みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

奥さんの具合、いかがですか?

2016-01-20 12:35:31 | Weblog

当たり前のようにこういう質問を人から受ける(知り合いからも、そうでない人からも)。

でも、正直言って私はこの質問が一番苦手だ。

苦手というより、実際、答えられない。

相手の方は、(もちろん何の悪意もなく)単純に「どういう風に生活されているんだろう?」あるいは「どのぐらい回復しているんだろう?」という意味で聞いていることはよくわかるのだが、私はこの質問にどう答えてよいのかいつもわからない。

「ええ、良いです」と答えるか、「いえ、あまり良くありません」と答えるかが一番簡単なのだが、どちらに答えても多分誤解を与えるだろうナと思ってつい口ごもってしまう。

実際(恵子の具合は)そのどちらでもないからダ。

ただ、その「グレー」な状態を説明しようとすると、きっとものすごく長い答えになってしまうので、相手の方も「いえ、そこまで詳しく説明なさらなくても…」ということになると思うので、できるだけ簡単に答えようとすると、結局、曖昧にするしかなくなってしまう。

具合はいかがと聞かれて「はい、良いです」と答えるときっと人は、「ああ、そうなんだ。悪くないんだ、ヨカッタ」と思うと同時に、もうほとんど健常者と変わらないような以前の恵子の姿を想像するかもしれない。

いいえそれは違うんです、とあまりくどくどと弁解はしたくない。

と同時に、まったく逆に「いえ、あんまり良くないです」と答えようものなら、きっと相手は、(極端な場合は)寝たきりに近いような状態まで想像してしまうかもしれない。

それこそ余計な心配をかけてしまうことになる。

だから、結局適当なことばが見つからず、「ううン...」とことばに詰まってしまうのだ。

きっと、同じような思いをしている人たちも世の中にはたくさんいるのではないかと思う。

「心配してくださるのはありがたいのだが…」。

そうやって他人(特に病気とか障害とかで傷ついている人)を思いやるという気持はとても大切だし、人間生活には絶対に必要なことだと思うのだが、「どうですか?」と聞く前にちょっと想像してみることも一方で大事かナと思っている。

人を思いやるということは、人が「今どんな風に暮らしているのだろう」かを想像してみることだ。

ソレがわからないから聞くんじゃないのと突っ込まれそうだが、「いや、だから、聞く前にほんのちょっとでも想像してみた方が良いのでは」と思うのだ。

その上で、じゃあどんなことばでどんな風に尋ねてみるのが良いのか、あるいは、結論として「聞かない方が良い」ということになるのかを考えるべきなのではといつも思っている。

人と人とのつきあいで一番頻繁に使われしかも一番有効だと思われているのが「ことばのコミュニケーション」だけれども、これも時と場合だ。

特に、SNSというツールが当たり前のようになってから余計にこのことに気をつける必要があるのではと思っている。

SNSで多くの人が日常的に使う方法論は「短いことばで伝える」ということ。

長い文章は嫌われるし、大体みんな(長い文章は)読まない(同じように、長い映像も見ない)。

でも、よく考えて欲しいのは、相手に何かを伝えることばというのは、「短ければ短いほど難しい」のダ。

よく国語の問題で、「傍線をひいた部分で作者が言いたいことを200字以内で述べよ」といったものがある。

この字数が短いほど答えをまとめるのは難しくなってくる。だから、問題になる。

これが50字以内とか言われたらそのハードルは相当高い。

ツイッターを始めとしたSNSの短い文章に慣れることは、ある意味、文章力を養うことにもなるのだろうが、同時に、相手にとんでもない誤解のタネを蒔くことにもなる。

だから、それが実際に(いろんなところで)起こっている。

小津安二郎監督の映画のセリフによくある「そうだろ?」「うん、そうだよ」「そうか、そうなのか…」という、それだけ聞くと意味不明な代名詞だけで成り立っているような会話は、当人同士が同じ目線で同じ理解度に立っているからこそ成立する。

SNSのような「誰が読んでいるかもわからない」、しかも「どれだけの理解度の人かわからない」不特定多数の人たちを相手に短いことばを発するのはとても危険だ。

冒頭の質問に戻る。

「奥さんの具合、いかがですか?」

(私の心の中)「う~ん?よくわからないナ。良い時もあるし、悪い時もあるから、どう答えたものか…?」

(実際の私の答え)「ちょっと、何とも言えませんネ。でも、二人とも明るく前向きに生きてますよ」