list=RDqCImfJUFSf0
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<参考>

○ Q 競輪で絶対変わってほしくないところ、それは、競輪特有の『義理と人情』です。
最近、自身の勝利にこだわりすぎ、ラインを全く無視する若手選手が増えてきたように感じます。
選手には、ファンを魅了するレースを期待しています。
ラインのために一生懸命先行する、ラインの番手を死守する、感動するレースを期待しています。

○ A ラインにつきましては、ほかのお客様からも別の視点から、あまりにラインにこだわりすぎて自らの勝機を逸しているのではないか、とのご指摘をいただいております。
現行の競輪のレース形態は、ライン間で有利な位置の取り合いが繰り広げられるため、ライン形成が大きくレースの勝敗に影響します。
ラインは、選手にとってはレースに臨む作戦上、お客様にとっては車券の推理上、重要な要素になっておりますので、今後とも、信頼を得られるレースを披露しお客様にご満足いただくよう、競輪界を挙げて取り組んでまいりたいと考えております。



創作蘭 真田の人生

2016年09月20日 20時55分27秒 | 創作欄
2014年2 月 8日 (土曜日)
創作蘭 真田の人生
真田は取手に在住してからファンド運営の分野から引退していた。
博才にたけていた真田はファンド運営においては、その勝負勘に物を言わせていたのだ。
多くのベンチャー企業は豊かな将来性を秘めるとともに、大きな不安定要素を内包していた。
立ち上げたビジネスをアーリーステージで成長させるのは並大抵のことではない。
特にスタートアップ・アーリーステージの企業への投資リスクは大きい。
しかし、真田がリスクが大きくてもそれに見合った高いリターンが見込めると判断した場合には、積極的に投資を行った。
投資案件を見定めるために徹底した審査を行い、その上で「上場を達成できる」と真田が確信できる企業に投資を行ってきたのだ。
いずれにしてもベンチャー企業に対する投資は、一件一件のリスクは非常に高いと言わざるを得ない。
そこで、様々な業種やステージの企業に分散投資を行うことで、ファンド全体のリスクを軽減していきた 。
真田は喫茶店「たまりば」で、競輪講座を開きながら、ファンド運営のポイントを話してみた。
競輪愛好者たちは、株の世界とは無縁である。
ファンドの運営など別次元の話しであり、ほとんど理解しなかった。
「マスター、株の世界もようするに、ギャンブルなんだ」と倉持勝利(かつとし)が言うので、みんなも納得した顔となる。
「未公開株に20億円、30億円も投資して、その金が戻って来ないこともざらにあることなんだ」
真田はファンド運営の大きなリスクを明かした。
「へえ、20億円、30億円か!もったいねい」染野敬は目を丸くした。
「マスターは本物のギャンブラーだったんだ。俺らとはスケールが違うはずだ。そうだっぺ」斎藤修はタバコの煙で輪を三つ作った。
みんながその輪が漂うを見た。



投稿情報: 07:36 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年2 月 6日 (木曜日)
創作蘭 真田の人生
「遠くの親戚より近くの他人」
真田は取手市民になって、日々それを実感した。
冬枯れの利根川堤防の枯れ草に残雪が溜まっていた。
川風の冷気が身に凍みる。
それなのに幼稚園児たちは、ダンボールの板に腰を下ろして土手を滑りながら思い思いに興じていた。
引率する幼稚園の職員が二人。
園児は20人ほどであった。
真田は自分が結婚していたら、孫の一人や二人はいただろうと思いながら、園児たちを見ていた。
一人の園児が真田に興味をもったらしく、ダンボールの手に近寄ってきた。
笑顔がとても可愛い女の子だった。
「おじいちゃんも滑ってみる」とダンボールの板を差し出すのである。
真田はその板を受け取り滑ってみた。
利根川の土手の斜面は25度くらいであり、冬枯れの草はダンボールの板に乗った真田の身を加速して行く。
多くの園児たちが口を開けて、土手を滑り降りる真田を見ていた。
真田はこの日の体験から幼稚園を建設することを思い立った。
元音楽教師の真田は、園児たちに音楽をなじませたく思ったのである。
真田はこれまで競輪や麻雀などに興じてきたが、幼児教育が真田のライフワークに加わったのである。

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2014年2 月 2日 (日曜日)
創作欄 真田の人生
取手駅西側の丘にあったキャバレー「桃山」の緑は、スナックを開くのが夢と言う。
真田は資金を出してやることにした。
スナック「緑」が台宿2丁目の坂上にオープンいたのは昭和52年の新緑の季節であった。
演歌好きの緑は有線放送を店で流していた。
真田は週に2回ほど「緑」で客として飲んだ。
誰も真田が緑の店の開店資金を出したことは知らない。
あくまで真田は喫茶店「たまりば」のマスターとして飲みに来ていた。
スナックには2人の家庭の主婦が働きに来ていた。
1人は37歳の小菅順子で愛想がよく性格が明るいタイプであり、順子を目当てに来る客も多かった。
もう1人は26歳の染野愛子で夫はトラックの運転手と言っていた。
口数が少なく、水商売には向かないタイプに思われたが、カラオケを歌わすと抜群の歌唱力であった。
「歌手になれば」と褒める客もいたが「ラジオ歌謡ならね」と受け流していた。
テレビ時代のアイドル路線の歌手には不向きの顔立ちと本人は自覚していたのだ。
実は浅草のキャバレーで働いていた緑は歌手を目指していたのだが、才能が認められることはなかった。
「私はね、流れ、流れて取手まで来てしまった」と自嘲気味に言っていた。
ママの緑と愛子の歌を聞きに来る客もいたし、一緒に歌う客もいた。
喫茶店「たまりば」は競輪好きの客が多く、スナック「緑」はカラオケ好きの客が多かった。
緑は有線放送のリクエストに余念がなく新曲にも精通していて「ママは演歌博士」と小菅順子が言えば、まんざらでもない表情をした。
家庭の主婦が水商売で働く理由は様々であるが、順子は公団住宅から分譲マンションに移住したいと望み夜の働きに出たのだった。
だが、「緑」の客の1人と深い関係となり、夫と2人の男の子のもとから男に走ったのだ。
「家庭の主婦には免疫がないからね。コロリと男にやられちゃくのね」と緑は突き放すように言った。




投稿情報: 03:00 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年1 月31日 (金曜日)
創作欄 真田の人生 
因果の理法について、真田は考えてみた。
戦争がもしも無かったら、真田の妻子は東京大空襲で死ぬことはなかっただろう。
そして、真田も音楽教師として地道に教育の場で生活をしてきただろう。
戦後の闇市で真田は無頼の徒となった。
無頼の徒とは、 悪い行いをする輩、ならずもの、といった意味の表現である。
だが、金儲けに長けていた真田は非合法なことのみに手を染めてきたわけではない。
戦後、闇市で知り合った者たちと闇物資を捌いては、小銭を得ていたのだ。
「小銭を貯められない者は大金をつかむことができない」真田の持論である。
金儲けには知恵と工夫が不可欠である。
つまり、小銭を貯めるためには、それ相応の才覚が必要だ。
しかも安易な手法では小銭は貯まらない。
真田は喫茶店「たまりば」で競輪講座を開きながら、常連客の意識を少しでも変えたく思っていたのである。
取手西口の丘の上にあったキャバレー「桃山」で真田は緑と名乗る女に出合った。
「私、浅草に居たのよ。貴方、私と何処かで会っていない?」
「そうだな。東京の何処かで会ったことがあるような気もするな」
「私、貴方のように気風のいい男が好みなの」緑は顔を近づけるような素振りで真田を見詰めた
「そうかい」真田は素っ気無く言った。

「私、ツキ女なの。明日、私を連れて取手競輪に行かない」
「ツキ女か。行ってもいいね」
真田は緑に興味が湧いたのである。
緑の本名は倉田奈々江であった。
「私ね、緑が好きなの。だから宝石は断然、エメラルドね」
上下緑のスーツ姿で緑はやってきた。
「私、特別観覧席で競輪を見るの初めて。いい眺めね」
奈々江は緑のバッグからタバコを取り出し口にくわえた。
真田はタバコではなく、パイプ派である。
「パイプの煙、いい臭いね」と奈々江が言う。
奈々江は8番選手が緑なので、車券は8番流しであった。
その徹し方に真田は笑みを浮かべた。
「お前さんは、本当に緑大好き人間なんだね」
「そうよ」
奈々江のアップに結った髪に緑のピンが留めてあった。
結局、最終レースは8-2で決まり、大穴となる。
1万2400円の高配当であり、奈々江は8-2を500円買っていた。
6万2000円の払い戻しであった。




創作欄 真田の人生 

2016年09月20日 20時53分46秒 | 創作欄
2014年2 月18日 (火曜日)
創作欄 真田の人生 
真田は人生を振り返り、常に自分はプラス思考できたと思っていた。
それが真田自身を良い方向へ向かわせてきた。
多くの人は、勝負すべき時に、負ける心配がら入るの常だ。
つまり守りから入るのである。
荻原忠雄もそんな1人であった。
彼は常に冒険はしない。
車券で言えば本命買いであった。
「荻原さん、1番人気で決まるレースは1日に、何回あるだろうか?」
「2回か、3回かな」
「もっと少ないはずだよ。1000円が2000円、2500円になってどうするの?」
人気はあくまで、多くのファンの期待値なのだ。
「競輪は記憶が物を言うギャンブル。しかも人間関係で成り立っている。もちつもたれるの世界。前回、お世話になったら、相手を勝たせてあげる。そういう世界、義理と人情で成り立っているとも言えるんだよ」
荻原は真田に言われてみて、「確かにマスターの言ったとおりだ」と納得した。
「マスターは教養もあるし、頭もいい。俺らは中卒で植木職人。才もないから金も貯められない」と自嘲的にい言う。
「意識改革をすればいいじゃないか」
「意識改革?」
「自分を信じ、常にいいイメージをもつことだよ」
真田は女性関係で一度もトラブルがなかった。
女性を手段とせず、愛玩するような気持ちで接してきた。
常に女性に安らぎを求めてきた。
そして 「来るものは拒まず、去るものは追わず」を信条ともしてきた。
「友人以上、恋人未満」の関係も少なくなかった。


投稿情報: 22:16 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年2 月14日 (金曜日)
創作蘭 真田の人生
真田徹は60歳になって、人生を振り返った。
そして、自分が生きている意味を考えた。
「あのような人間にだけは、なりたくない」と思った人とも何度か出会った。
だが、相手から見れば、真田自身だった「あのような人間」の一人であったかもしれない。
他人を犠牲にする。
他人を手段とする。
それは傲慢であるが、人は他人の不幸、犠牲によって自らの安住の地位を確保している場合もある。
喫茶店「たまりば」は愚痴のはけ口のような場でもあった。
また、スナック「緑」は色恋の世界を提供するような場であり、歌ったり踊ったすることを楽しむ場でもあった。
競輪の常連客はみんな金に窮していた。
競輪にパチンコが重なると身の破滅である。
「脳は楽しいことが好きだ」
真田はそのような切り口を思い立った。
ギャンブルは「楽しいこと」の一つである。
だが、「楽しいこと」が「苦しいこと」と表裏である。
博才に長けていた真田は、ある意味で「例外者」の一人であった。
株取引の世界での勝者の一人であった真田は、博打の世界でも勝利者の一人であった。
南の戦場で奇跡に生き残ったことが、そもそも人生の勝利者の一人であったのだ。
28歳で終戦を迎えた真田が、それから32年も生き延びて来られたのであった。
真田は元は音楽の教師であった。
今は幼稚園「ひまわり」の経営者でもあり、音楽を通じて幼児の情操教育にも関心を抱いていた。
幼児たにちが身に付けるべき人への「思いやり」は音楽に載せた絵本の朗読で涵養されていくはずだと真田は確信していた。

投稿情報: 02:54 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年2 月12日 (水曜日)
創作欄 真田の人生 
平和の砦 を築く。
真田は砦は取手に通じると想った。
取手の由来は、戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城:現在の取手競輪 場付近)があったことから名づけられたといわれている。
ただし、平安時代末の11世紀に は伊勢神宮の相馬御厨として、当市周辺の地名がすでに史料に記されており、紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などの地名も相馬氏の領地として史料に登場することから、正確な由来は判明していない。
平将門が城堡(砦:とりで)を築いた事に由来するとの説もある。
また、「取手」「鳥手」「鳥出」という標記がされている歴史書なども見受けられる。
いずれにしても、還暦を迎えてから真田は平和の砦を築く必要性を痛感していた。
それが戦死した戦友や東京大空襲で亡くなった妻子への供養であると思った。
そして真田が到達したのは、仏教の境地であった。
人は何故、憎しみあうのだろうか?
人は傲慢になった時に、自分が優れいて相手は自分より劣っていると錯覚する。
そして、異質なものを排除したり、攻撃したくなる。
不信、疑心暗鬼は心の負の領域である。
人は自分を信じられないから他人も信じられないのではないか?
「人を殺しては何故いけないの?」と無知な子どもは問うだろう。
そこで、逆説的に「人を殺してもいんだよ。だから、今、俺はお前を殺すぞ!いいんだな!」と子どもに刃物を突きつける。
子どもは殺すこと殺されるを自分の身として、現実的に理解するのか理解しないのか?
つまり、殺される恐怖を己の身として想像できるかどうかだ。
思いやりや想像力の欠如こそ現代の深い病理と真田には思われた。



投稿情報: 03:14 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
創作欄 真田の人生  
真田は還暦を迎えた。
真田が経営する喫茶店「たまりば」、スナック「緑」の常連客と幼稚園「ひまわり」の園長と職員たちが還暦を祝福してくれた。
場所は料亭の「滝沢」の大広間で、30名余が集まった。
商工会の人たちは別の日に祝福してくれたが、この日、真田は「ひまわり」の園長から着せてもらった赤いチャンチャンコ姿で席の中央に座っていた。
気持ちは若いつもりだったが、還暦には感慨深いものがあった。
真田の母は47歳の時に脳梗塞でなくなった。
母は商家から嫁に来て慣れない農業を手伝い7人の子どもを産み育てたのである。
当時は真田家には小作人が5人いて、心優しい母は小作人たちに温かい心で接していたので「女将さん」とみんなから慕われていた。
真田の父親は中学校で優秀な成績を修め、高等学校への進学を教師たちに勧められていたが家業の農家を継いでいた。
38歳で村長になったが、50歳を区切りに村会から身を引いた。
そして55歳の時に胃がんで亡くなった。
真田は両親が若くして亡くなったことに拘り続けていた。
真田にとって戦死を免れるたことは幸運であった。
靖国神社へ毎年参拝へ行き、戦友のためにもなるべく長く生きたいと願ってきた。
取手市民になっても終戦記念日には靖国神社へ足が向かった。
料亭の「滝沢」に集った人たちは戦争をほとんど知らない人たちであった。
「ひまわり」の園長の船橋道子だけが戦争を知っていた。
東京の両国生まれの道子は6歳の時に東京大空襲を経験していた。
「消防士をしていた父に家族8人が誘導され、大火のなか生きの伸びたの。父の誘導がなければあの時、一家全員炎に焼かれていた」
真田は道子から東京大空襲の様子を聞かされ、失った妻子のことを思い胸がかきむしられる思いがした。
太平洋の南の島の戦場にいた真田は、米軍の艦砲射撃の前でなすすべもなかった。
日本兵は虫けら同然に火炎放射器で焼き殺されたのだ。
あの戦争は圧倒的な物資と兵力の差であり、子どもと大人の戦いも同然であった。
還暦を迎えた真田は祝福される立場であったが、戦友たちの死や妻子の死が脳裏に浮かびあがり酒をいくら飲んで酔えない夜であった。

創作欄 真田の人生

2016年09月20日 20時51分51秒 | 創作欄
2014年2 月28日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
真田が朝の散歩から戻ってくると喫茶店「たまりば」に木村哲夫の息子の波夫が居た。
「波夫、どうした?」真田は背後から声をかけた。
「ああ、おじさん。おやじが、おやじが変なんだ」波夫は落ち着きがなく明らかに動揺していた。
「哲さんが変? どういうことだ」
「今朝、親父が徹夜の仕事から戻ってきて、車は何処だ?と聞くんです。親父は昨日の朝、車に乗って出かけるところを俺は見ていたので、何を言っているだと訳が分からなくなって・・・それから、おやじはマスターを呼んできてくれって言っている」
波夫はすがるような目をした。
真田が腕時計を確認すると午前6時10分である。
木村哲夫が住んでいる借家まで徒歩10分余である。
道すがら真田は波夫に父親の様子を聞いた。
「哲さんは酒を飲んでいる?」
「飲んでいるよ。何時ものとおりだけど」
「朝から飲むこともあるかい」
「朝からも飲んでいる」
「そうかい」真田は話に応じながら哲さんの端整な面立ちが最近、少し崩れてきたことに思い立った。
哲さんは粘着質の人であった。
それは競輪の車券にも表れていた。
例えば、ぞろ目への拘りである。
4-4、5-5、6-6を必ず買うのである。
「ぞろ目だと裏目で泣くこともないね」哲さんは自己満足に陥るタイプでもあった。
木村は居間のテーブルの前に座り、ビールを飲んでいた。
空のビール瓶がすでに3本並んでいた。
「マスターどうしたの?」
哲さんは空ろな目で真田を見詰めた。
「哲さんが呼んでいると息子さんが言うで来たんだ。何か相談事があるじゃないか?」真田は穏やかに微笑みかけた。
だが、木村は「俺、死のうと思って、さっき遺書書いた。マスター読む?」と心外なことを口走った。
「哲さんが死ぬ!? まだ、死ぬには早いんじゃないか。息子さんに心配かけちゃいけない」真田は諭すように言った。

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2014年2 月26日 (水曜日)
創作蘭 真田の人生
「真田さん、戦後、25年、経済的にわが国も豊かになったが、人類の危機を脱したとは言えない」
「そうだね」
真田は徳山に会って懇談すると常に、徳山の持論に引きづられ思いがした。
真田が趣味の競輪の話をしても、徳山はまるで興味を示さなかった。
天下国家を論じる青年のような志を徳山は失わずにいたのである。
「私は、国連の存在とその役割に期待しているのだが、国連はその役割、機能を十分に発揮していない。それが残念だ」
徳山は「どうすれば国連はその価値を高めることができるのか」を模索していた。
「どうすれば国連は人類の平和、安穏に寄与できる存在になるだどろうか?」徳山は真剣な眼差しで真田に問いかけてきた。
そのような課題に対して、肯定的かつ具体的に論じことは真田にはできなかった。
つまり、真田は超大国のバランス、利害の上に構成され、運営されている国連に懐疑的であった のだ。
「今こそ、国連に焦点を当てる必要があるのだが・・・」徳山はどこまでも国連の存在を肯定的にとらえており、平和創出のために徳山は国連に強い期待を寄せていたのである。
その日は、東京に大雪が降った。
真田は一人日比谷公園を歩いていた。
雪はいつもの景色を一変させる 。
「自分が変われば、周囲も変わる」真田は徳山の言葉を思い浮かべた。
「雪景色のように、心の風景も変わるだろうか」真田は、都会を離れどこか違った土地で暮らすのもいいだろうと思い立った。
「自分の幸福だけでなく、他者の幸福と一緒になったとき、本当の幸福があるです」
徳山が言っていた。
「人生にも心の風景を変える出会いもある」真田は日比谷公園を散策して帰途、そのように思った。
「真田さん、嬉しい出会いがあり、良き出会いを重ねることで、人生も豊かに耕させるですよ。私にはそう思われるんです」徳山の親しみを込めた笑顔が浮かんだ。


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創作欄 真田の人生
出会ったその日から意気投合する人物は真田にとって、希と言える。
他人から見れば真田は無頼であり、戦後の闇市から非合法の闇取引や賭博に身をやつしてきた怪しい人間の部類に属していた。
一方、静岡県焼津出身の徳山孝作は、第五福竜丸に所縁のある人であった。
ビキニ水爆被災事件を通じて、補償問題に携わってきた経緯から核兵器廃絶を訴えてきた。 1954年3月1日、太平洋のマーシャル諸島で、米国が世界初の“実用可能な”水爆実験を行った。
その威力は広島型原爆の約1000倍だから、想像を絶するものがあった。
ビキニ岩礁の東160kmの海域で第五福竜丸は被曝した。
爆発後、放射能を帯びたサンゴ礁のかけら(死の灰)が吹き上げられ、多くの船が被曝した。
中でも第五福竜丸は焼津港に帰港後、乗組員23人が急性放射能症で入院(国立東京第一病院及び東大付属病院に)9月に1人が亡くなった。
この年は、放射能に汚染された魚を捕った漁船は約900隻に上った。
1945年の敗戦後、日本は連合軍司令部(GHQ)の命令で、大型船や飛行機の建造が規制されていたのだ。
このため、当時の漁師たちは、木造船で赤道周辺まで航海し、命がけでマグロなどを捕っていたそうだ。
漁船のマグロから放射能が検出され、「原爆マグロ」と呼ばれて、457トンもの魚が捨てられた。 真田は焼津漁業組合で働いていた徳山孝作からそのよう当時の現状を聞かされた。
「亡くなった無線長の久保山愛吉さんはとてもいい人だった。実に残念だ!」
徳山は居酒屋の天井を仰ぎ見て涙を浮かべた。
出会いは不思議なもので真田が取手に移住するまで、週に1回は酒を酌み交わす間柄となった。
徳山は行政書士の資格や社会保険労務士の資格、宅地建物主任者の資格も有していた。
ある意味で地道な人であり平和主義者であり、無頼の真田とは対極にある人であった。
信頼すべき人物の徳山は思い出に残る人となった。



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2014年2 月25日 (火曜日)
創作欄 真田の人生 
真田は60歳を過ぎて、人生の黄昏を覚える時もあったが、人生に不満はなかった。
なぜなら、南の島の地獄そのものの戦場で奇跡的生き抜き、何とか日本本土に生還できたのだから感謝に耐えない身であった。
人生に不満、それは戦死した戦友たちや東京空襲で亡くなった妻子たちへの冒涜とさえ思われたのだ。
儲けものの人生を歩んでいる。
その自覚を真田は片時も忘れなかった。
真田にはこれまで貴重な出会いもあった。
その一つが東京・日本橋室町で古いビルの一階事務所での出会いであった。
不動産取引の場で、その人に出会った。
「静岡県焼津出身の徳山孝作です」と名乗った。
体格がよくいわゆる偉丈夫の雰囲気であり、笑顔が柔和であった。
言葉に静岡訛りがあることから親しみを覚えた。
真田の音楽学校時代の同期に静岡出身者の1人が居て、親しくなってことが思い出された。
戦後、ずっとその同期の友との連絡が途絶えていたのを真田は忘れずにいた。
「私の学友に焼津出身の者が居ました」真田は思わず口走った。
相手は真田の名刺を確認しながら「真田さんの学友が?焼津にですか?」と目を見開いた。 「ハイ、月星悟といいます」
「月星悟ですか!私の中学の同期です。奇遇ですな」
「月星悟と中学の同期なんですね。彼はどうしていますか?」
真田はソファーから身を乗り出すようにした。
「悟はシベリアに抑留され、死んだそうです。悟は網元の息子でしたが、音楽学校へ進みそのまま地元へ戻ってきませんでした」
真田も農家の倅であったが、音楽学校へ進み故郷へ戻ることはなかったのだ。
徳山孝作はこの日、日本橋の居酒屋へ真田を誘った。
「戦争を経験している同世代として、平和の尊さを伝えなければなりません」
徳山は日本酒の熱燗を飲みながら言葉に力を込めた。
真田は熱燗を好まなかったが、この日は徳山に合わせた。
徳山は第五福竜丸の表現者の1人であった。
「日本は広島、長崎で被爆し、さらに第五福竜丸です。当然、反核運動を推進すべきです」 真田はこれまで反核運動にまで思いが至らなかった。
徳山は当時、焼津の漁業組合の事務局の立場で奔走していたそうだ。
「思えば政府の対応も理不尽であり、焼津に見切りをつけることになりました」
徳山は無念の表情を浮かべた。
真田は政府にはあまり期待していなにので、徳山の一本木を気の毒にさえ思った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E
4%BA%94%E7%A6%8F%E7%AB%9C%E4%B8%B8#.E6.B2.BF.E9.9D.A9


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創作蘭 真田の人生 

2016年09月20日 20時50分00秒 | 創作欄
創作蘭 真田の人生 
「人生は四苦八苦」 木村は口走っていた。
4-9 8-9の車券を木村はずっとを買い続けていた。
その日のメインレース(決勝戦)は1番の選手が断然の人気であった。
本命の一番人気の1-7は2.1倍であった。
本来なら穴買い志向の真田であるが、選手間の脚足、戦績から1-7以外の車券は考えていなかった。
だが、木村が「マスター、俺はもう金がない。お願いだ。4-9、8-9を騙されたつもりで、買ってほしい」と懇願する。
「哲さん、このレースに限って、4-9、8-9はないよ」と真田は諭すように言った。
「では、俺に香典のつもりで1万円出してよ。4-9と8-9に5000円。マスターなら分かってくれるよね」
木村には鬼気迫るものがあった。
「死にたい」と言っていた木村に死期が迫っていたのだ。
「哲さん、分かった。香典だよ」 真田は3万円を木村の手に握らせた。
木村は4-9を1万5000円、8-9を1万5000円買ったのである。
一番人気のラインは1-7―5
穴のラインは6-2 -9であり、人気薄のラインは8-3-4であった。
スタートは、8-3-4  6-2 -9 1-7-5 の並びとなる。
真田は悪い予感がした。
真田は元来なら、1―7―5  6-2-9 8-3-4の並びを想定していた。
位置どりから1-7-5の本命ラインは捲り(追い込み)ではなく、逃げになってしまうのだ。
案の定、1-7-5で先行したら、8-3-4ラインに抵抗される。
本命の1番線選手は8番との先行争いで必要以上に足をロスする。
そして、信じられないが、3番選手に外に張られて失速した。
まるで車体が故障したように本命の1番選手はズルズルと後退していく。
結果は人気薄のラインの3番手から4番選手が抜け出し、外から穴人気のラインの3番手から9番選手が伸びてきたのだ。
木村の顔は特別観覧席で青ざめていた。
「人生は四苦八苦」の木村の期待したとおりのレース結果となった。
4-9は8万7540円の配当だった。
つまり、木村は香典と懇願して真田から3万円を借りて、4-9に1万5000円を投じていた。
木村が払い戻した金は、131万3100円であった。
木村の体は小刻みに震えていた。
真田は「哲さん、やったね」と木村の背中を叩いた。
「これでマスター、俺の葬式代が出た」と木村は真顔で言う。

   




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2014年3 月 4日 (火曜日)
創作欄 真田の人生
どんな物事にも「原因」があり「結果」があるはずだ、と真田は想った。
だから、木村哲夫が精神を病んだことにもそれなりの原因があるはずだ。
木村は非常に頑固な面を持ち、自分の意志を曲げようとしないことも多々った。
それはかれの競輪における車券の買い方にも表れていたのである。
ぞろ目への拘りに加えて、家を出ていった妻の初子を意識して1-4の目を買い続けていた。
初子は4月14日生まれであったのだ。
中学を卒業してから、板前の仕事をこなすなかで忍耐強い性格が形成されていったであろう。 木村には几帳面で礼儀正しく義理がたい面もあった。
粘着質の木村の性格からして、職人肌の板前の仕事が合っていたと言えるだろう。
だが、割烹の板前から兄の強い要請で建築業に転身を余儀なくされていた。
それは木村にとって不本意であり、ストレスを内側に溜め込む性格であったので、酒などで憂さを晴らしてきたが我慢も限度にきたのだろう。
また、地道な努力で、一度手がけた仕事は最後まで粘り強くやり通すが、その反面手際が悪く感じられることもあったのだ。
やがて砂利採掘の仕事も嫌々やっている状態となる。
心のどこかで未練が断ちがたく、板前に戻りたいと思っていたことも否めなかっただろう。
「死にたい」と言い出した木村は本気であったのだ。


投稿情報: 08:31 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月 3日 (月曜日)
創作欄 真田の人生
木村哲夫は東京・築地の割烹「村宗」の板前であった。
村宗の店主は、哲夫の母親の従兄であった。
哲夫の父は昭和19年に南方で戦死している。
哲夫は北区王子の中学を卒業すると、村宗に住み込みでお世話になった。
哲夫は22歳の年に、村宗の仲居の初子と結婚した。
初子は千葉の銚子の出身で、二つ年下であった。
哲夫に大きな夢があるわけではなかったが、初子は夫が将来独立して銀座辺りに小料理屋を持てたらと願っていたのである。
だが、昭和40年代、哲夫の取手に住む兄が突然、築地の店にやってきて、「俺の建築業を手伝ってくれ」と頼み込んだのである。
当初、哲夫は兄の頼みを断っていた。
だが、「支度金だ」と兄の大輔が強引に300万円を置いていく。
競馬好きの哲夫はその300万円に手を着けてしまった。
「軍資金さえあれば、競馬に勝てる」哲夫は大きな錯覚をした。
土曜日、日曜日の朝から哲夫は銀座の場外馬券場へ10万円を持って馬券を買いに行く。
だが、毎回、お金を失うばかりであった。
300万円の金はわずか半年余で消えた。
その間には最高、80万円を払い戻したこともあったが、結局は金を失うばかりであった。
哲夫は意に反して、板前を辞めて兄の建築業を手伝うこことなった。
「これからは、建築業の時代だ。取手も発展するぞ。今に見ておれだ」
哲夫の兄大輔は上機嫌で弟を迎えいれたのだった。

投稿情報: 07:30 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
創作欄 真田の人生
木村哲夫はやおら立ち上がったが、崩れるように膝を着いて前のめりに転んだ。
真田は思わず木村の両肩を支えたが、木村は前頭部を畳に打ちつけ倒れ込んだ。
脇に立っていた木村の息子の波夫は口をあんぐりと開けて父親をただ見下ろしていた。
「哲さんどうしたんだい。頭は大丈夫かい?」
真田は木村の身を起こした。
「膝に力が入らねんだ。膝がガクガクする。仕事に行っても仕事にならねい。俺はもうおしまいだ」
木村はうな垂れて頭を上げない。
木村は建築業の兄の仕事を手伝っていたが、競輪にのめり込んで借金をつくっていた。
そのことを兄に厳しく咎められ、仕事を辞めてしまった。
悪いことは重なるもので、生活の足しにとスナックで働き始めた木村の妻に男ができたのである。
「マスター、俺は悔しいよ。女房を変な野郎に寝取られてよ」
相手の男は真田も知っている的屋(露天商)の男であった。
木村の奥さんの初子を取手競輪場で見かけた時、真田は唖然とした。
短髪の髪の毛を赤く染めていた。
はじめは初子だとは気がつかなかったが、独特のハスキーな声で車券を買っていた。
初子の脇に的屋の小島健作が立っていたので真田は声をかけるのがはばかれた。
昼間、夫の木村が仕事をしているのに、派手な身なりで男といちゃつきながら競輪に興じている初子に言葉を失った。
妻が家を出てから木村は自暴自棄になった。
「哲さん、辛いだろうけど、最低限仕事はしろよ」
真田は喫茶店「たまりば」の客に頼み込んで、哲さんを砂利の採掘工場で働かせた。
利根川から砂利の採掘する仕事である。
妻の家出から3年の歳月が流れていたが、哲さんは精神を病むようになった。
端正で柔和であった哲さんの顔は別人のように険しい表情になっていた。
約半年、精神病院に哲さんは入院した。
入院から退院まで真田は木村の面倒をみていた。
息子の波夫がいつも真田のもとへやって来た。
「おじさん、おやじを何とかしてよ。おじさんしか、僕には頼りはいないいだ」その波夫の悲しげな表情を見ると放置できなかった。
真田にとって、波夫は孫のように可愛い少年であった。
退院して、また砂利の採掘工場で働きだした矢先に木村は「死にたい」と言い出すようになった。


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創作欄 真田の人生 

2016年09月20日 20時47分42秒 | 創作欄
2014年3 月 9日 (日曜日)
創作欄 真田の人生 
「何とかできなかったのか?」と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。真田は木村哲夫に手紙を書いた。
思えば、真田はほとんど手紙を書かない。
心は目には見えないが、真田の心を木村に届けるために手紙を書いた。
「木村哲夫様 ここ数日、見せてもらった遺書について考えてみました。
現在、哲さんはうつ状態にありますね。
うつ病は心の風邪とも言われ、誰でも罹るものです。
ですから、それに押しつぶされて死を選ぶのは、できれば避けてほしいですね。
生きてさえいれば、人生はどうにでもなると思うのです。
南の戦場で九死に一生を得た私は、死んだ戦友のためにも、また、東京大空襲で亡くなった妻子のためにも、生き続けたいと今日まで生きてきました。
つまり、儲けものような生をありがたく思って生きてきました。
自殺は自分だけの問題ではありません。
『何とかできなかったのか?』と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。
哲さん何時でも相談に乗ります。
朝の散歩では八坂神社で哲さんのことを祈っています。
真田」
手紙を出してから、数日後、真田は木村を八坂神社の祭に誘った。
真田は加賀友禅の浴衣姿であった。
「俺も浴衣を着るか」と木村は笑顔で言い、部屋へ戻った。
玄関へ出てきた木村は頭に白地に藍染めの手ぬぐいを巻いて板前時代のように、粋な雰囲気であった。

http://www.toride-kankou.net/etc/event3


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2014年3 月 7日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
未練である。
死ぬことを決意した木村哲夫は、自分を裏切った妻初子に会いたくなったのである。
家計の足しにと夜の勤めに出た家庭の主婦が、ヤクザ者に誑(たぶらか)されるのは容易なことである。
家庭の主婦は言わば無防備であり、世間知らずであり、野獣にとっては飛び込んできたウサギのような餌食と同然である。
「店を終わったら、ラーメンでも食べにいくかい?」と客の1人に誘われた。
優しそうな男であった。
何時も控え目にカウンターの片隅で飲んでいた。
「そうね。美味しい店知っているの?」
「ああ、牛久にあるんだ」
牛久駅は取手駅から水戸方面へ向かった三つ目であった。
「牛久沼の前の店だ」
「それじゃあ、連れていってね」
時計を確認すると、午前0時を過ぎていた。
深夜の道路は車が順調に走行し、17分ほどでラーメン店に着いた。
男には魂胆がった。
ラーメン店の傍のモーテルに連れ込む算段であったのだ。
初子は食べたラーメンに満足した。
「美味しかった。取手にもこんなに美味しいラーメンがあればいいのに」
「そうかい。満足したかい。今夜はお前さんを食べたくなったな」男は店を出ると唐突に初子を抱き寄せたのだ。
「やめて!」と叫んだが唇を塞がれた。
後は強引な男の意のままにされたのだ。
「今夜は帰えさないぞ!」優しいそうに想われ男はヤクザな正体を現した。
結局、初子は夫からは得られなかったような男のテクニックに翻弄されたのだ。
しかも、相手は性に淡白な夫とは比べられないほどの絶倫男であったのだ。
「これが性愛の?」初子は女の喜びに初めて開花した。

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2014年3 月 5日 (水曜日)
創作欄 真田の人生
人生如何にいきるべきか?
それは人類の命題である。
人類史上、最悪な人間が出現し、前代未聞の悪事をなす。
神や仏が存在するなら、当然、悪事は未然に防ぐだろう。
だが、厳密な意味で人が生み出した神や仏に特別な力が備わったいるわけではないので、悪事を止める力が神や仏ににあるわけではない。
真田は太平の南の島での戦争で現実者となった。
現実者とは死線を超えないとなりえないはずだ。
現実者は虚無者でもあるが、真田は人間の善性を失っていなかった。
つまり、人間の可能性「復元力」「蘇生力」に期待していた。
わずか5000円のために人を殺す17歳の高校生も居る。
殺した相手は15歳の中学生の少女である。
真田は取手駅前の喫茶店「たまりば」で新聞の社会面を毎朝見ながら、暗澹たる気持ちとなった。
だが、昭和40年代に犯罪が増加したとは思っていない。
戦後、昭和20年代、30年代は40年代以上の凄惨な犯罪が行われてきた。
ある意味では、昭和40年代は希望が見えるとさえ思われた。
だが、真田は山崎豊子の小説「白い巨塔」を読み、医療界に疑念を抱いた。
また、真田にとって従軍看護婦問題も無視できなかった。
真田は戦後、元従軍看護婦との交情もあったのである。
--------------------------------
<参考>
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。
太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。
応召中の日赤看護婦は15,368名であった。
海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。
敗戦直後、旧海軍が日本人慰安婦を、軍病院の看護補助者に雇用せよとの通達が発見されている。


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2014年3 月 9日 (日曜日)
創作欄 真田の人生 
「何とかできなかったのか?」と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。真田は木村哲夫に手紙を書いた。
思えば、真田はほとんど手紙を書かない。
心は目には見えないが、真田の心を木村に届けるために手紙を書いた。
「木村哲夫様 ここ数日、見せてもらった遺書について考えてみました。
現在、哲さんはうつ状態にありますね。
うつ病は心の風邪とも言われ、誰でも罹るものです。
ですから、それに押しつぶされて死を選ぶのは、できれば避けてほしいですね。
生きてさえいれば、人生はどうにでもなると思うのです。
南の戦場で九死に一生を得た私は、死んだ戦友のためにも、また、東京大空襲で亡くなった妻子のためにも、生き続けたいと今日まで生きてきました。
つまり、儲けものような生をありがたく思って生きてきました。
自殺は自分だけの問題ではありません。
『何とかできなかったのか?』と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。
哲さん何時でも相談に乗ります。
朝の散歩では八坂神社で哲さんのことを祈っています。
真田」
手紙を出してから、数日後、真田は木村を八坂神社の祭に誘った。
真田は加賀友禅の浴衣姿であった。
「俺も浴衣を着るか」と木村は笑顔で言い、部屋へ戻った。
玄関へ出てきた木村は頭に白地に藍染めの手ぬぐいを巻いて板前時代のように、粋な雰囲気であった。

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2014年3 月 7日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
未練である。
死ぬことを決意した木村哲夫は、自分を裏切った妻初子に会いたくなったのである。
家計の足しにと夜の勤めに出た家庭の主婦が、ヤクザ者に誑(たぶらか)されるのは容易なことである。
家庭の主婦は言わば無防備であり、世間知らずであり、野獣にとっては飛び込んできたウサギのような餌食と同然である。
「店を終わったら、ラーメンでも食べにいくかい?」と客の1人に誘われた。
優しそうな男であった。
何時も控え目にカウンターの片隅で飲んでいた。
「そうね。美味しい店知っているの?」
「ああ、牛久にあるんだ」
牛久駅は取手駅から水戸方面へ向かった三つ目であった。
「牛久沼の前の店だ」
「それじゃあ、連れていってね」
時計を確認すると、午前0時を過ぎていた。
深夜の道路は車が順調に走行し、17分ほどでラーメン店に着いた。
男には魂胆がった。
ラーメン店の傍のモーテルに連れ込む算段であったのだ。
初子は食べたラーメンに満足した。
「美味しかった。取手にもこんなに美味しいラーメンがあればいいのに」
「そうかい。満足したかい。今夜はお前さんを食べたくなったな」男は店を出ると唐突に初子を抱き寄せたのだ。
「やめて!」と叫んだが唇を塞がれた。
後は強引な男の意のままにされたのだ。
「今夜は帰えさないぞ!」優しいそうに想われ男はヤクザな正体を現した。
結局、初子は夫からは得られなかったような男のテクニックに翻弄されたのだ。
しかも、相手は性に淡白な夫とは比べられないほどの絶倫男であったのだ。
「これが性愛の?」初子は女の喜びに初めて開花した。

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2014年3 月 5日 (水曜日)
創作欄 真田の人生
人生如何にいきるべきか?
それは人類の命題である。
人類史上、最悪な人間が出現し、前代未聞の悪事をなす。
神や仏が存在するなら、当然、悪事は未然に防ぐだろう。
だが、厳密な意味で人が生み出した神や仏に特別な力が備わったいるわけではないので、悪事を止める力が神や仏ににあるわけではない。
真田は太平の南の島での戦争で現実者となった。
現実者とは死線を超えないとなりえないはずだ。
現実者は虚無者でもあるが、真田は人間の善性を失っていなかった。
つまり、人間の可能性「復元力」「蘇生力」に期待していた。
わずか5000円のために人を殺す17歳の高校生も居る。
殺した相手は15歳の中学生の少女である。
真田は取手駅前の喫茶店「たまりば」で新聞の社会面を毎朝見ながら、暗澹たる気持ちとなった。
だが、昭和40年代に犯罪が増加したとは思っていない。
戦後、昭和20年代、30年代は40年代以上の凄惨な犯罪が行われてきた。
ある意味では、昭和40年代は希望が見えるとさえ思われた。
だが、真田は山崎豊子の小説「白い巨塔」を読み、医療界に疑念を抱いた。
また、真田にとって従軍看護婦問題も無視できなかった。
真田は戦後、元従軍看護婦との交情もあったのである。
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<参考>
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名2014年3 月 9日 (日曜日)
創作欄 真田の人生 
「何とかできなかったのか?」と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。真田は木村哲夫に手紙を書いた。
思えば、真田はほとんど手紙を書かない。
心は目には見えないが、真田の心を木村に届けるために手紙を書いた。
「木村哲夫様 ここ数日、見せてもらった遺書について考えてみました。
現在、哲さんはうつ状態にありますね。
うつ病は心の風邪とも言われ、誰でも罹るものです。
ですから、それに押しつぶされて死を選ぶのは、できれば避けてほしいですね。
生きてさえいれば、人生はどうにでもなると思うのです。
南の戦場で九死に一生を得た私は、死んだ戦友のためにも、また、東京大空襲で亡くなった妻子のためにも、生き続けたいと今日まで生きてきました。
つまり、儲けものような生をありがたく思って生きてきました。
自殺は自分だけの問題ではありません。
『何とかできなかったのか?』と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。
哲さん何時でも相談に乗ります。
朝の散歩では八坂神社で哲さんのことを祈っています。
真田」
手紙を出してから、数日後、真田は木村を八坂神社の祭に誘った。
真田は加賀友禅の浴衣姿であった。
「俺も浴衣を着るか」と木村は笑顔で言い、部屋へ戻った。
玄関へ出てきた木村は頭に白地に藍染めの手ぬぐいを巻いて板前時代のように、粋な雰囲気であった。

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2014年3 月 7日 (金曜日)
創作欄 真田の人生
未練である。
死ぬことを決意した木村哲夫は、自分を裏切った妻初子に会いたくなったのである。
家計の足しにと夜の勤めに出た家庭の主婦が、ヤクザ者に誑(たぶらか)されるのは容易なことである。
家庭の主婦は言わば無防備であり、世間知らずであり、野獣にとっては飛び込んできたウサギのような餌食と同然である。
「店を終わったら、ラーメンでも食べにいくかい?」と客の1人に誘われた。
優しそうな男であった。
何時も控え目にカウンターの片隅で飲んでいた。
「そうね。美味しい店知っているの?」
「ああ、牛久にあるんだ」
牛久駅は取手駅から水戸方面へ向かった三つ目であった。
「牛久沼の前の店だ」
「それじゃあ、連れていってね」
時計を確認すると、午前0時を過ぎていた。
深夜の道路は車が順調に走行し、17分ほどでラーメン店に着いた。
男には魂胆がった。
ラーメン店の傍のモーテルに連れ込む算段であったのだ。
初子は食べたラーメンに満足した。
「美味しかった。取手にもこんなに美味しいラーメンがあればいいのに」
「そうかい。満足したかい。今夜はお前さんを食べたくなったな」男は店を出ると唐突に初子を抱き寄せたのだ。
「やめて!」と叫んだが唇を塞がれた。
後は強引な男の意のままにされたのだ。
「今夜は帰えさないぞ!」優しいそうに想われ男はヤクザな正体を現した。
結局、初子は夫からは得られなかったような男のテクニックに翻弄されたのだ。
しかも、相手は性に淡白な夫とは比べられないほどの絶倫男であったのだ。
「これが性愛の?」初子は女の喜びに初めて開花した。

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2014年3 月 5日 (水曜日)
創作欄 真田の人生
人生如何にいきるべきか?
それは人類の命題である。
人類史上、最悪な人間が出現し、前代未聞の悪事をなす。
神や仏が存在するなら、当然、悪事は未然に防ぐだろう。
だが、厳密な意味で人が生み出した神や仏に特別な力が備わったいるわけではないので、悪事を止める力が神や仏ににあるわけではない。
真田は太平の南の島での戦争で現実者となった。
現実者とは死線を超えないとなりえないはずだ。
現実者は虚無者でもあるが、真田は人間の善性を失っていなかった。
つまり、人間の可能性「復元力」「蘇生力」に期待していた。
わずか5000円のために人を殺す17歳の高校生も居る。
殺した相手は15歳の中学生の少女である。
真田は取手駅前の喫茶店「たまりば」で新聞の社会面を毎朝見ながら、暗澹たる気持ちとなった。
だが、昭和40年代に犯罪が増加したとは思っていない。
戦後、昭和20年代、30年代は40年代以上の凄惨な犯罪が行われてきた。
ある意味では、昭和40年代は希望が見えるとさえ思われた。
だが、真田は山崎豊子の小説「白い巨塔」を読み、医療界に疑念を抱いた。
また、真田にとって従軍看護婦問題も無視できなかった。
真田は戦後、元従軍看護婦との交情もあったのである。
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<参考>
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。
太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。
応召中の日赤看護婦は15,368名であった。
海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。
敗戦直後、旧海軍が日本人慰安婦を、軍病院の看護補助者に雇用せよとの通達が発見されている。


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、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。
太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。
応召中の日赤看護婦は15,368名であった。
海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。
敗戦直後、旧海軍が日本人慰安婦を、軍病院の看護補助者に雇用せよとの通達が発見されている。


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創作欄 真田の人生 おわり

2016年09月20日 20時45分56秒 | 創作欄
2014年3 月13日 (木曜日)
創作欄 真田の人生 おわり
金がすべてはないが、金で解決できることもある。
金に困ると人は犯罪者にもなりかねない。
一番安易なのは、人を殺してまで金を奪うことだ。
奪った金はわずか500円。
財布には500円しか入っていなかったのである。
「500円?! 日当にもならん。この19歳の若者は無期懲役だろう」
真田は新聞の3面記事を読んで暗澹たる気持ちになった。
「愛と慈悲」について真田は考え、図書館で宗教関係の本を探し読んでみた。
さらに「最高の善とは何か?」と考え哲学書も読んでみた。
金儲けと博打などに生活の大半を注いできた真田には、心の栄養が不足していた。
思えば映画もほとんど見なかった。
ましてや元音楽教師でありながら歌劇やコンサートとは無縁な生活を送ってきた。
真田は取手音楽クラブの創設を思い立った。
音楽で取手の街を活性化する。
取手交響楽団が誕生したらそれを経済的に支える。
あるいは多くの著名で優れた音楽家や楽団を取手に招聘する。
真田は「最高の善」は、人に感動を与えることだとと思った。
木村は割烹「きむら」で再スタートしていた。
「さんざお世話になったマスターに俺の料理を食べてもらって、こんなに嬉しいことはない」
木村の顔は温和で端正になっていた。
人間は生きがい、やりがいがあれば蘇生するのもだ。
初子も紆余曲折があったが、木村の元へ戻っていた。
「私、家へ戻れない」と初子が言うので、しばらくみどりに託した。
「マスターの頼みだもの、しばらく初子さんをあずかるわ」
姉御肌のみどりは快く初子を受け入れた。
そして半年後、木村が初子を迎えに行き心のわだかまりが解けた。
「家へ戻れる資格はないのだけれど、許してもらえるなら・・・」
「一度、死んだも同然の俺だ。何もかもマスターのおかげだ。帰ってきてくれ」
木村は畳に頭をこすりつけるようにした。
「初子さん良かったわね。いい旦那さんなのだから、大切にしてね」みどりは初子の背中を押すようにした。




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2014年3 月12日 (水曜日)
創作欄 真田の人生
人を如何に励ますことができるか?
真田は思いを巡らせた。
あるいは生命をダイナミックに変革していく方途はあるのか?
死に神に取り憑かれたような虚無的な木村哲夫が、生きていくためには、夢と希望、生きがい、やりがいなどが不可欠だ。
木村に期待されるのは、「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」であった。
兄に請われて、割烹料理店の板前から建築業へ転身したことが、木村の人生や生活の歯車を狂わせた。
「もう一度、木村が板前に戻ればいいのだ」と真田は思いついたのだ。
同時に家を出た木村の妻初子を呼び戻さねばならないと決意し、的屋の小島健作と交渉した。 料亭「高島」に小島は舎弟の近藤進を連れてやってきた。
小島は浴衣姿であった。
「マスターなんの用かい?」 席に着くなり小島は上目で睨むように切り出した。
「まあ、食事をしながらのことだ」真田は仲居に鰻重と刺身の盛り合わせなどを注文した。
それにビールを頼んだ。
「どうなの? 商売の方は?」穏やかな口調で問いかけた。
「ボチボチだね。マスターのような才覚が無いんで、肉体で稼いでいるよ」
舎弟の近藤はかしこまって正座のままだ。
「かたい、席ではないのだから、楽にしなさい」と真田は促したが近藤は膝を崩さなかった。 注がれたビールを小島は一気に飲み干した。
「マスターのことは競輪仲間にも聞いているが、凄いギャンブラーなんだね。この店は冷えていいや。外は暑いな。露天商は本当のところ肉体労働なんだ」小島はニヤリとしたが目は笑っていない。
「冬は寒くて大変だね」
「そう、寒くてな、でも焼き鳥だから、暖は取れるがね」 小島が真田にビールを注いた時、右手の上部の刺青が見えた。
小島は早食いであり、真田が鰻重を半分食べているともう食べ終わっていた。
ビールの後は酒にした。
小島は熱燗であり、真田と近藤は常温で日本酒を飲んだ。
真田は人づてに小島が多額の借金をしていることを聞いていた。
そこで切り出したのだ。 「初子のことだが、家へ帰してやってくれ。場合によっては手切れ金を出す」
「マスター、手切れ金。本気なのかい?」小島は頬を緩めた。
そして舎弟の近藤へ目をやった。 「証人もここにいるんだが、手切れ金をよこすんだね」
「そうしても、いいんだ」真田は穏やかに言った。
「この俺もマスターには、かなねい。わかった」と小島は承諾した。
真田は麻のスーツから財布を取り出し、小切手を小島に示した。
「500万円?! マスター、こんなにいただいて、いいの」 小島は近藤を見ながら目を丸くした。


-----------------------------------------
<参考>
的屋(てきや)は、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。
祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内や参道、門前町において屋台や露店で出店。
----------------------------------------------------

レジリエンス(resilience)は「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳される心理学用語である。
心理学、精神医学の分野では訳語を用いず、そのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。
「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。
元々はストレス (stress) とともに物理学の用語であった。
ストレスは「外力による歪み」を意味し、レジリエンスはそれに対して「外力による歪みを跳ね返す力」として使われ始め、精神医学では、ボナノ (Bonanno,G.) が2004年に述べた「極度の不利な状況に直面しても、正常な平衡状態を維持することができる能力」という定義が用いられることが多い。
1970年代には貧困や親の精神疾患といった不利な生活環境 (adversity) に置かれた児童に焦点を当てていたが、1980年代から2000年にかけて、成人も含めた精神疾患に対する防衛因子、抵抗力を意味する概念として徐々に注目されはじめた。

投稿情報: 13:51 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月11日 (火曜日)
創作欄 真田の人生
生きることへの明確な意思と目的、そして新しい視点をもつ必要がある。
真田は死に囚われ人の心の病を想ってみた。
人は多くの困難を抱えているが、それを何とか乗り越えて生きてきている。
つまり、日々の厳しい現実の生活に流されているが、それ相応に何とか対応して生きている。
木村哲夫に欠如しているのは、他者を思いやる温かい心情であったと真田には思われた。
的屋の小島に誑かされ、夫と子どもを棄て家を出た初子の姿を夫の木村に見せる。
それは木村にとっては酷であったが、現実逃避の木村へのカンフル剤になると想われたのである。
「愛しているなら女房を取り返せ」真田は木村の背中を押したのである。
木村は取手に在住してから喫茶店「たまりば」、スナック「みどり」、幼稚園「ひまわり」、古本屋「本の町」、旅行代理店「世界は友」などを経営した。
さらに木村のために割烹料理店「きむら」のオープンを構想していた。
戦後の闇取引や不動産取引、株の運用などで当時10億円余を得た真田は、何とか在住した取手の活性化を念じていたので、その構想の中で木村の立場も活かしたいと念じていたのだ。
的屋の小島の女となった初子は、八坂神社の祭で露天で焼き鳥を焼いていた。
「初子」と木村は声をかけた。
初子は木村が声をかけたことに動揺したそぶりを見せない。
したたかな女に変貌していた。
木村の腰は引けていた。
そこで真田は微笑みかけた。
「初子さん、今は幸せかい?」 初子は真田の問いかけに明らかに動揺した。
「真田さん、それ以上聞かないで!」 初子は露骨に嫌な表情を浮かべた。
真田は木村の背中を押して促した。
「初子、家へ戻ってくれ」 木村の声は弱く震えていた。
「初子さん、後は心配ない。私が話をつけるからね!」
真田は言葉に力を込めたのであるが、初子は木村の力量を信じていなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=PW7FZxMrl_M



投稿情報: 21:04 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月10日 (月曜日)
創作欄 真田の人生
自殺したいと思う人は、視野狭窄に陥った人でもある。
「自分以外に目を向けてこそ人は刺激や生きがいを感じるはずだ」と真田は思った。
八坂神社の祭に木村を誘ったのは、木村の妻の初子の姿を見せる意味もあった。
的屋(露天商)の女になった初子の姿を真田は度々目撃していた。
それは取手競輪場内であった。
JR取手駅東口を降りて直進、30m程先を右折した通りが「大師通り」である。
ここは、古刹「長禅寺」の門前通りとして古くから人が往来した通りだ。
駅から歩いて2、3分の距離に位置するこの通りは、昭和の時代には駅前商店街として大変賑わいをみせた通りであったあった。
取手に一時在住した作家・坂口安吾と所縁があるの海老屋酒店も大師通りに現存する。
大師通りは漬物屋の新六と地酒の田中酒造が並ぶ旧水戸街道へ続く。
この旧水戸街道と平行するのが新道である。
八坂神社の祭は新道を交通止めにして屋台が店を連ねていた。
木村の妻の初子は屋台で焼き鳥を焼いていた。
昭和20年生まれの初子はこの年、29歳であった。
初子は8歳の息子を置いて家を出ていた。
31歳の木村は的屋である40歳の小島健作に女房を寝取られた身であった。
小島は脇で的屋仲間と談笑していたが、真田と目を合わせると逃げるように姿を隠した。
「初子を家へ帰せ」と真田に言われていたのである。
戦後の闇社会にも身を置いた真田は60歳に近い年代であったが、威圧感のある存在であったのだ。
真田は競輪場では、マスターとか社長と呼ばれコーチ屋や飲み屋、ヤクザ者たちからも一目置かれている存在であった。
-----------------------------------------

<参考>
コーチ屋とは:
「次のレースは○○がくるぞ!間違いない!!相手はコレとコレや!しっかり儲けてや!」と声をかける。
コーチ屋の予想が的中すると「おい!ナンボほど買うてん?教えてやったんやから半分よこせや!」となる。

ノミ屋(ノミや)とは:

日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。
また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 



投稿情報: 11:53 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

創作欄 取手の人々

2016年09月20日 20時43分05秒 | 創作欄
創作欄
2014年3 月27日 (木曜日)
創作欄 取手の人々
1年遅れであるが、人生の完全燃焼へ向かって、一歩を踏み出そうと徹は想った。
奇しくも茨城県取手市の住民となって20年余、愛着も湧いてきた。
あの頃、徹は大学の友人に相談を持ちかけいた。
「田中、嫁さんの実家が近いことが、そもそも問題だな」
徹の愚痴を聞いて友人の木島孝司は指摘した。
2人は酒を飲まないので、常に会えば喫茶店で懇談していた。
木島は紅茶で徹はソーダー水である。
子どもの頃から緑色が好きな徹は、緑色のジーパン姿である。
「緑のジーパンか」と木島は呆れた顔をした。
徹のバックも緑色であった。
「雇用促進住宅を田中に斡旋するよ」
「雇用促進住宅?」
「労働省の外郭団体の雇用促進事業団の住宅なんんだ」
「つまり、木島が勤務する労働省の傘下団体なんだね」
「そう。普通は容易に入居できない。倍率は30倍以上。家賃が安いんで入居希望者が殺到している」
「それで、その雇用促進住宅を木島が斡旋してくれるんだ。有難い」
「船橋と取手に空きがある。どちらにする」
「船橋がいいな」
徹は競馬好きなので船橋を選らんだ。
「船橋は築15年、古い。取手は築2年、まだ新しい。瞳さんに聞いてみたら」
木島は瞳の性格を知っていたので促した。
徹は頭が上がらない妻の瞳の意見も聞くことにした。
惚れた弱みを徹は引きずっていた。
「かかあ天下」になるなと木島が予測していたとおりに、妻の瞳が家庭の実権を握っていたのだ。
男4人兄弟の家庭の一人娘であった瞳は、3人姉妹の家庭の一人息子として育った徹より、性格が勝っていたのだ。
結局、瞳が選んだ取手市内の雇用促進住宅に入居したのは、徹が28歳、瞳が24歳の年であった。

投稿情報: 07:40 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月24日 (月曜日)
創作欄 取手の人々
長男の忠則は何時ものように、足をバタバタ鳴らすように2階の部屋から階段を下りてきた。
次男の健児は忠則とは対照的で猫のように足音も立てず階段を下りる性質であった。
だから父親の信夫は長男を「バタバタ息子」次男「ネコ息子」と幼児のころから揶揄していた。 階段を勢いよく下ってきた忠則は玄関内に角刈りで眼光の鋭い男たちが立っているので度肝を抜かれた。
気が小さい性格であったので、友だちには小学生のころからいじめられてきた。
忠則は相手が暴力団の男たちだと思い、自分に何かトラブルはあったかを瞬時に頭を巡らせた。
一人の男が一歩前へ出て紙面て取り出し「浅生忠則だね。逮捕状が出ている。逮捕容疑は婦女暴行だ。逮捕す。被害者は2人。加害者は浅生忠則、長田健作、田辺次郎の3名。千葉県警松戸署に連行する」
忠則は被害者の名前を捜査員から聞かされて数か月前のことを思い出した。
「あれが婦女暴行なのか?!」
母親の早苗は覆面パトカーに息子が押し込めれる瞬間、母親の顔にすがりつくような視線を送る息子に「バカ」と叫びながら平手打ちを食らわせた。
早苗は夫が勤務する東京・日本橋本町の医薬品卸会社に電話をかけた。
「あんた、今日は早く帰ってきて、大きな声は出さないで聞いてね。いいわね」
夫の信夫は「何事なんだ」と声を潜めるように聞く。
電話を受けた三田慶子は怪訝な顔をしていた。
信夫の妻が会社に電話をかけてきたのは初めてであったので「何かがあったのだ」と思って聞き耳を立てていた。
実は信夫と慶子は不倫関係にあったのだ。
信夫は43歳、慶子は30歳であった。
「先ほどね。忠則が千葉の松戸警察に連れれていかれた。婦女暴行容疑だって・・・」
早苗は涙声になっていた。
「ええ!?」と信夫を声を発しながら思わず慶子の顔を見詰めた。
慶子は信夫の視線を避けるようにして書類に目を落とした。
この日の夜は金曜日、信夫は慶子と銀座に食事に行くことを約束していたのだ。
愛人関係にあるとは言え、家庭内のことは慶子には伝えれないと信夫は思った。
2人は社内ではプライベートのことは筆談を交わしていた。
「奥さんからの電話、妬けるわ」
「バカ、そんなこと書くな。今夜の約束、延期してくれ」
「理由は?」
「言えない。分かってくれ」
「仕方ないわね」 物分かりのいい女であるので、不倫関係は5年も続いていたのだ。


投稿情報: 07:07 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月20日 (木曜日)
創作欄 取手の人々
大田修の従弟の浅生忠則が婦女暴行の容疑で逮捕されたことが新聞の片隅に載った。
いわゆる1段記事の小さな扱いであった。
狭い取手市内のことであるから、近隣の噂となり世間が知ることとなった。
幸い叔母の息子であり、浅生姓であった。
大田姓であったら兄が経営する「大田歯科」にも多少は影響が及んだであろう。
忠則は大学生で19歳、小学校時代の仲良し3人組みで18歳の少女2人をホテルに連れ込み婦女暴行した容疑で逮捕されたのだ。
新聞を読んで、大田修はこの事件に疑念を抱いた。
3人は午前1時ころ伝言ダイヤルで少女2人を呼び出し、車に引きずる込み込み犯行に及んだ。
伝言ダイヤルでは自分は1人だと浅田忠則が偽り、2人を安心させた。
だが、車内には土木作業員の長田健作、無職の田辺次郎(いずれも19歳)が待機していて2人を威嚇しながらホテルへ連れ込んだとされる。
犯行が行われたのは取手市内ではなく、松戸市内のホテルであるので浅生忠則ら3人は松戸警察署に逮捕されていた。
母性本能の強い叔母の早苗は、逮捕された息子を不憫に思い目を泣く腫らしていた。
「あの子に限って、婦女暴行なんかするわけないの。とても優しい子だから」
早苗は甥の大田修にすがり着くように訴えた。
修は忠則が幼児のころこら弟のように可愛がっていたのだ。
「叔母さん、気持ちは分かるよ。忠則が婦女暴行などするわけだない。何かの間違いだよ」
修は叔母を慰めた。
叔母は「時々、家の周囲に車が停まっていて、何だろう」と想っていたそうだ。
それまで警察が珍重に内偵していたようだ。
そして5月の末に6人の捜査員が突然、自宅にやってきた。
母親の早苗は暴力団がやってきたと思い驚愕して玄関の扉を開けたのだった。
「お母さんだね。忠則さん、家に居るよね。呼んで!」威圧するような口調だった。
「何か?」早苗は言葉を飲み込み後ずさりした。
外から半開きのドアを1人の男が強引に引き開けた。
「息子、居るんだろ。早く呼んで」
角刈りの体格のよい男が素早く玄関内に足を踏み入れる。
「忠則、忠則、直ぐに下りて来て!」
早苗は2階へ向かって悲鳴に近い声を放った。
早苗は息子が暴力団と何らかのトラブルを起こしたものと思い込み、恐怖心から気が動転した。
その時、忠則は2階でエロビデオを観ていた。





投稿情報: 09:34 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2014年3 月18日 (火曜日)
創作欄 取手の人々
人生をどうのうに捉えるのか?
肯定か否定か、確信か不信かで自ずと結果は大きく分かれるはずだ、と大田は気付いたのだ。
大田の高校時代の友人の倉持勉が、26歳で網膜色素変性症で失明した。
倉持は調理師になっていたが、失明してから水戸の盲学校へ入学し、3年後、「あん摩マッサージ指圧」の国家試験に合格し、取手市内に治療院を開いていた。
大田はその年の冬の大雪の雪かきで腰を痛め、倉持の治療院に通った。
「大田、お前の腰の治療をするとは思わなかったな。まあ、俺に任してくれ」倉持の声は確信に満ちていた。
「俺も、倉持の治療を受けるとはな。人生色々あるな」大田はどこか引け目を感じていた。
「俺は、目が見えなくなって、人の声に敏感になった。大田元気がないな、どうしたんだ?悩みでもあるのか?そうなら話してくれ。胸の内を明かすことで気持ちは楽になるもんだよ」
倉持は治療の手を止めた。
「最近、ツキに見放されてな。競馬で15連敗もしている」大田は自嘲気味に言った。
「競馬か、俺も調理師時代は取手競輪に通ったが、競輪は難しいな」倉持の指に力がこもった。
大田は取手に在住していたが、競輪場へ足を踏み入れたことはなかった。
「賭け事にのめり込むのは業のようなものだと、俺は失明して思った」
「業か、そうに違いない」大田は苦笑を浮かべた。
「大田、俺は思うんだが人生はどう生きるか、それで決まる。俺は失明したことは悪くなかったと今は思えるんだ」
倉持の言葉は確信に満ちているように力強かった。
「大田、何かに挑戦することに意味がある。そう思わないか?」
大田は沈黙して聞いていた。
治療の効果で腰の痛みが和らいでいた。
「倉持、なかなかの腕前ではないか。ありがとう。だいぶ腰が楽になった」
大田は心から率直に感謝して治療院を出た。
そして中山競馬場へ向かった。
新松戸から武蔵野線に乗り換えると車内はかなり込んでいた。
競馬人口の多さは競輪ファンの比ではなかった。
大田は船橋法典駅から競馬場へ続く長い通路の中で、気持ちが何時もと違うような高揚感を覚えていた。

投稿情報: 21:19 カテゴリー: 創作欄 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
創作欄 取手の人々
大田修は広告代理店の営業や印刷会社の営業などをしてきた。
あるいは小さな出版社の営業もしてきた。
上司から編集の仕事を打診されたこともあったが、文章を読むことや書くことが苦手なので断った。
ただ、世の中には自費でも本を出したい人が以外に多く、大田は依頼者の相談に乗りながら、ゴーストライターと顧客の間を繋げてきた。
ゴーストライターの一人である木嶋孝介とは同じ競馬好きであることから、意気投合して土日には競馬場へ通ったものだ。
木嶋は元は経済雑誌の記者であったが、株のインサイダー取引に関与したことで解雇された過去を持つ。
重要事実の公表直前の売買、売り要因の重要事実を知っての買付け、買い要因の重要事実を知っての売付け、あるいはスクープ記事・憶測記事などで株価に多少の影響を与えたこともあった。
木嶋は酒を飲まされ、知人などに情報を流していたのだ。
自分にはまとまった金がないので、株で儲けた人間からおこぼれを貰ってきた。
木嶋は東京・中野に住んでいたので、大田は終電を逃すと木嶋のアパートに度々泊めて貰っていた。
上野発取手行きの最終電車は24時20分であり、新宿で飲むことが多かったので木嶋のお世話になっていた。
二人はいわゆるサラ金に手を出してまで競馬をしていた。
初めは10万円を借りて儲けて、直ぐに返済したこともあったが、そうとばかりは限らない。
大田は借金が200万円に膨らん時には、どうにもならなくなり母親の千代に泣きついたのだ。
「利子ばかり、毎月払っているんだね。バカバカしい。一括で返済するんだね。これはお前のために積んだ郵便貯金だよ。大事にしな」と通帳とハンコを出した。
太田は通帳を見て目を見張った。
500万円も積まれていたのだ。
結局、親バカであることが裏目に出た。
懲りない大田は今度は300万円の借金をしていた。
また、母親に泣きついたのである。
今度は300万円を抱えた母親が街の金融機関に同行し、「2度と息子に金を貸さないようにしてくださいね」と頭を下げた。
2年後に母親が急性心筋梗塞で亡くなった。
60歳の若さであった。
大田は「親不孝」だったと葬儀の場では反省したが、さらに3年後、500万円の借金をしていた。
大田は結婚もせず32歳になっていた。
兄の勇治は歯科大学の附属病院に勤務していたが、取手駅近くのビルで矯正専門医として開業していた。
勇治の妻智子は同期生であり、小児と一般歯科をやっていた。
父親も息子の修に甘かったのである。
「競馬で金儲けなど考えるな。俺の不動産業を手伝わんか。これはお前に渡す最後の金だ」 銀行の通帳と印鑑をよこす。
そこには1500万円が積まれていた。
大田は初めて父親に謝罪し「2度と競馬はしません」と念書まで自ら書いたのだ。
兄の勇治が以前「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めたことが大田の脳裏に浮かんだ。


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2014年3 月14日 (金曜日)
創作欄 取手の人々
昨年4月以降、新しい方向へ踏み出そうと大田修は想っていた。
だが、不本意な条件で仕事を継続することとなった。
相手は大田にとって恩義ある人であった。
「人間の道として忘恩の人間にだけはなるまい」と決意してこれまで生きてきた。
当然、育てもらった親に対する恩もある。
大田は借金を重ねて、度々親の援助を受けてきた。
兄の勇治は「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めた。
「お前は私立の歯科大学を出た。それなりに金をかけた。修は高卒でそれほど金をかけなかったから、300万円、500万円の借金は仕方ない」不動産業の父親は修をかばう。
「修の借金は競輪や競馬だろう。ドブに金を捨てるようなもんだ。親父もそろそろ修を突き放せよ。あいつはそうしないと一人前の人間になれない」
勇治はそろそろ開業を考えていたので、開業資金の一部を当てにしていた。
「親父、どせなら生きた金を使うべきだ」と自分の思惑に誘導する。
父の豪は茨城県取手市の農家の3男に生まれたが、農業高校を卒業すると東京に働きに出た。
だが、昭和40年代になって、取手市も大きく変わっていく。
多くの田圃や畑が公団住宅や市営住宅、民間住宅に変わっていく。
豪の実家の農地も宅地造成に組み込まれ、長男は土地成金になっていた。
豪は東京の町工場の工員に見切りをつけ不動産業に転身した。
豪は地縁などを生かして不動産業で成功を修めた。