「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2009・11・08

2009-11-08 08:15:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、藤沢周平(1927-1997)著「三屋清左衛門残日録」から。

 「路地をいくつか通り抜けて、清左衛門は大塚平八の家がある道に出た。
 そして間もなく、早春の光が溢れているその道の遠くに、動く人影がある
 のに気づいた。清左衛門は足を止めた。
  こちらに背をむけて、杖をつきながらゆっくりゆっくり動いているのは
 平八だった。ひと足ごとに、平八の身体はいまにもころびそうに傾く。片
 方の足に、まったく力が入っていないのが見てとれた。身体が傾くと平八
 は全身の力を太い杖にこめる。そしてそろそろとべつの足を前に踏み出す。
 また身体が傾く。そういう動きを繰り返しているのだった。見ているだけ
 で、辛くて汗ばむような眺めだった。
  つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打っていた。清左衛門は後を
 振り向かずに、いそいでその場をはなれた。胸が波打っているのは、平八
 の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。
  ――そうか、平八。
  いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。」
コメント
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