「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

盟友、あの人は今、 沈黙 Long Good-bye 2022・03・20

2022-03-20 06:54:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
  掲載の記事「 ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドヴェージェフ 」。56歳 。
   適宜抜粋して引用します 。

   引用はじめ 。

  「 ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドヴェージェフ
   (ロシア語: Дмитрий Анатольевич Медведев、
   ラテン文字表記の例:Dmitrii Anatolievich Medvedev 、1965年9月14日 - )

   は、ロシア連邦の政治家 。現在安全保障会議副議長 、統一ロシア党首を
   務めている 。第3代大統領 、第10代連邦政府議長( 首相 )、
   第一副首相( ヴィクトル・ズプコフ内閣 )、ロシア・ベラルーシ連盟国
   の閣僚会議議長( 首相に相当 )を歴任
した 。 」

  「 生い立ち
   1965年9月14日にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のレニングラード
   ( 現在のサンクトペテルブルク )に誕生する 。両親は共に教育者で 、
   父のアナトーリー・アファナシエヴィチ・メドヴェージェフ
    ( 1925 〜 2004 ) はレニングラード国立工業大学の物理学教授で 、
   祖父のアタナシウス・フョードロヴィチ・メドヴェージェフ
    ( 1904 〜 94 ) と共に共産党員であり 、母のユリア・ベニアミノブナ
   は教育大学でロシア語とロシア文学を教えていた 。なお兄弟はおらず 、
   1人っ子であった 。
   知識人層の家庭だったものの 、メドヴェージェフは40平方メートルの
   広さのアパートメントで育つ 。少年時代のメドヴェージェフは成績
   優秀な学生で 、将来は法律家になる夢を持っていた 。
   また 、カヤックなどのスポーツ・写真撮影・読書( ブーニン 、
   チューホフ 、ドストエフスキーの作品など )・ロック音楽に熱中
   した 。
   1987年にレニングラード大学( 現在のサンクトペテルブルク大学 )
   法学部を卒業し 、同大学院に進学する 。1990年には専門の私法分野
   で博士号を取得した 。
   その後1990年から1999年までサンクトペテルブルク大学で非常勤講師
   として教壇に立ち 、法律専門家として私法の教科書を共著で執筆した 。

   その一方で大学時代にアナトリー・サプチャークと出会ったことが
   きっかけで政治に関わることになる 。1989年にサプチャークが
   人民代議員大会に出馬すると 、その選挙運動に参加した 。
   そして1990年にサプチャークがレニングラード市ソビエト議長に就任
   すると 、同年にメドヴェージェフは議長参事官に就任した 。
   この時同じく参事官だったのが 、同郷かつ大学の同窓でもある
   ウラジーミル・プーチンであり 、当時はメドヴェージェフの同僚と
   して働いていた 。1991年まではソビエト連邦共産党に所属していた 。 」

  「 政治家としての出世

   1991年から1995年までメドヴェージェフはプーチンが議長を務める
   サンクトペテルブルク市渉外委員会で法律顧問として働いた 。
   1994年にプーチンが同市の第一副市長になるとプーチンの顧問も
   兼任した 。
   1999年8月にプーチンが首相に就任すると 、プーチンはサンクト
   ペテルブルク出身者( いわゆる「 サンクト派 」)を要職に登用
   するようになる 。メドヴェージェフもその中の1人であり 、
   同年11月にロシア連邦政府官房次長に任命される 。
   さらにプーチンが同年12月31日に大統領代行に就任すると 、
   それに伴い大統領府副長官に就任する 。

   2000年ロシア連邦大統領選挙ではプーチン陣営の選挙対策本部
   責任者としてプーチンの大統領当選に貢献し 、ロシアにおいて
   最も有力な政治家の1人に台頭する 。大統領選挙後の2000年6月3日
   には大統領府第一副長官に昇格した 。同時に2000年から2001年まで
   ガスプロムの取締役会議長( 会長 )、2001年から2002年まで副会長 、
   2002年6月30日から再びガスプロム会長を務めた
。その後2003年10月
   30日にアレクサンドル・ヴォローシンの跡を追って大統領府長官に就任
   する 。

   さらに2005年11月14日にプーチンによって第一副首相に任命される 。
   第一副首相としてメドヴェージェフは保健・教育・住宅建設・農業の
   4分野の改革で社会基盤の整備を目指す「 優先的国家プロジェクト 」
   を担当した 。第一副首相就任に伴い 、同じく第一副首相だった
   セルゲイ・イワノフと2007年9月に首相に就任したヴィクトル・ズプコフ
   などと共にプーチンの後継の最有力候補の1人と取り沙汰されるようになる 。


   2008年ロシア連邦大統領選挙
   2007年12月10日にプーチンは翌年に実施される大統領選挙で 、自身の後継者
   としてメドヴェージェフを指名した 。これに続き 、政権与党である
   統一ロシア・公正ロシア・農業党・市民勢力・緑の党・ロシアの愛国者などの
   諸政党も大統領選挙の候補者にメドヴェージェフを擁立することを決定した 。
   一方で指名を受けたメドヴェージェフは大統領選挙後にプーチンを首相に指名
   する意向を示した 。また12月20日にロシア中央選挙管理委員会に大統領選挙
   への立候補を申請した後 、大統領に当選した場合はガスプロムの会長職を退く
   ことを表明した 。選挙公約としては 、中小企業への支援・司法改革・汚職対策
   などを掲げた 。その後翌年3月2日に2008年ロシア連邦大統領選挙が実施され 、
   メドヴェージェフは下馬評通りに圧勝した 。勝利後メドヴェージェフは
   プーチン路線を継承すると発言した 。」

  「 大統領

   ( 中 略 )

   政治姿勢
   内政
   メドヴェージェフは実用主義者であり 、有能な行政手腕の持ち主である 。
   その経歴からシロヴィキには含まれないが 、シロヴィキの路線に同調し 、
   プーチンに対して常に忠実な支持を与えてきた 。その一方で 、
   ロシア国内外で比較的自由主義的な政治観を持った政治家と見なされており 、
   ウラジスラフ・スルコフ大統領府副長官などが提唱する「 主権民主主義 」
   にはリベラル派として「 批判を許さない民主主義は無い 」と異議を
   唱えたとも伝えられる 。また大統領就任後も 、統一ロシアの議員が
   起草したメディア規制法案の廃案を求めるなどリベラルな一面を見せている 。
   2008年12月12日のロシア連邦憲法採択15周年記念式典では 、
   メドヴェージェフが演説している最中に憲法改正に異を唱える野次が
   聴衆から投げ付けられ 、その人物を強制退場させようと駆け寄った
   警備員を「 放っておけ 。いろいろな意見があって構わない 。この憲法は
   その為に作られたのだから 」と制止したメドヴェージェフに聴衆から拍手が
   起こり 、この模様はロシアのテレビニュースで放映された 。

   しかし2008年ロシア連邦大統領選挙では 、多くの自由主義的又は政権に
   批判的な政党・候補者が立候補を阻止されたことに対しては何ら批判的な
   見解を述べておらず 、国内外にリベラル派としての知見が真実なのか
   疑念を持たせている 。また 、メドヴェージェフのこれまでの経歴が
   補佐役としての域を出ていないことから 、大統領退任後も首相に就任
   し 、政治的影響力を維持するプーチンとの二頭政治( 双頭政治 )の
   推移とともに指導力を発揮できるかが今後の焦点といわれた 。

   2009年に入って独自色の強い人事刷新に乗り出したり 、プーチン内閣
   の金融危機への対応を「 遅い 」と率直に批判するなどした 。これら
   のことにより 、「 プーチンとの関係に隙間風が吹いている 」・
   「 双頭体制に変化の兆しが現れている 」といった観測も出ている 。

   また 、2009年11月21日に開催された与党「 統一ロシア 」の党大会で 、
   党首であるプーチン首相の面前で「 選挙は民意の表明であるはずなのに 、
   民主的な手続きが行政手続きと混同されていることがある 」と
   統一ロシアを批判した 。これについて 、メドヴェージェフ・プーチン
   両者の陣営が水面下で権力争いを始めたの観測も出ている 。

   2011年に入ったあたりから 、プーチンとメドヴェージェフの関係悪化が
   盛んにロシア国内外のメディアで取り上げられるようになり 、また 、
   両者の発言の一致性に齟齬が生じている 。2011年3月のリビアへの
   多国籍軍の空爆を「 まるで十字軍を見ているようで容認できない 」と
   痛烈に批判したプーチンに対し 、メドヴェージェフは「 私の考えは首相
   とは異なる 」と発言した 。また 、獄中のロシアの豪商ミハイル・
   ホドルコフスキーの扱いについて 、プーチンが数十年でも収監されるべき
   と言う姿勢を見せているのに対し 、メドヴェージェフはホドルコフスキーは
   危険な人物ではないので釈放しても良いという姿勢を示している 。
   更に旧ソビエト連邦最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフが「 統一ロシアは
   旧ソビエト連邦共産党のできの悪いコピーだ 。プーチン首相の大統領復帰
   など論外 」とメディアで語る
と 、メドヴェージェフはその直後にゴルバチョフを
   クレムリンに招き 、最高位の国家勲章を授与し 、周囲を驚かせた 。
   5月には 、メドヴェージェフが内外の記者を集めて長時間会見を行い 、
   「『 従来の継続 』( プーチンの大統領復帰を婉曲的に表現 )では
   ロシアの近代化は進まない 。新たな発展段階に入っている 」と語り 、
   続投へ強い意欲を見せたものの 、2011年9月24日の統一ロシアの党大会
   にて2012年ロシア連邦大統領選挙候補者にプーチンを推薦した 。」

  「 私生活
   家族は妻と1男がいる 。妻のスヴェトラーナ・メドヴェージェワとは
   小学校・中学校時代の同級生であり 、後に結婚。学生時代から夫人とは
   付き合いがあり 、1982年に学校を卒業後 、数年間の交際を経て結婚した 。
   1995年には夫人との間に長男のイリヤが誕生している 。

   学生の頃からロック音楽を好み 、特にピンク・フロイド、ブラック・サバス、
   ディープ・パープル 、レッド・ツェッペリンがお気に入りのバンドである 。
   ソ連時代にロックは「 西側の退廃的な文化 」とされ 、聞くことが禁止されて
   いたが 、その時代にメドヴェージェフは友人と海賊版を交換し合っていた 。
   その後アルバムを本格的に収集し始め 、今ではディープ・パープルの
   全コレクションを所有していると語っている 。なお 2008年2月に行われた
   ガスプロム創設15周年を記念したディープ・パープルのコンサートにも
   セルゲイ・イワノフと一緒に行っている 。

   プーチンと同様にスポーツマンであり 、大学時代は重量挙げの選手で 、
   今でも朝と夕方に一時間重量挙げをしているという 。他にヨーガ・
   ジョギング・水泳などもする 。スポーツ観戦の方では 、サンクト
   ペテルブルクのサッカークラブであるゼニト・サンクトペテルブルク
   のファンであることを公言している 。

   ペットは「 ドロテウス 」という名前の猫を飼っている 。ロシアの
   大衆紙『 モスコフスキー・コムソモーレツ 』2008年3月15日号で 、
   この猫はメドヴェージェフの隣人であったミハイル・ゴルバチョフ
   の飼い猫と喧嘩をしたが負けてしまい 、その後1ヶ月 、抗生物質を
   投与される治療を受けたことがあると報じられている 。さらに2度
   とこのようなことをしないために去勢までさせられたという


   2008年7月の北海道洞爺湖サミットでは 、日本に親しむため 、緑茶
   を毎日飲んでいると報道された 。また 、ロシアの大衆紙『 コムソ
   モリスカヤ・プラウダ 』2008年4月29日号のインタビューでは 、
   健康のために寿司や刺身を食べており 、村上春樹の小説『 羊をめぐる
   冒険 』を最近読んでいると答えている 。

   アップルの携帯電話である「 iPhone 」と同じくアップルのパーソナル
   コンピュータである「 マッキントッシュ 」を愛用している 。
   2010年6月にアメリカを訪問した際にはアップルより iPhone4 を贈られ 、
   ツイッター社ではアカウントを開設してツイートを行った 。

   汚職
   現職の首相として汚職追放の旗降り役をしていたが 、アレクセイ・
   ナワルニーによって 、元同級生などが代表を務める団体を悪用して 、
   巨大な邸宅・ワイナリー・ヨットなど莫大な不正蓄財をしていること
   が明かされた 。以降はプーチン大統領へのロシア国民の支持率が
   依然として高いものの 、メドヴェージェフに対しては不支持率が
   支持率を上回るようになっている
。 」

   引用おわり 。

   プーチンとの二頭政治( 双頭政治 )、というかプーチンとの
   「タンデム体制」における No. 2 の位置は 、今も変わらず 、多分この先も 。
   ナイス・バディーが 、傷つかずで控えてるから heel になれる 、らすプーチン 。
   同じ穴の狢 ( む・じ・な ) 。蓄財するのは 、お二人とも 、どこかのゴーンさんと一緒
   でわかりやすい 。
   何が何でも「 失地回復 」が「 今ソ連 」のロシア 。
   ひたすら国益優先の 「 冷徹・非情 」な大統領を 、今は静かに支える統一ロシア党首 、
   そして なす術 ( すべ ) 持たぬ 戦時下のロシア国民 。いつか来た道 。
   死してのち已む 。

   " The secret of success is to offend the greatest number of people."

                     ( George Bernard Shaw )


   でもなあ 、後継者 ほかに いないしなあ 。

   待てば 海路の 日よりかな
















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