文科省が言い出した。
厚労省が「認知症カフェを作れ」と言い出したことと同じで、なんで行政の初動というのはこうも遅いのかといつも不思議に思う。
事件の初動捜査の失敗で迷宮入りする事件があまりにも多いのと同じで、アクティブラーニングも認知症カフェもきっとたいした成果をあげられずに終わるのではと思ってしまう(のは、勘ぐり過ぎかナ?ハハハ)。
大体が、こんな当たり前のことと今までやってこなかったことの方がオカシイ。
生徒が同じ格好をして同じ方向を向いて同じ教科書を同じように眺めていることが「教育である」ということの方がはるかにオカシイということにやっと気づいたのだろうか。
日本という国は、なにしろ「同じ」ということへの呪縛があまりにも多過ぎる。
なんで人と同じことをしなければいけないのか。
なんで人と同じように学校に行かなければいけないのか。
私の小さい頃からの疑問だし、今でも「疑問」に思っている。
先日ある高校生から「親になぜ大学に行かなければいけないのか尋ねても、とりあえず行けとしか答えてくれませんでした。どう思いますか?」と聞かれた。
みんなが大学に行くから、お前もとりあえず行け。
それって(マジに)答えになってないと思うのだけれども、きっとほとんどの親はそう答えるだろうナ(と思う)。
「みんなが行くから行く」「みんながやるからやる」。
だから、「オマエも大学にとりあえず行け」。
ある意味、この国ではこれが正論なのかもしれない。
でも、人生の一番ナイーブな時期にいる高校生にしてみれば、そんなこと「オカシイ」としか思えないだろう。
件の高校生、私から「そんなところ行く必要ないよ」という答えを期待したのかもしれないが、私としては「じゃあ、何をする」という代案を用意せずに安易に「大学なんか行く必要ないよ」と答えるわけにはいかない。
じゃあ、(大学に行かない代わりに)どうする?が必要なのだ。
「ラーニングピラミッド」というものがある。
どういう風な教育スタイルで学べば知識の定着率が高くなるかという分布をピラミッドのような表にまとめたものだ。
ピラミッドの頂上に行くほど定着率が悪い。
つまり、効率の悪い教育法ということになる。
このピラミッドの一番頂上にあるのは「教室での講義を聞くこと」。これが5%(の定着率でしかないとこのピラミッドは教える)。
その次に来るのが、「マスタークラス」などの特別な講義スタイルで、これが10%。
3番目が「視聴覚による授業」で20%。
次の「プレゼンテーション(生徒に発表させること)が30%。
そして、以下、ディベイト(50%)、体験学習(70%)、他人に教えること(90%)、と続く。
つまり、教室でただ授業を聞いていてもほとんど知識は頭の中に入りませんよということをこの「ラーニングピラミッド」は示しているのだ。
人に教えられるようになってはじめて「自分の知識」として定着する(そりゃそうだろう)。
だから、「アクティブラーニング」が必要なんです。というのが、おそらく行政の考えていること。
まあ、この定着率云々はアメリカの教育機関が調べた結果だからそのまま鵜呑みにもできないけれども、きっと概ね当っているのだろう。
いつも思うこと。日本の教育に絶対必要なのはディベイトや体験学習。そして、日本語の学習。
体験学習は、実際の会社やお店に体験的に「実習」として出向く授業は既に(小学校でも中学校でも)実施されているけれども、子供たちを営業時間内に引き受けるのはお店にとっても会社にとっても厄介なお荷物。
だから、どこかの高校のように、実際にレストランを作るところから「体験」して「運営」していけば本当の意味での体験学習になるだろう。
容赦なく人間の生活に入り込んできているロボットや Aiをうまく使いこなすワザを発見できるのは、間違いなく(頭の固い)大人ではなく子供たち。
ポケモンGO やペッパーなどという、現実の世界にVRが殴り込みをかけてくるような「無礼な存在」とどう対峙していくのか。
毎日の生活に容赦なく入り込んでくる(ビッグデータ)による「おせっかい」にも私たちは対峙しなければならない。
二十世紀に作られた数々のSFが現実のものとなっている「今の生活」に正しい処方を書けるのも子供たち以外にない。
「現実」を変えたいとも思わない大人たちの怠慢を子供たちが「未来の希望」に変えられるようにするにはどうしたら良いのかを最近よく考える。
その答えが、「アクティブラーニング」や「認知症カフェ」とは到底思えない。