みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

同伴者に自動的についていく車いす

2010-08-13 00:29:24 | Weblog
を開発中だというニュースを見て「?」という感情がまたぞろ起こってきた。
もちろん、この電動車いすを開発している人は世の中のため社会のためという目的でこれを作っているのだろうから、このことについて異議を差し挟むつもりはまったくないのだけれど、私が思う疑問点というのは、この日本の社会そのものに対する『?』マークだ。
単純に思うこと。それは、なぜ同伴者を前提に車いすを開発するのかということ。
車いすって一人で使うことはないの?
とある人に尋ねたら、「日本の社会は非健常者が一人で出歩くようにはできていない」という答えが返ってきた。
いつも電車に乗る時にも、ショッピングをする時にも感じるのは、みせかけだけのバリアフリーがこの社会にはあまりにも多いことだ。
電車に乗るとよく聴くアナウンス。「ただいまお客様をご案内中です」。
それって要するに、身体の不自由な人が乗っているのでそれの介添えを駅員さんがしているということなのだろうが、このアナウンスを聴くたびに腹がたってしょうがない。
日本の電車は、車椅子の人が一人では絶対に乗れないようにできているということをこのアナウンスはわざわざ宣言しているようなものだから。
駅や建物の車いす用のトイレもそう。
トイレ自体は身体が不自由な人が使いやすいように設計されているのかもしれないが、「このトイレを必要な人が一体このトイレにどうやってたどり着くのだろう?」といつも思ってしまう。おそらく、階段だらけの日本の街中で自分一人でこのトイレを利用できる人はあまりいないのではないだろうか?
つまり、日本の社会は基本的にバリアフリーのところはどこにもないわけで、非健常者は健常者に面倒を見てもらわなければ何もできないような構造になっている、のではないだろうか?
私は車いすを使っているわけでも身体が特に不自由なわけではないので、ひょっとしたら的はずれなことを言っているかもしれないが、「同伴者に自動的についていく車いすを開発」というニュースを聞いて、「何か変だな?」と感じてしまった次第だ。
目が不自由だろうが、足が不自由だろうが、障害のある人が毎日生きていく上で一番大事なことは「自立して生きる」ということなのではないだろうかと思う。
お互いに助け合う社会というのはメチャクチャ大事な構図だけれども(今の日本では特に)、その助け合いの大前提になるのは、人間一人一人の自立と尊厳を守ることなのでは?という気がしてならない。
どうもこの国は、人の自立ということをあまりにも無視している国なのではと思ってしまう。