8/10(月) 20:00配信
産経新聞
解散した創文社から他社に引き継がれた書籍の一部。文庫化された(左から)「ヨーロッパ世界の誕生」、「独裁の政治思想」、「叙任権闘争」、「比較史の方法」はいずれも歴史学などの基礎文献となっている
老舗の人文・社会科学系出版社として知られる創文社が6月末で解散し、同社出版物の刊行を講談社や東京大学出版会などが引き継ぐことが決まった。
出版社の解散に際し、刊行物が絶版にならず大規模に引き継がれるのは異例だ。背景には大学の図書購入費減少や出版電子化の進展に伴う学術出版社の苦境と、その中で懸命に良書を守ろうとする関係者の努力が見える。
創文社は昭和26年設立。「良書は一人歩きする」という創業者の信念のもと、昭和35年から半世紀をかけて完訳した中世の神学者トマス・アクィナスの『神学大全』の邦訳(全45巻)や全102巻の『ハイデッガー全集』の邦訳(刊行中)など、主に哲学や歴史学、社会学の研究者向けの学術書に定評があった。
刊行物の多くは比較的少部数で高額のため、図書館などへの納入が大きなウエートを占めていた。だが、日本図書館協会の統計によると、平成12年度に317憶円あった全国の国公私立大学の図書費は、令和元年度には153億円に減少。
国立大学の予算削減や、普及が進む学術雑誌の電子版(電子ジャーナル)の購入費増大などが影響したとみられる。創文社が4年後の会社解散を表明した平成28年時点の売上高は10年前と比べ半減しており、平均的な初版部数も今世紀初めには1千部あったのが600部程度にまで落ち込んでいたという。
同社最後の社長を務めた久保井正顕さんは、「大学の図書購入費が減り、また公共図書館も市レベルの館が学術書を買わなくなって、経営が難しくなった。このままでは印税が払えなくなるなど著者や取引先に迷惑をかけてしまうと判断し、ソフトランディングを図ることにした」と明かす。
28年9月の解散表明以降、新刊発売は翌年3月で終了。令和2年3月に既刊の全書籍の販売を停止するなど、解散に向けての作業を進めていた。
一方、同社の解散表明を受けて、質の高い学術書の絶版を危惧する声が続出。そのうち、約半数が刊行済みの『ハイデッガー全集』については、翻訳者の仲介もあり、東京大学出版会が刊行を引き継ぐことが決まった。同会は今年度内にも2~3冊をリリースし、来年度以降も同ペースで刊行を進めていくとしている。
編集部の後藤健介さんは「訳者の方いわく、日本のハイデッガーへの関心の高さは、ある意味でドイツ本国をしのぐほど。こうした全集について、図書館などの機関のみならず、個人で購入する人がいるのは世界的にも珍しい」とした上で、「今後の刊行巻は、ナチス協力期など後期ハイデッガー思想の核心部に入っていく。創文社さんの志を引き継ぎつつ、新しいハイデッガー像を日本の読者に提供できれば」と、刊行継続の意義を語る。
久保井さんによると、創文社が刊行した全書籍は約1800点。このうち、ちくま学芸文庫が7月に再刊した『叙任権闘争』(A・フリシュ著、野口洋二訳)や、角川ソフィア文庫に収録された『独裁の政治思想』(猪木正道著)など、他社から特に申し出があったタイトル以外の全書籍については、講談社学術文庫や講談社選書メチエなどの学術レーベルを持つ講談社が引き継ぐとしている。
同社は現在、著作権者との調整を進めており、同意が得られた本については、注文を受けてから印刷する「プリント・オンデマンド版」などの形での出版を検討している。
久保井さんは「講談社さんの懐の深さには感じ入っており、非常にありがたい。本を後世に引き継いでもらうことが私たちの願いで、他社にとっても先例になるのでは」と喜ぶ。
長期にわたる出版不況下で、学術的に価値ある書籍を手掛けながら経営難に苦しむ小規模な専門書出版社は創文社だけではなく、今後も解散や廃業を選ぶ社が出るケースは十分に予想される。出版科学研究所の川瀬康裕研究員は、「解散する出版社が版権の引き受け手を探し、実際に大手出版社が手を挙げて丸ごと引き継がれたのは非常に珍しいこと」と指摘する。
「名著といわれる書籍が、オンデマンド版であっても絶版を免れて残るのは良い話。今回のように大手各社が手を伸べるのはまれな事例で、これがそのままモデルケースになるとは考えにくいが、今後こうした形が続くといいなとは思う」と話し、幸運な一例として意義があるとみている。(文化部 磨井慎吾)