今日の「お気に入り」は、藤沢周平(1927-1997)著「三屋清左衛門残日録」から。
「路地をいくつか通り抜けて、清左衛門は大塚平八の家がある道に出た。
そして間もなく、早春の光が溢れているその道の遠くに、動く人影がある
のに気づいた。清左衛門は足を止めた。
こちらに背をむけて、杖をつきながらゆっくりゆっくり動いているのは
平八だった。ひと足ごとに、平八の身体はいまにもころびそうに傾く。片
方の足に、まったく力が入っていないのが見てとれた。身体が傾くと平八
は全身の力を太い杖にこめる。そしてそろそろとべつの足を前に踏み出す。
また身体が傾く。そういう動きを繰り返しているのだった。見ているだけ
で、辛くて汗ばむような眺めだった。
つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打っていた。清左衛門は後を
振り向かずに、いそいでその場をはなれた。胸が波打っているのは、平八
の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。
――そうか、平八。
いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。」
「路地をいくつか通り抜けて、清左衛門は大塚平八の家がある道に出た。
そして間もなく、早春の光が溢れているその道の遠くに、動く人影がある
のに気づいた。清左衛門は足を止めた。
こちらに背をむけて、杖をつきながらゆっくりゆっくり動いているのは
平八だった。ひと足ごとに、平八の身体はいまにもころびそうに傾く。片
方の足に、まったく力が入っていないのが見てとれた。身体が傾くと平八
は全身の力を太い杖にこめる。そしてそろそろとべつの足を前に踏み出す。
また身体が傾く。そういう動きを繰り返しているのだった。見ているだけ
で、辛くて汗ばむような眺めだった。
つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打っていた。清左衛門は後を
振り向かずに、いそいでその場をはなれた。胸が波打っているのは、平八
の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。
――そうか、平八。
いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。」