新潮社が毎月出している自社の出版物の宣伝用冊子の「波」に古くからの知り合いの作家石川好氏が私の新刊『奇跡のはじまり』について素晴らしい文章を寄稿してくれた。
その中にこんな文章がある。
「著者が米国に留学していた頃、障害者に対する呼び名はhandicappedであったが、その後disabled(上手にできない人)、そして今日ではgifted(神より贈られし人)という風に変化している。
要介護人であれ、知的身体的障害者であれ、彼らが神から贈られし人であるなら、介護に回る人間は、その神から贈られし人とつきあうという意味になる」。
石川好氏は高校時代からアメリカに渡りその奇想天外なアメリカ体験を書いた『ストロベリーロード』で大宅壮一賞を取った人なので英語やアメリカ事情には特に詳しい。
そんな彼が障害者を意味する英語の変遷に絡めてこんな一節を書いてくれた。
そうなのだ、現在身障者はハンディキャップットやディスエーブルドと呼ばれた時代から一歩先へ進み、私たち音楽家やアーティストの「才能」と同じようにギフティッドと呼ばれている(ただし、元々英語でgiftedはダウン症の子供のことを指していた時代もある)。
このギフトは誰からいただいたものかといえば当然それは神からの贈り物。
そしてその恩恵を世の中に還していく行為こそがまさしく「ギフティッド」なのだ。
だとすれば私たち音楽家も当然「いただいた物」を何らかの形で還していく義務がある。
問題は、この「ギフト」を与え、いただくという関係性そのものの中に潜んでいる。
一昨日行った伊東市主催の「認知症を考えるためのコンサート~音楽の力とシンプソロジー」という催しのトークで私が強調したのは「音楽はコミュニケーション、ならば介護もコミュニケーションではなくてはならないのでは」ということだった。
それが「ギフト」を与え、いただくということとどういう関係があるのか。
私たち人間のコミュニケーションというのは、必ずしもことばなどで「相手を理解する」ということだけではない。
そもそも人間同士が理解しあうなんていうことはとっても難しいことで、本質的に「そんなこと本当にできるの」というぐらい私たちの「心」や「身体」とそこから生まれて来る一人一人の「様子」は異なっている。
だからこそ、私たちは相手に何かを与え、もらいそして与えという関係を大昔から続けているのではないのか。
これがコミュニケーションの原型なのではと私は最近思い始めているのだ。
人間がことばで物事に「論理」を作って思考というものを組み立てられるようになったのもきっと脳(特に左脳)が異様に発達してしまったせいだろう(おかげで、この発達した脳が年をとって縮んでしまい認知症などに悩まされるようになったのだ)。
私たちはこの世にいろんな形で生まれて来るので、一人一人が「何」を持っていて「何」をするために生まれてきたのかは人によって違う。
だからこそ、何かを与えて何かをいただくというコミュニケーションが、人と人との関係には根本的に必要だったのではないのか。
そう考えると合点がいくことが多々ある。
私たちが与えられた「音楽」という能力はもしそれが「与えられた」ものであるならばそれはどこかで「お返し」しなければならないものなのだろう。
でも、そうであるならば、心や身体に障害のある人たちには一体何が「与えられて」いるというのだろうか。
素直に考えれば、身障者の人たちはそれぞれいろいろな「ハンデ」を背負っているのだから、「与えられている」どころか逆に何かを「奪われている」のではないのかという疑問も沸いてくる。
しかしながら、こう考えるとわかりやすいかもしれない。
例えば、私の妻のように「右手の自由が奪われている」「右足の自由が奪われている」その状態を健常者である私が見た場合、必ず気づくことがある。
それは、「私は、なんという素晴らしい能力を与えられているのだろう。右手が自由に使えるじゃないか!右足が自由に使えるじゃないか!」
こう考える私の意識は一体誰から与えられたものなのか。
それは、右手右足にハンデを持つ妻の恵子から与えられたものに他ならない。
つまり、この世の中で「与えられる」ことも「奪われる」ことも、共に同じ価値のあるものだということに気づかせてくれる。それが「ギフト」なのではないのか。
「介護する者」もいつかは「介護される者」になる。
介護する者とされる者が同じ目線でコミュニケーションを取り合うなんてこと、ユマニチュードの発案者に言われなくても、私たちは常に考えなくてはいけないはずなのに、それができていないことこそが介護の最大の問題なのではないのか。私にはそう思えてならないのだ。
その中にこんな文章がある。
「著者が米国に留学していた頃、障害者に対する呼び名はhandicappedであったが、その後disabled(上手にできない人)、そして今日ではgifted(神より贈られし人)という風に変化している。
要介護人であれ、知的身体的障害者であれ、彼らが神から贈られし人であるなら、介護に回る人間は、その神から贈られし人とつきあうという意味になる」。
石川好氏は高校時代からアメリカに渡りその奇想天外なアメリカ体験を書いた『ストロベリーロード』で大宅壮一賞を取った人なので英語やアメリカ事情には特に詳しい。
そんな彼が障害者を意味する英語の変遷に絡めてこんな一節を書いてくれた。
そうなのだ、現在身障者はハンディキャップットやディスエーブルドと呼ばれた時代から一歩先へ進み、私たち音楽家やアーティストの「才能」と同じようにギフティッドと呼ばれている(ただし、元々英語でgiftedはダウン症の子供のことを指していた時代もある)。
このギフトは誰からいただいたものかといえば当然それは神からの贈り物。
そしてその恩恵を世の中に還していく行為こそがまさしく「ギフティッド」なのだ。
だとすれば私たち音楽家も当然「いただいた物」を何らかの形で還していく義務がある。
問題は、この「ギフト」を与え、いただくという関係性そのものの中に潜んでいる。
一昨日行った伊東市主催の「認知症を考えるためのコンサート~音楽の力とシンプソロジー」という催しのトークで私が強調したのは「音楽はコミュニケーション、ならば介護もコミュニケーションではなくてはならないのでは」ということだった。
それが「ギフト」を与え、いただくということとどういう関係があるのか。
私たち人間のコミュニケーションというのは、必ずしもことばなどで「相手を理解する」ということだけではない。
そもそも人間同士が理解しあうなんていうことはとっても難しいことで、本質的に「そんなこと本当にできるの」というぐらい私たちの「心」や「身体」とそこから生まれて来る一人一人の「様子」は異なっている。
だからこそ、私たちは相手に何かを与え、もらいそして与えという関係を大昔から続けているのではないのか。
これがコミュニケーションの原型なのではと私は最近思い始めているのだ。
人間がことばで物事に「論理」を作って思考というものを組み立てられるようになったのもきっと脳(特に左脳)が異様に発達してしまったせいだろう(おかげで、この発達した脳が年をとって縮んでしまい認知症などに悩まされるようになったのだ)。
私たちはこの世にいろんな形で生まれて来るので、一人一人が「何」を持っていて「何」をするために生まれてきたのかは人によって違う。
だからこそ、何かを与えて何かをいただくというコミュニケーションが、人と人との関係には根本的に必要だったのではないのか。
そう考えると合点がいくことが多々ある。
私たちが与えられた「音楽」という能力はもしそれが「与えられた」ものであるならばそれはどこかで「お返し」しなければならないものなのだろう。
でも、そうであるならば、心や身体に障害のある人たちには一体何が「与えられて」いるというのだろうか。
素直に考えれば、身障者の人たちはそれぞれいろいろな「ハンデ」を背負っているのだから、「与えられている」どころか逆に何かを「奪われている」のではないのかという疑問も沸いてくる。
しかしながら、こう考えるとわかりやすいかもしれない。
例えば、私の妻のように「右手の自由が奪われている」「右足の自由が奪われている」その状態を健常者である私が見た場合、必ず気づくことがある。
それは、「私は、なんという素晴らしい能力を与えられているのだろう。右手が自由に使えるじゃないか!右足が自由に使えるじゃないか!」
こう考える私の意識は一体誰から与えられたものなのか。
それは、右手右足にハンデを持つ妻の恵子から与えられたものに他ならない。
つまり、この世の中で「与えられる」ことも「奪われる」ことも、共に同じ価値のあるものだということに気づかせてくれる。それが「ギフト」なのではないのか。
「介護する者」もいつかは「介護される者」になる。
介護する者とされる者が同じ目線でコミュニケーションを取り合うなんてこと、ユマニチュードの発案者に言われなくても、私たちは常に考えなくてはいけないはずなのに、それができていないことこそが介護の最大の問題なのではないのか。私にはそう思えてならないのだ。