「掲載不可」「消せ」新聞社の隠された写真たち 検証「戦争とメディア」【報道特集】
1億人の昭和史 10 不許可写真史 1977年 昭和51年10月1日発行|毎日新聞社 |
太平洋戦争N9712∨ 昭和レトロ 古本 希少 レア|1億人の昭和史 10 不許可写真史 1977年 昭和51年10月1日発行|毎日新聞社 | 太平洋戦争N9712
1枚の写真に目が留まり、ページをめくる手が止まった。
戦場の写真を特集した雑誌に大きく掲載されていたそのカットは、日中戦争中の1937年8月に中国で撮影され、中国人兵士が日本軍の捕虜となり拘束されている姿を捉えていた。汚れた着衣の兵士十数人が銃剣を向けられ、うつむきがちに立っている。
ただ一人、悲痛な表情でレンズを見つめる兵士がいた。この目を見たことがある、と思った。すぐに、子どもの頃に見た歴史の資料集を思い出した。
報道特集
軍の言論統制により、人々が戦争に駆り立てられていった時代。
戦況が悪化するにつれ、その一端をメディアが担うようになっていきました。
■朝日新聞極秘ハンドブック「記事差止事項一覧表」 廃刊恐れ自己規制が進んだ
朝日新聞大阪本社には、当時、国民の目から隠された写真が数多く保管されている。今回特別に書庫の撮影が許さ]]軍の作戦に関する内容など、記事にしてはいけない事柄が細かく記されている。
「作戦行動並に損失は許可済以外一切不可」
さらに、こんな注意書きもある。
「差止事項は絶対外部にもらさぬやうにと」
「朝日新聞の記者がかくかくの事をしゃべったということになると影響が大きくなります」
なぜ、そこまで規制をかけていたのか。
日下部正樹キャスター
「ある意味、組織を守るために永井靖二 編集委員
「全部で7万2000枚。旧満州とかで撮影された写真が多いです」
戦争責任の追及を逃れようと、戦後、多くの新聞社が写真を燃やしたが、朝日新聞大阪本社にある写真は、地方に疎開させていたため処分されずに済んだ。その存在は多くの社員も長らく知らされていなかったという。
永井靖二 編集委員
「昭和12年から13年にかけて不許可になってしまった写真というくくりで入れてあります。社内で検閲に向けたやりとりを担ってた部署があったはずですから、そこでも『これはあかん』ということなんでしょうね。」
不許可の文字やスタンプは、新聞社自らが社内に設置した検閲部署の記者たちによるものだとみられる。
この写真は、艦船が停泊する場所が特定されるため、ペンで「山を消せ」との文字がある。船の番号や船名にも赤い文字で「消せ」と書き込まれている。
「この人たちはこの後どうなったのだろう」。学校の教室で、自宅の部屋で繰り返しそのページを開いた。そして今年、この写真と自分が働く会社内で「再会」した。
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