先日、アメリカ人の友人3人とお茶している時(一人はアーティスト、一人は教育者とその娘で私以外は全員女性)、突然「ジョン・ケージのspace と日本の文化について…」みたいな話しになった。
日本の絵画とか音楽、そして人と人の距離、つまり「間」をどう計るかみたいな話し、ダ。
すぐに思い浮かんだのはかつて恵子がやっていた日本画。
彼女は帯の会社に勤め帯の下絵を描いたりもしていたが、アメリカ滞在中は、アートフェスティバルやマーケットなどで売ったりもしていた。
そんな時アメリカ人は必ずこんな風に質問してくる。
「この絵、まだ未完成なんだろ? 何も描いてないスペースがこんなに残ってるじゃないか」。
いや、そうじゃなくってさあ、と西洋人は日本文化の「間」が理解できないのかとは思いつつも、私と恵子で丁寧にゆっくりと「日本画の間というのは、これこれこうであって…」と説明してさしあげる(笑)。
その甲斐あって彼ら彼女らが本当に理解したかどうかはよくわからないけれども、最終的には「interesting!」とかいって買ってくれるのだから、私たちにとっては有り難いことだった。
日本文化には本当に何もない「space(間)」がたくさんある。
音楽でもしかりだ。
私は、かつて自分のリサイタルで(そういえば、そんなスタイルのコンサートから遠ざかって久しいナ…ハハハ)三味線とフルートの曲を知りあいの作曲家に書き下ろしてもらった。
その作曲家は弘前大学の教授で津軽三味線とオーケストラの曲をたくさん書いていた作曲家/指揮者の人だったので(しかも、私のごく親しい友人だったので)躊躇なく依頼した。
フルートとお琴のため曲はそう珍しくないけれども、フルートと三味線の曲なんて滅多にあるものじゃない。
もちろん、出来上がった曲は素晴らしかった。
でも、この曲の完成には一つ大きな問題があった。
それは、どうやって練習すればよいのかということ。
だって、三味線の演奏を頼んだ端唄のお師匠さん(粋な着物姿の似合う美形のオネエサンではあったが)オタマジャクシがまったく読めないのだ。
なので、取り得る方法は唯一つ。
私が、楽譜に書かれた音を一音一音歌いそれを彼女に覚えてもらったのだ(これがホントの「口三味線」ってネ、ハハハ)。
これは、ある意味、日本音楽の習得方法としてはわりとオーソドックス。
なので、彼女に三味線のフレーズを覚えてもらうのにさほど手間はかからなかった。
問題は、休符。
西洋音楽では、休符も音符と同じく「1、2、3、4」と数えれば用は足りる。
しかし、これが彼女にはまったく通じない。
これも、考えれば当たり前の話しなのだが、日本の伝統音楽で数は数えない。
フレーズと同じように「間」は「これぐらい」と感じるものなのだ。
恥ずかしながら、私はこの時初めてそのことに気がついた。
どうしたものか。
これも、答えは一つ。
彼女がどこでどれぐらい休むのかを(全曲を通して)私が感じ取るしかない。
私が彼女の「間を計る」のだ。
なので、間が悪ければ「間違い」になるし、逆の場合には、とっても「間が良い」ことになる。
はは〜ん、これネ…。
日本語の慣用句に音楽用語が多いのはこんな理由だろう(ちなみに「打ち合わせ」も雅楽で使う音楽用語)。
音楽の「お休み」というのは、けっして「音が何もない時間」ではないということだ。
「間」という音楽がそこには存在しなければならないということなのかもしれない(と、私は理解した)。
多分、ジョン・ケージが作った有名な『4‘33”』という曲(4分33秒の間演奏者は何も音を出さない)はこのことを表現したかったのだろう。
音楽って結局「楽器が何かしらの音を出していること」なのではなく、色や形で紙を埋め尽くさない日本画や日本庭園の「間」の概念のように、「世界は、あるものとないもので構成されている」ということを表現することに近いのかナと思ってみたりする。
まあ、それが本当に正しい解釈かどうかはわからないし、究極それが「正しいか正しくないか」はどうでもよいことなのだと思う。
同時に、こんなことも思い出した。
宮中で催す晩餐会。
そこで必ずといってよいほど雇われるクラシックの室内楽(私も、かつて一度だけ迎賓館で演奏したことがある)。
西洋の晩餐会でつきもののBGMには明確な意味がある。
それは、VIPの皆さんが食事をしている最中に一番起こってはいけないことを避けるための「保険」なのだ。
それは、たとえそれがほんの一瞬であっても絶対に起こってはいけないsilenceを避けるための「保険」と言ってもいいだろう。
「沈黙」は、晩餐会の最中に「絶対に起こってはいけない事故」のようなもの。
それを避けるために楽士は雇われる。
「間」を極力避けようとする西欧文化と「間」にこそ万感の思いを込める日本文化との違い。
これは、人と人との距離感でも同じ。
「空気の読めない」人というのは、結局、人と人との「間を計れない」人なのかもしれない。