「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

イヨクニ燃えるコロンブス Long Good-bye 2021・08・25

2021-08-25 05:06:07 | Weblog



    今日の「お気に入り」は、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の「 大航海時代において、

   最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人 『 クリストファー・コロンブス 』 」に関する記事 です 。

    子供の頃、読み、聞かされた「 探検家 コロンブス の新大陸発見」のお話しや ダニエル・デフォー の「 ロビンソン・クルーソー 」

   の冒険譚により、筆者の脳裏に植え付けられた冒険家 ( イヨクニ燃えるコロンブス ) のイメージは、「 ウィキペディア 」に掲載され

   た「コロンブス」の事績・事跡の数々により、吹っ飛びました 。

   ( 因みに、エロール・フリン主演のカリブの海賊のハリウッド映画を、何本も、テレビで視聴しました、十代の頃、60年ほど前、

     モノクロ映画によっても形成された 大航海時代 のイメージです。)

    綴られた日本語の記述には「今日のモラルで見た過去の歴史」臭さが漂い、違和感を覚える記述もありますが、

   それでもヒトをヒトと思わない、往時の人種差別 や " genocide " の 歴史的事実 は、否定すべくもなく、厳然として有り 、

   あらためて「 人類の諸悪の根源は移動することにある 」という思いを強くしました 。

    異民族、異人種、考えを異にする者 に対する 偏見 、抑圧、差別、迫害 は、21世紀の今日ですら、地球上のそこかしこに

   存在し、無くなることがありません 。コロンブスの 昔から 変わりない 人類 の 痼疾 。仁義なき 乾いた 世界 。

    コロンブスたちが乗船した「 キャラベル船 」や「 ナオ船 」は、上の絵にある19世紀の「 北前船 」のような大きくて立

   派な帆船ではなく、普段はもっぱら地中海や大陸の沿岸部を行き交う、帆の数の少ない交易船だったようです。

   
   「 クリストファー・コロンブス ( 英語: Christopher Columbus、イタリア語: Cristoforo Colombo、
                    スペイン語: Cristóbal Colón、ポルトガル語: Cristóvão Colombo、
                    ラテン語: Christophorus Columbus、 1451年頃から1506年 )

    は、探検家、航海者、コンキスタドール、奴隷商人 。定説ではイタリアのジェノヴァ出身 。
ランス・オ・メドーが

    発見されるまでは大航海時代において キリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた 。

    彼の実績により 彼の子孫は スペイン王室より ベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)に叙され、2021年
 
    現在までスペイン貴族の公爵家として続いている 。 」  

    ( 中 略 ) 

   「 船出

     1492年8月3日、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航した

    このときの編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数

    は約90人( 120人という説も)。

     いったんカナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した 。

     大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった 。

     当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする

    旧来の考えも根強く残っていた 。

     コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。

    10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って『 あと3日

    で陸地が見つからなかったら引き返す 』と約束させた。その後、流木などを発見し 陸が近くにあると船員を

    説得する 。

  『 新大陸 』上陸

     そして10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した 。

     翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける 。

     最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける 。

     アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことの

    ないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコ

    ロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった 。

     彼はこう書き残している 。

    『 私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワ

    ク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込む

    ために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した 』

    『 彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない 。私が彼らに刀を見せたところ 、無知な彼らは刃を触って

    怪我をした 。 彼らは鉄をまったく持っていない 。彼らの槍は草の茎で作られている 。彼らはいい身体つき

    をしており、見栄えもよく均整がとれている 。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう 。

    50人の男達とともに、私は彼らすべてを征服し 、思うままに何でもさせることができた 』

    『 原住民たちは所有に関する概念が希薄であり 、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して

    『いいえ』と言わない 。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ 。彼らは何を聞いてもオウム返し

    にするだけだ 。彼らには宗教というものがなく 、たやすくキリスト教徒になれるだろう 。我々の言葉と神を

    教え込むために 、私は原住民を6人ばかり連行した 』

     コロンブスはこの島で略奪を働き 、次に現在のキューバ島を発見した 。ここを『 フアナ島 』と名づけた

    あと 、ピンタ号 船長である マルティン・アロンソ・ピンソン の独断により ピンタ号 が一時離脱してしまう

    が 、12月6日には イスパニョーラ島 と名づけた島に到達 。24日に サンタ・マリア号 が座礁してしまう 。

    しかし、その残骸を利用して要塞を作り 、アメリカ における スペイン 初の入植地を作った 。この入植地に

    は39名の男性が残った。

     年が明け 、1493年1月6日に ピンタ号 と再び合流する 。1月16日 、 スペイン への帰還を命じ 、

    3月15日に パロス港 へ帰還した 。

     帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた 。コロンブスは航海に先んじて 、発見地

    の総督職 、世襲提督の地位 、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた 。この取り決

    めに従い 、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石 、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れ

    た 。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが 、コロンブスは

    自分が先に発見したと言い張り 、これをせしめている 。

     国王に調査報告を終え 、少しばかりの援助を求めたコロンブスは 、次の航海目標としてこう述べている。

     『 彼らが必要とするだけのありったけの黄金 … 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつ

    もりだ 。このように 、永遠なる我々の神は 、一見不可能なことであっても 、主の仰せに従う者たちには 、

    勝利を与えるものなのだ 』

     1493年5月4日 、ローマ法王勅書 は アゾレス諸島 の西100リーグの分界線を

    定め 、スペイン はこれによって新大陸を探検し 植民する独占的な権利 を手にした 。

     折からの関心の高まりによって 、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。

         ( 筆者註:1リーグは 約 4.8 km だそうですから、アゾレス諸島の西 100 リーグ、即ち    
              沖合い約 48 km 先 が 上記の『 分界線 』。植民地分界線( しょくみんちぶん
              かいせん ) とも言い、『 1493年 に ローマ教皇 アレクサンデル6世 が 大
              西洋中のアゾレス諸島西方の子午線をもって、スペイン・ポルトガル両国の勢
              力範囲として調停した境界線 。 教皇子午線ともいう 』そうで、『 これにより、
              ポルトガルは東方、スペインは西方新大陸へ という 新航路の開拓の方向 が定
              まった 』そうです 。『 翌年、両国の直接交渉によりトルデシリャス条約を定め、
              分界線は西へ移動し、ポルトガルは ブラジルの支配権を得た 。この分界線は、
              オランダ・イギリス・フランスの海外進出の開始によって、その意義を失った 』
              そうです。ヨーロッパから見た新世界は、その時その時の大国の「 切り取り放題 」
              だったということですね。)

  インディアンへの大虐殺                                         

     1493年の9月に17隻1500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫

    を含み 、植民目的であった 。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが 、前回作った植民地に行ってみ

    ると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており 、残した人間はすべて殺されていた 。コロンブ

    スはここを放棄して新しく『 イサベル植民地 』を築いた 。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満

    の声が上がり 、周辺諸島ではアラワク族 、タイノ族 、ルカヤン族 、カリブ族などのインディアンの間で白人

    の行為に対して怒りが重積していた 。

     これに対し 、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った 。行く先々

    の島々で 、コロンブスの軍隊は 、海岸部で無差別殺戮を繰り返した 。

     まるでスポーツのように 、動物も鳥もインディアンも 、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した 。コロン

    ブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると 、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し 、窃盗 、殺人 、強姦 、

    放火 、拷問 を駆使して 、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした 。

     インディアンたちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが 、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫

    病はインディアンの想像をはるかに超えていた 。最終的に彼らは最善の策は『 逃亡 』であると決めた 。 置

    き去りにされた作物は腐るにまかされ 、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった 。

     コロンブスが何か月も病に臥せっている間 、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた 。コロン

    ブスが快復するまでに 、5万人以上のインディアンの死が報告されている 。やがて完全復帰したコロンブス

    の最初の仕事は 、彼の軍勢に対し 、略奪を組織化することだった。

     1495年3月 、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊 、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を

    組織した 。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは 、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ 、非武装だったイン

    ディアンの村々を徹底的に攻撃し 、数千人単位の虐殺を指揮した 。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間 、

    スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。

     コロンブスは 、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに 、引き

    回しの刑と投獄のあと 、鎖につないで船に乗せ 、スペインへ連行しようとした 。しかし他のインディアンた

    ちと同様に 、この男性は劣悪な船内環境の中 、セビリアに着く前に死んでいる。

  晩年

     インディアンの殺戮に " 大勝利 " したあと 、コロンブスは予定通り 、捕らえたインディアンを奴隷として

    本国に送るが 、イザベル女王はこれを送り返し 、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した 。驚いた

    コロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し 、罪は免れた 。

     コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は 、『 黄金探し 』を使命としたスペ

    イン海軍によって体系化され 、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが 、3か月以内に一定量の黄金を

    差し出すよう脅迫された 。金を届けたインディアンには 、『 スペイン人に敬意を表した 』という証しとし

    て 、その男女に首かけの標章が贈られた 。

     金の量が足りなかった者は 、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた 。

     コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため 、死にたくなかったイン

    ディアンたちは 、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった 。インディアンが逃亡を始めると飢饉は

    さらに悪化した 。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は 、栄養失調となったインディアンたちの

    弱められた身体をより激しく蝕んだ 。そしてコロンブスたちと同じく 、スペイン軍は面白半分に男を殺

    し女を犯す楽しみを決してやめなかった 。

     1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る 。今度は南よりの航路を

    とり 、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した 。その膨大な量の河水が海水ではなく真水で

    あったことから 、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得な

    かった 。しかし彼は 、最期まで自らが発見した島を アジア だと主張し続けたという 。


     その後 、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が

    起きていた 。コロンブスは説得を続けるが 、入植者たちはこれをなかなか受け入れず 、1500年

    8月に本国から来た査察官により逮捕され 、本国へと送還された 。罪に問われる事は免れたものの 、

    すべての地位を剥奪される 。

     それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが 、王からの援助は小型のボロ舟4隻というも

    のであった 。1502年に出航したが 、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており 、パナマ周辺

    を6か月さまよったが 、最後は難破して救助され 、1504年11月にスペインへ戻った 。しかし

    1504年末にイサベル女王が死去し 、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった 。

     帰国後は病気になり 、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去 。


     その遺骨はセビリアの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された 。

     コロンブスの死後 、ドイツの地理学者 マルティン・ヴァルトゼーミュラー が手がけた地図には 、

    南米大陸の『 発見者 』としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記された 。

    この結果 、ヨーロッパでは『 新大陸 』全域を指す言葉として『 コロンビア 』ではなく『 アメリカ 』

    が使われるようになった( ただし、18世紀以降 アメリカ の 雅称 として『 コロンビア 』も用いら

    れる )。 」





   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする