自分自身でもどうにもコントロールできない部分があるから、人は躁になったり鬱になったりとアップダウンを繰り返すのだと思うけれども、身体に障害をかかえている人と一緒に暮らしているとその度合いは一層増してくるのかもしれない。
自分のこれまでの人生を振り返っても、自分自身のメンタルな状況はハイになることはあってもあまり鬱という状態を経験してこなかったように思う。
がしかし、連れ合いが倒れて退院後、家で二人でリハビリを続けているとかなりシビアな場面にも遭遇し、患者ではない私が落ち込むこともしばしばだ。
「普通ではない」ということを頭ではわかっていても、やはり自分自身の身体ではないので、彼女の痛みや苦しみが自分のことのように理解できているかと言われればいささか心もとない。
私は、これまでに骨折すらしたことがないので、自分の半身が麻痺している状態、身体の一部が動かないという状況をなかなか想像できない。
常に一緒にいる彼女の身体の中がどういう状態なのかを自分の痛みとして感じようとは努めていても、実際問題、自分のこととしてそれを理解するのは不可能だ。
「いつも右半分は痺れている」という何気ない彼女のことばに時々「ハっ」と気づかされる。
ああ、そうか、やはり身体はいつも痺れているのだ。
そんなことに改めて気づかされるたびにその痺れや痛みを取り去ってあげることもできない自分の無力さにも気づかされる。
「時間が解決する」のかどうなのかすらわからないが、常にリハビリの努力は続けていくしかない。
そんな私は昨年夏かなり落ち込んだ。
ちょうどその時、私を救ってくれたのは小学校時代の一人の同級生だった。
彼も同じ脳卒中の患者。
彼が罹患してから既にかなりの時間がたっていたので、どうしているのかなと気にはなっていた。
そんなYくんからの手紙が届いたのは、昨年の夏の終わりだった。
おそらく友人経由で私の事情を知ったのだろう。
彼から聞いた彼の発症の経緯は、私にはとても悲惨に思えた。
彼の実家は代々寿司屋を営んでおり、彼もまたその店をいつしか切り盛りするようになっていた。
そんなある日、店終いをして全ての従業員を帰らせた後、一人誰にも気づかれず店内で倒れたのだった。
彼が発見されたのは翌日従業員が店に再び戻ってきた時だった。
そんなY君は、当然、麻痺や後遺症に苦しんだ。
それでも彼は必死に頑張り、今では毎日自分で築地に買い出しに行き店を以前の通り切り盛りするまでに回復している。
彼は、私を元気づけようといろいろなメッセージを手紙に書いて送ってきてくれたのだった。
私は、すぐに彼に電話を入れ、数日後に会うことを約束した。
会わずにはいられないと思ったからだ。
新宿駅のそばで彼と待ち合わせた。
手に杖を持ってはいるものの、その足取りは健常者のそれと何も変わらなかった。
それを見ただけで私の心は幸せな気持ちに満たされるようだった。
何十年と会っていなかったY君をその場で思い切り抱きしめたい衝動にも駆られた。
私たちは、近くの喫茶店に入り少しずつ話を始めた。
彼は、自分のカバンから紙を取り出すと何やら書き始めた。
彼は、脳卒中の患者には二通りの患者の種類があるということを私に説明しようとしていたのだった。
一つ目のタイプは、常にリハビリを怠らずひたすら良くなることを信じて前に進む人。
そして、もう一方は、途中で回復を諦め「もうこれぐらいで良い」と思ってリハビリも止めてしまう人。
彼は、こうも説いてくれた。
「この病気は、諦めちゃ絶対にダメ。諦めた瞬間、その人の身体は現状維持どころか悪化の一途を辿っていくよ。でも、諦めずに努力していけば必ず良い方に向っていくの。それが、たとえ発症前と同じ状態でなくても、発症前以上の状態にだって行くことは可能なの。だから、リハビリ、苦しくても頑張って」。
そう言って彼は、いきなり小学校時代の私のアダナを口にした。
小学校を卒業して以来、ほとんど耳にすることのなかった懐かしい小学校時代の自分のあだ名。
それを、Y君の口から聞き、私はとってもハッピーな気分になっていた。
私は、思わず彼に握手を求めた。
麻痺していたという彼の右手を力いっぱい握りしめると彼も、私の気持ちを理解したのか、渾身の力で私の右手を握り返してくれた。
その力強さに私の落ち込んでいた気持ちは思い切りどこかに飛んでいってしまうようだった。
私は、この時の彼の存在にどれほど勇気づけられたことだろう。
自分のこれまでの人生を振り返っても、自分自身のメンタルな状況はハイになることはあってもあまり鬱という状態を経験してこなかったように思う。
がしかし、連れ合いが倒れて退院後、家で二人でリハビリを続けているとかなりシビアな場面にも遭遇し、患者ではない私が落ち込むこともしばしばだ。
「普通ではない」ということを頭ではわかっていても、やはり自分自身の身体ではないので、彼女の痛みや苦しみが自分のことのように理解できているかと言われればいささか心もとない。
私は、これまでに骨折すらしたことがないので、自分の半身が麻痺している状態、身体の一部が動かないという状況をなかなか想像できない。
常に一緒にいる彼女の身体の中がどういう状態なのかを自分の痛みとして感じようとは努めていても、実際問題、自分のこととしてそれを理解するのは不可能だ。
「いつも右半分は痺れている」という何気ない彼女のことばに時々「ハっ」と気づかされる。
ああ、そうか、やはり身体はいつも痺れているのだ。
そんなことに改めて気づかされるたびにその痺れや痛みを取り去ってあげることもできない自分の無力さにも気づかされる。
「時間が解決する」のかどうなのかすらわからないが、常にリハビリの努力は続けていくしかない。
そんな私は昨年夏かなり落ち込んだ。
ちょうどその時、私を救ってくれたのは小学校時代の一人の同級生だった。
彼も同じ脳卒中の患者。
彼が罹患してから既にかなりの時間がたっていたので、どうしているのかなと気にはなっていた。
そんなYくんからの手紙が届いたのは、昨年の夏の終わりだった。
おそらく友人経由で私の事情を知ったのだろう。
彼から聞いた彼の発症の経緯は、私にはとても悲惨に思えた。
彼の実家は代々寿司屋を営んでおり、彼もまたその店をいつしか切り盛りするようになっていた。
そんなある日、店終いをして全ての従業員を帰らせた後、一人誰にも気づかれず店内で倒れたのだった。
彼が発見されたのは翌日従業員が店に再び戻ってきた時だった。
そんなY君は、当然、麻痺や後遺症に苦しんだ。
それでも彼は必死に頑張り、今では毎日自分で築地に買い出しに行き店を以前の通り切り盛りするまでに回復している。
彼は、私を元気づけようといろいろなメッセージを手紙に書いて送ってきてくれたのだった。
私は、すぐに彼に電話を入れ、数日後に会うことを約束した。
会わずにはいられないと思ったからだ。
新宿駅のそばで彼と待ち合わせた。
手に杖を持ってはいるものの、その足取りは健常者のそれと何も変わらなかった。
それを見ただけで私の心は幸せな気持ちに満たされるようだった。
何十年と会っていなかったY君をその場で思い切り抱きしめたい衝動にも駆られた。
私たちは、近くの喫茶店に入り少しずつ話を始めた。
彼は、自分のカバンから紙を取り出すと何やら書き始めた。
彼は、脳卒中の患者には二通りの患者の種類があるということを私に説明しようとしていたのだった。
一つ目のタイプは、常にリハビリを怠らずひたすら良くなることを信じて前に進む人。
そして、もう一方は、途中で回復を諦め「もうこれぐらいで良い」と思ってリハビリも止めてしまう人。
彼は、こうも説いてくれた。
「この病気は、諦めちゃ絶対にダメ。諦めた瞬間、その人の身体は現状維持どころか悪化の一途を辿っていくよ。でも、諦めずに努力していけば必ず良い方に向っていくの。それが、たとえ発症前と同じ状態でなくても、発症前以上の状態にだって行くことは可能なの。だから、リハビリ、苦しくても頑張って」。
そう言って彼は、いきなり小学校時代の私のアダナを口にした。
小学校を卒業して以来、ほとんど耳にすることのなかった懐かしい小学校時代の自分のあだ名。
それを、Y君の口から聞き、私はとってもハッピーな気分になっていた。
私は、思わず彼に握手を求めた。
麻痺していたという彼の右手を力いっぱい握りしめると彼も、私の気持ちを理解したのか、渾身の力で私の右手を握り返してくれた。
その力強さに私の落ち込んでいた気持ちは思い切りどこかに飛んでいってしまうようだった。
私は、この時の彼の存在にどれほど勇気づけられたことだろう。