あまりにもドタバタしたことが多く(全部原因は私は作ったモノじゃないのだけど)、そのすべてを私の決断と采配で処理していかなければならず(生きていれば当たり前のこと...フ~)、そこから逃れるためにちょっと息抜き~!と、久しぶりに伊豆で週末を過ごしている。
幸いお天気に恵まれた週末で、畑仕事をやりながらノンビリ。
でも、やはり伊豆は暖かい。桜の花があっちでもこっちでも。
河津桜はもともと1ケ月ぐらい早く咲く品種。でも、それ以外のサクラもかなり咲いていて、けっこうビックリ(菜の花畑もまっ黄色だ!)。
この間のトラブルをゆっくり振り返ると、結局人間どうしの意志を通じあわせることの難しさみたいなことをつくづく感じてしまう。
人は、みんなそれぞれの「都合」とそれぞれの「つもり」で生きているので、その都合とつもりが時にぶつかりあうのはしょうがないのかもしれない。だからこそ、日本のムラ社会は、お互いの都合とつもりを最初から一致させる形を作っていたわけで、個人の意志は社会や組織の意志に一致させて生きていかなければならない社会だったわけだ(今でもそれに近いところはありますネ)。
でも、私は、人間にとって最も大事なことは「自由」と「責任」だと思っているので、こうした日本型社会に無理に適応したいとは思っていないし、今でも適応はしてないと思っている。私のこれまでの生き方は、自由と責任をどうやったら自分の生き方として反映させていくことができるか、それををずっと考えながら生きてきたような気がする。
自分が「自由」である以上、他人の自由を尊重するのは当たり前の前提。だから、自分が社会生活で責任を果たすのも、他者の自由と尊厳を守るための行為だと思っている。
人間の歴史というのは、いつの時代もどの民族も戦争と争いの歴史だけれども、人間が争うというのは、この「自由」と「責任」のバランスを欠いているからなのではと私はいつも思ってきた。
自分だけが自由でいようと思えば、他者の自由を犯すことになり、侵略や略奪が始まる。自分の責任を放棄すれば、誰か第三者が自分の責任の代わりを果たさなければならず、他者に犠牲を強いることになる。
戦争まで事がオーバーにならずとも、私たちの身のまわりのトラブルや争いごと、ごたごたのすべての原因は、結局、自分と意志と他人の意志の衝突から起こっていること。でも、それを解決する最も迅速でかつ適切な方法は、まず一度を自分の意志を捨てることではないかとも思っている。どのみち、自分の意志と相手の意志がぶつかっているのなら、自分の意志を捨てることによって、争いの種の一つが完全になくなってしまうわけだから、後は、相手の意志をどう見るかだけ。そうして、相手の意志を考えることによって、逆に自分の取るべき態度もすぐに見えてくるような気がする(少なくとも、今回の私の巻き込まれたトラブルに関しては)。
自分の意志で相手の意志をねじふせてしまおうと考える態度からきっと正しい答えが出てこないような気もする。
人が人の自由を束縛したり、人の権利を奪うという行為は人として最も恥ずかしい行為だし、あってはならないこと。だとしたら、まず自分がそういうことをしていないかをチェックすること。ここから始めないと「自由」と「責任」というのはいつまでたっても果たせないのかナ?なんて思っているのだが、こんな抽象的な話しをされても「なんのこっちゃ?」と思っている人も多いだろうけどネ....(ハハハハ)。
幸いお天気に恵まれた週末で、畑仕事をやりながらノンビリ。
でも、やはり伊豆は暖かい。桜の花があっちでもこっちでも。
河津桜はもともと1ケ月ぐらい早く咲く品種。でも、それ以外のサクラもかなり咲いていて、けっこうビックリ(菜の花畑もまっ黄色だ!)。
この間のトラブルをゆっくり振り返ると、結局人間どうしの意志を通じあわせることの難しさみたいなことをつくづく感じてしまう。
人は、みんなそれぞれの「都合」とそれぞれの「つもり」で生きているので、その都合とつもりが時にぶつかりあうのはしょうがないのかもしれない。だからこそ、日本のムラ社会は、お互いの都合とつもりを最初から一致させる形を作っていたわけで、個人の意志は社会や組織の意志に一致させて生きていかなければならない社会だったわけだ(今でもそれに近いところはありますネ)。
でも、私は、人間にとって最も大事なことは「自由」と「責任」だと思っているので、こうした日本型社会に無理に適応したいとは思っていないし、今でも適応はしてないと思っている。私のこれまでの生き方は、自由と責任をどうやったら自分の生き方として反映させていくことができるか、それををずっと考えながら生きてきたような気がする。
自分が「自由」である以上、他人の自由を尊重するのは当たり前の前提。だから、自分が社会生活で責任を果たすのも、他者の自由と尊厳を守るための行為だと思っている。
人間の歴史というのは、いつの時代もどの民族も戦争と争いの歴史だけれども、人間が争うというのは、この「自由」と「責任」のバランスを欠いているからなのではと私はいつも思ってきた。
自分だけが自由でいようと思えば、他者の自由を犯すことになり、侵略や略奪が始まる。自分の責任を放棄すれば、誰か第三者が自分の責任の代わりを果たさなければならず、他者に犠牲を強いることになる。
戦争まで事がオーバーにならずとも、私たちの身のまわりのトラブルや争いごと、ごたごたのすべての原因は、結局、自分と意志と他人の意志の衝突から起こっていること。でも、それを解決する最も迅速でかつ適切な方法は、まず一度を自分の意志を捨てることではないかとも思っている。どのみち、自分の意志と相手の意志がぶつかっているのなら、自分の意志を捨てることによって、争いの種の一つが完全になくなってしまうわけだから、後は、相手の意志をどう見るかだけ。そうして、相手の意志を考えることによって、逆に自分の取るべき態度もすぐに見えてくるような気がする(少なくとも、今回の私の巻き込まれたトラブルに関しては)。
自分の意志で相手の意志をねじふせてしまおうと考える態度からきっと正しい答えが出てこないような気もする。
人が人の自由を束縛したり、人の権利を奪うという行為は人として最も恥ずかしい行為だし、あってはならないこと。だとしたら、まず自分がそういうことをしていないかをチェックすること。ここから始めないと「自由」と「責任」というのはいつまでたっても果たせないのかナ?なんて思っているのだが、こんな抽象的な話しをされても「なんのこっちゃ?」と思っている人も多いだろうけどネ....(ハハハハ)。