言葉の番人

2025年02月19日 11時53分21秒 | 社会・文化・政治・経済

 
校正者の精緻な仕事に迫るノンフィクション。
日本最古の歴史書『古事記』で命じられた「校正」という職業。校正者は、日々、新しいことばと出合い、規範となる日本語を守っている「ことばの番人」だ。
ユーモアを忘れない著者が、校正者たちの仕事、経験、思考、エピソードなどを紹介。
「正誤ではなく違和」「著者を威嚇?」「深すぎる言海」「文字の下僕」「原点はファミコン」「すべて誤字?」「漢字の罠」「校正の神様」「誤訳で生まれる不平等」「責任の隠蔽」「AIはバカともいえる」「人体も校正」……
あまたの文献、辞書をひもとき、日本語の校正とは何かを探る。

【本文より】
文章は書くというより読まれるもの。読み手頼みの他力本願なのだ。世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないかとさえ私は思うのである。

【目次より】
第一章 はじめに校正ありき
第二章 ただしいことば
第三章 線と面積
第四章 字を見つめる
第五章 呪文の洗礼
第六章 忘却の彼方へ
第七章 間違える宿命
第八章 悪魔の戯れ
第九章 日本国誤植憲法
第十章 校正される私たち

【著者略暦】
髙橋秀実 (たかはし ひでみね)
1961年、横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。
テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。
その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記 帰ってきた南米日系人たち』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『結論はまた来週』『男は邪魔!「性差」をめぐる探究』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』『道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか』『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』など。
 

出版社より

ことば 校正 校閲 誤植 古事記 誤字 脱字 照合 ゲラ刷り 付き合わせ 素読み 神代種亮 仮名遣い 混読 誤謬 いんてる 活字眼 異体字 訓読 俗字 正字 衍字 言海
 
 

ことばの持つ重要性に、緊張感を覚える

普段、言葉を使った仕事をしていますが、分かりやすく、誤解を与えることなく正確に伝えることの難しさを感じます。そうした中、この書籍からは、言葉に対して改まって対峙する思いを感じさせてくれる書籍です。

 

哀悼の意を表します

配信動画には、たいてい字幕が付いている。誤字が多いが、それ以上に目立つのが「ら」抜き。着れる、食べれるくらいならいちいち突っ込む気にはならないが、「人々が幸せでいれますように」には呆れた。校正がない媒体は、完全にカオスですな。
 さて、本書は、その校正の実態についてまとめたものだ。

ノンフィクションと謳っているが、さすがに作業の過程や内容の記述だけでは、一般的な読み物にならないと判断されたのだろう。途中から、辞書や漢字や日本語それ自体の話題にシフトしていき、随想の趣が強くなる。
 興味深いトリビアが次から次へと紹介されるが、特に日本国憲法の表現についての章は出色。どこぞのテキストに採用すべきと思う。
 なお、最終章は、AIとDNAを取り上げているが、ここは消化不良気味で余計な感じ。
 ともあれ日本語というのは、かなり面妖な言語だとわかった。奥深いとか美しいとか言って、思考停止していてはいけない。その面妖さの根源と構造を徹底的に追及し、解明することが、日本と日本人の真の理解につながるのではないか。
 著者には、今後、その先頭に立ってほしかった。しかし、もはや叶わない。


変幻自在の言葉を捉える

校正というテーマで文章の枠内にとどまらず、歴史や生命にまで話題は及び、定説や常識を疑い深掘りしていく。独特の論考は加速し読書をグイグイ引っ張っていく。この活発な執筆を行っていた高橋氏の突然の訃報は残念でならない。解説には奥さんの病気と治療には触れているものの自身のことには何も触れていない。ニュースによれば胃がんだったようだ。

本書ではDNAポリメラーゼが遺伝情報を一つ一つ照合し、DNAの複製が誤った際には遡って複製し直すとして、DNAの高い「校正」能力を紹介している。奥さんの病気に際して遺伝子のことを調べ上げたと解説にあり、あとがきの日付が2024年6月のことだった。

「彼女の校正なしではもう生きていけないと断筆も覚悟した」とあり、文筆家としての校正への想いや本書の存在すらも今となっては全く意外な巡り合わせとなり殊更胸に迫ってくる。

信頼する校正者の不在を恐れ、本書が生まれたのだろうか(本書の発端を読み飛ばしていたらすみません)。

冒頭でも文章は書くためにあるのではなく、読まれるためにある。そしてそのためには校正が要になると力を込めて云う。高橋氏は「世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないか」とまで云うのである。

一方で書き言葉は現在インターネットやスマホ、SNSと共に氾濫状態にあり、校正者を介さない言葉が溢れている。誤字脱字から倫理を無視した罵詈、事実を無視した嘘が野放しになり、言葉を生業とする著者の嘆きが行間に溢れている。海外でSNSの規制が始まっているのも宜なるかなである。

しかし本書は単に世の惨状を非難するばかりではない。言語の意味論にも迫る哲学的な論考もあれば、言葉の時代的な変遷や、そもそも言葉は誤使用でさえ常識になっていくなど広い視野で捉えていて、読者の予想を超える内容になっている。

著者は誤字に対してけしからんものと見るのではなく、そもそも誤字とはどのような意味か調べ、それは望ましくない使用だが通例となった字や異体字のことだと分かる。なら異体字はどういう意味か……と突き詰め、漢字のへんやつくりが異なる同じ意味の漢字だと分かる。

つまり誤字という言葉自体、使い方が間違っているという。さらに文字という言葉はどうか。

文は紋様を表す意味から来ていて犬や牛など象形文字を指し、字はそれらの文字を組み合わせた会意文字を指すという。元来の意味からすると、ひらがなやアルファベットまで含む現在の使い方は誤りのようである。だいぶ拡大解釈されている。

誤植については憲法のことにも及ぶが、敗戦国に提示された英文の草案と見比べながら紹介される。野坂参三議員の侵略された場合の自衛の戦争は正しい戦争だと言って「戦争の放棄」に反対したのに反し、吉田茂首相は近年の戦争は国家防衛の名目で行われるため正当防衛をも認めるのは有害だと一蹴した。戦争は大抵が自衛のためとか、防衛のためだといって始められることを洞察していた。自国を守るために相手国に攻めていくことを防衛だといって騙すことは現在にも見られる。
字義に拘泥して憲法論議が進まないことに対して、金森徳次郎国務大臣による返答が興味深い。言葉の一字一字を拾って非難するのは間違っていて、それぞれの言葉が相互に照応しながら、制約し合いながらあり、法典全体が一体になった生き物のようなものだと説いた。
憲法自体が敗戦後の日本が平和に向けて勇躍しようと志す時に産まれた存在として、現在まで生きつづけていると言える。まさに憲法は全体が一つになった象徴としてあるのだろう。

校正の神様と呼ばれる神代種亮(こうじろたねすけ)は芥川龍之介、有島武郎、与謝野晶子など著名な作家の校正を行っていた。作家が校正してほしくて自ら持ち込んでいたと云うからすごい。高橋氏は近代文学はまさに校正者が生んだとまで主張する。芥川龍之介の『黄雀風』『支那游記』には神代の校正済であることが記されている。神代の校正についての苦言が文章は「勝手次第に崩してしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしない」。

神代が発行した機関誌『校正往來』では誤植を防ぐための書き手へのアドバイスとして乱筆を勧めている。当時、印刷所での校正は乱筆の原稿の場合、ベテランの校正者が行い、丁寧で読みやすい原稿は新人に回されていた。そのため乱筆の方が誤植が少なかったという。律儀に丁寧に書いた方が損をすると評されていた。現在ではこのアドバイスは通用しなさそうだが。

しかし神代自身も校正の見落としを公表したりして、不完全なものへの愛着だと云って、あまり深刻さはない。校正の神様がこういう大らかな態度なのだから、これは時代なのかもしれないが、現在ではどうだろう。SNSではそうあってほしいと思うことを事実のように言って、世に不利益を与えたり、人権を破壊するようなことさえ起こっている。あったことがなかったことのように書かれ、事実が隠滅されることもある。デマ情報によって金儲けをしようとする者もいる。不完全なものへの愛は現代ではノスタルジーでしかないのか。

印刷物が貴重だった時代は過ぎ去り、有り難くも無名の徒がこうして公に向けて言葉を発することができるようになった。これは科学技術の空前絶後の達成だろう。片や言葉は氾濫して、嘘の言葉も公の空間を飛び回り、バーチャルやらフィクションと事実の境界が曖昧になり言葉はそこを行き交っている。文筆家の最期の一冊が校正の本として世に出て、言葉の氾濫を否定も肯定もしない視点で捉えようとしたのは、言葉の特性の事実なのかもしれない。言葉は文章全体の中で生き、一方で一言一句の意味を持つ存在としても生き、事実を表し嘘も表す。変幻自在であるだけに、それを使用する人間の質がここに大きく関わってくるのは間違いない。


校正についてだけではなく、日本語とはこのようなものだ、ということを広い視点から、歴史的にも深く解説してる魅力的な本。
2025年1月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この頃の文章や当字、人々の言葉使いなどにはには疑問を持っていた。そして言葉には時代的な変化や流行はあるとしても、正しい日本語について書かれた本はないか考えていた。この本はそれには多少期待外れの点もあったが、それ以上に日本語とはどのようなものか、というあまり考えたことのないような視点から、歴史的にも深く広く解説してある点が参考になり、個人的にはとても興味深く、面白く読めた。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています

 

最高に面白い

おもしろかった。
どの出版物も、この本の表紙のように、校正歴がわかる副本があれば、2倍面白くなるだろう。
出版物はプロダクトで、校正はそのプロセス。スポットライトを後者に当てた着眼はまさにプロ。
ゲシュタルト崩壊からDNAの修飾まで、「校正」話を広げるとは流石。お茶目な文体も楽しかった。
役に立った
レポート

 文字にこだわり命を失う

本書『ことばの番人』の著者は、髙橋秀実さん。
「あとがき」には「二〇二四年六月吉日 髙橋秀実」(219頁)とあります。
六月までは「マッサージ」で病気の痛みと闘いながら作家のお仕事をされていたようです。

ことばの番人とは、髙橋秀実さん自身のことかと思いながら読み始めました。
読み終わってみると、
古今東西の世界中のことばの番人たちのことばが多数引用されていました。

本書のタイトルも《ことばの番人たち》と複数形にしたほうが・・・

というのも、番人のひとりが、著者の原稿の最初の読者で校正者でもある
奥様(髙橋栄美さん)と著者が考えているような気がするから。

栄美(えみ)さんは著者が本書執筆中にがんの緊急手術を受けたとき、
「彼女の校正なしではもう生きていけないと断筆も覚悟した」(219頁)という。

著者は奥様のことを世界で最良の「ことばの番人」と考えて、
作家の仕事を続けてこられたからでしょう。

本書が刊行されたのは、二〇二四年九月三〇日。
著者が胃がんで入院したのは、二〇二四年十月。
二〇二四年十一月十四日、著者死去。新聞で知りました。

本書が遺作となりました。
一方、妻、栄美(えみ)さんの手術は無事成功し、順調に回復しているそうです。

妻の「校正なしではもう生きていけない」と言っていた著者のほうが
先にあの世に行ってしまいました。

本書の最終章(第十章)は本文の結びの章。
そこが突然、遺伝子の世界の校正の話になっていて、違和感を感じました。
なぜ突然、人体の細胞のDNAの校正の話に飛んだのか?

本書の「あとがき」を読んで、なるほどと納得がいきました。
本書の「あとがき」の最後の言葉は、
「校正こそが命だと信じて」(219頁)

遺伝子の校正は神のことばの校正です。
そして校正される命にも限界として《寿命》をつくった神。
校正について書いた本書が髙橋秀実さんの最後の命のことばとなりました。

「文字にこだわると命を失う」(45頁)



 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿