ここ数ヶ月、戦前、戦中、戦後すぐの日本映画ばかりを恵子と一緒にネットサーフィンしている(彼女がこの時代の映画が大好きなのだ)。
かなりの数のyoutube動画がアップされていることに驚く。
その流れの中で出会ったのが『典子は、今』という映画だ。
サリドマイド障害児として両腕を持たずに生まれた白井典子さん本人が19歳の時に出演した映画。
81年に公開の映画だ。
ドキュメンタリー映画として広く紹介されているが、本人以外は全員役者さんなので(しかもお母さん役に渡辺美佐子さんとかお父さん役に長門裕之さんといった名優ばかりがキャスティングされている)これをドキュメンタリー映画と呼んで良いものなのかどうなのかは疑問だが、さしずめ、本人が演じる「再現ドラマ」という言い方が一番正確なのかもしれない(それにしては豪華過ぎる「再現」だが)。
大戦前後の日本映画は、極端に社会派的なものか、あるいはまったく逆にノー天気なほどに明るいドラマが多い(多分、時代がそうした両極を選ばせているのだろうが)。
そんな映画の中でも比較的明るい役柄の多いのが高峰秀子さん。
『二十四の瞳』の主演で有名な彼女の映画を探していると、当然のように木下恵介監督の映画に行き着く。
そしてこの木下監督の愛弟子で高峰秀子さんのご主人でもある映画監督の松山善三氏が作ったこの『典子は、今』という映画にまでストレートに辿り着いたのダ。
それがネットと言ってしまえば身も蓋もないが、ネットにはこうした「クモの糸」が至るところに張り巡らされていて私たちはその糸に簡単に絡めとられてしまう。
この映画、障害や社会問題をテーマにした映画にしてはあまりウェットなところがなく、むしろご本人の典子さんの明るさと、そして彼女を女手一つで育てたお母さんの生き様の見事さに圧倒される(これはお母さん役を演じた渡辺美佐子さんの演技力のせいもあるだろう)。
サリドマイド薬害とか障害のことについて触れ出したらキリがないので、とりあえずこの映画で印象に残ったことを一つだけ。
この映画は公開当時日本中でかなり話題になったようだ(私は、公開当時ちょうどアメリカに住んでいたのでリアルタイムでは観ていない)。
その中でもとりわけ話題になったシーンが、彼女が故郷の熊本から友人を訪ねて広島まで一人で旅行するシーンとその広島の海で泳ぐシーンだったという(これは、ネットから得た情報)。
私は、別に両腕がないからといって泳げないなどとはこれっぽっちも思わないし、完全に視力を失っても毎日台所で料理を作っている女性も知っている。
なので、腕がないのにどうやって泳ぐの?という興味は、それ自体が大変失礼な話だと思う。
そんなこと言ったらパラリンピックなんかできるわけがない。
それよりも、私が気になったのは熊本から広島までの旅行シーン。
典子さんのお母さんはこの旅行に猛烈に反対する。
「私がいなくてどうやってキップ買うの?」「どうやって外でご飯食べるの?みんなにジロジロ見られるよ」
お母さんは本気で娘さんのことを心配しているのだ。
でも、典子さんは気丈に答える。
「大丈夫、なんとかなる。見られたってかまわない。だって、お母さんがいなくなってしまったら私一人で何とか生きなくちゃいけないんだから」。
そうやって出発した典子さんは、なんとか広島まで辿り着くことはできたものの、旅の途中の光景がやはり気になった。
キップを買おうとしてもおサイフからお金を取り出せず、近くの人に買ってもらったり、改札を出る時に駅員さんに「手が不自由なんですけど、ここからキップを出してください」と頼む。
これは80年代初頭の話だ。
これが今だったらどうだろうとこの場面を見ながら思った。
ほとんどの券売機が自動だし、ほとんどの改札が自動化されている今の鉄道でこの方法はひょっとしたらハードルが高いかもしれない。
典子さんは、手の代わりに足でほとんどの作業をやりとげる。
食事だろうが、字を書くことだって、料理だって足で器用にこなし、最近まで故郷の熊本市の職員をされていたはずだ。
でも、世の中が「自動化」されることは、ある意味、障害のある人や高齢者を「置き去り」にすることにもつながらないだろうか。
随分前に見た光景だ。
私の前でキップを買おうとしていた高齢の女性がいた。
その方、自動券売機にお金をちゃんと入れたには入れたのだが、その後ジッと券売機を睨んだまま動かない。
キップが出て来るのをひたすら待っているのだ。
私が見た限り、この方、200円入れただけで200円のボタンを押してはいない(これでは、いつまでたってもキップは出てくるはずがない)。
しかし、しかしである。
この時私が妄想したのは、「200円のキップを買うためには200円ボタンを押さなきゃならないということをわかっていないんだろうナ、教えてあげなきゃ」という気持と同時に、このご婦人の方がはるかに時代の先を行っているのではないかということだった。
だって、200円入れたら何も言わずにそのまま200円のキップが出て来るとしたら、券売機が購買者の心まで読んでいるという未来の人工知能の世界をこの老人の行為は体現しているのではと思ったのだ(「そんなバカな」というSFの世界が実際に起こり得るのかどうかは私にもわからないが)。
「自動化」という世の中の流れは、時として「バリアフリー(ユニバーサルデザイン)」というもう一つの世の中の流れに逆行する場合がある。
介護ロボットとか、車の自動運転という世の中の流れは、必ずしも「効率」だけを目的にしているのではないのだろうが、それでも置き去りにされるものは必ず出てくる。
果たして介護ロボットとか自動運転が、これから先「人の心」まで読んでくれるというのだろうか。
人間の社会はどこまで自動化という「人間のエゴ」を追求していきながらユニバーサルデザインという「宇宙や自然、社会との調和」をも同時に追求していくことができるのか。
サリドマイドの問題だけでなく全ての「薬害」は、「病い」を治す「クスリ=作用」というモグラ叩きがもう一方の極にある「副作用」というモグラの頭をもたげさせてしまった現象だ。
だとしたら、これは誰のせいでもなく、宇宙と人間のバランスを保てない人間の「業」のようなモノなのかもしれないとも思う。
『典子は、今』という映画を観ながらそんなことまで考えてしまった。