「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

鬼の目にも涙 その2 Long Good-bye 2022・04・30

2022-04-30 14:30:00 | Weblog



   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
 「 ローフス・ミシュ 」の経歴記事 。享年97 。

   筆者が74年生きてきて 、多分 、初めてお目にかかるお名前 、ドイツのお方 。
   有名人ではないが 、歴史の生き証人 。
   1945年4月 、独裁者とその夫人が二人してこの世を去るまでの 8年間 、独裁者の身近
  に居て 、係わり合いをもった人物 、ローフス・ミシュ あるいは ミッシュ 。
  
  引用はじめ 。

  「 ローフス・ミシュ( Rochus Misch , 1917年7月29日 - 2013年9月5日 )は 、武装親衛隊
   に所属していたドイツの元兵士 。最終階級は親衛隊曹長 ( Oberscharführer ) 。アドルフ・
   ヒトラーの側近 、文書の運搬人 、ボディガード 、および電話交換手 。1945年4月30日
   のヒトラー自殺の際にベルリンの総統地下壕にいた人物のうち 、最後の生存者だった 。
   姓はミッシュとも表記 。身長 182 cm 。

   経 歴

   オーバーシュレージエン( ドイツ語版 )地方のオペルン近郊のアルト=シャルコヴィ
   ッツ( ドイツ語版 )( 現ポーランド領 )に生まれる 。父親は第一次世界大戦に出征
   し 、ミシュが生まれる直前に戦傷により死亡した 。2歳の時に母親も死去して孤児と
   なり 、祖父母や叔母に育てられる 。はじめペンキ職人となるが 、1937年に武装親衛
   隊に志願して入隊 。武装親衛隊に志願したものの 、ミシュ自身はヒトラーの我が闘
   争を読んだことはおろか 、買ったことすらもなく 、ヒトラーユーゲントにも加入し
   たことがなかった 。武装親衛隊入隊後 、ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・
   ヒトラー ( LSSAH ) に配属される 。

   ドイツ軍のポーランド侵攻に参加し 、モドリンの戦い( 英語版 )で降伏勧告の特使
   として派遣された際に胸部貫通銃創の重傷を負う 。ミシュの実戦経験は一発の銃弾
   を撃つこともなくここで終わる 。回復した後 、上官である中隊長ヴィルヘルム・
   モーンケは彼を礼儀正しく忠実な兵士と見込んで 、ベルリンの総統官邸に勤務する
   総統警護隊に欠員が1人出たことも相まって 、補充の兵士として推薦した 。そこで
   ヒトラーの側近となる 。その最初の任務は 、ウィーンにいるヒトラーの妹パウラに
   手紙を届けることだった 。以後は司令部 、別荘 、官邸など 、ヒトラーの行く先々
   に常に随行した 。ミシュはヒトラーから唯一地下壕での武器の携帯を許されていた 。

   彼は総統地下壕に最後まで常駐した数少ない人物で 、ヒトラーの護衛兼電話交換手
   という同所での仕事柄 、真っ先に全ての文書に目を通すことができた数少ない人物
   であった 。ベルリン市街戦の最中の1945年4月30日にヒトラーと夫人のエーファ・
   ブラウンが自殺すると 、その遺言によりゲッベルスが首相となった 。彼はゲッベ
   ルスやその夫人マクダ夫妻の6人の子供たちとも親しく 、マクダ夫人が子供たちを
   殺害した前後の様子も目撃している 。

   5月1日 、絶望して自決を決めたゲッベルスはミシュに総統地下壕を去るように命
   じた 。彼はすでに数日前から脱出に備えて必要な物資をリュックサックに詰めて
   いた 。同日 、ミシュは地下壕の機械設備工のヨハネス・ヘンチェル( 英語版 )
   とお互いに妻宛ての手紙を交換してから 、地下壕を脱出した 。ミシュ本人が戦後
   知るところによれば 、ミシュが脱出した5分後にゲッベルス夫婦は自殺したという 。

   ミシュは逃走中にハインツ・リンゲらがいるグループと落ち合い 、地下鉄を通っ
   て逃げ延びようとしたが 、地上を偵察したミシュの先遣部隊が味方のドイツ兵を
   見つける 。無事ソ連軍の包囲を逃げ切ったと思い 、地上に出たミシュ達だったが 、
   地上にいたドイツ兵達は捕虜となっていた兵士達で 、ミシュ達も敢えなく捕虜と
   なった 。

   捕虜となったミシュはヒトラーのパイロットであったヨハン・バウアと出会う 。
   ヨハン・バウアは片足を失っており 、包帯を絶えず交換する必要があり 、ミシ
   ュはヨハン・バウアの介護のため 、彼と行動を共にすることになる 。その後は 、
   各地の収容所を転々とする 。ヒトラーに親しく接していたことで赤軍によって
   ルビャンカ刑務所に収容され 、取り調べを受けた 。ヒトラーの自殺を信じてい
   なかったスターリンは捕虜となっていたミシュやオットー・ギュンシェ( ヒト
   ラーの副官 )、ヨハン・バウアに『 真相 』を話すよう強要した 。9年後によ
   うやくミシュは釈放され 、ドイツにいる妻のゲルダ と娘のもとに戻った 。
   その後は内装業を営み 、1980年代中頃に引退した 。

   1970年代からドキュメンタリー映画に登場するようになり 、特に1990年代以降 、
   ヒトラーや第二次世界大戦に関する番組によく登場していた 。2006年にも『 最
   後の証人‐ロフス・ミシュ 』と題するテレビ・ドキュメンタリー番組に出演した 。
   同年 、1940年から45年に関する回顧録をフランスで出版 、世界各国語に訳され
   ており 、ドイツや日本でも出版されている 。

   ミシュは戦後もヒトラーやナチ党に対する一定の親近感を隠さず 、ヒトラーに
   関しては『 優しく情け深い上司だった 』と弁明を行っていた 。2004年に公開
   された映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』については 、( 存命にもかかわら
   ず )映画のスタッフや原作者( ヨアヒム・フェスト )は自分のところに来な
   かったことに不満を述べ 、作中にあった乱痴気騒ぎなどは無かったことを主張
   し 、映画の出来についても酷評している 。2005年のインタビューでも 、ナチ
   スが引き起こした戦争犯罪の数々について懐疑論を主張し 、ネオナチについて
   は『 ネオナチなどというものはない 。国を憂う愛国者たちだよ 』と擁護して
   いた 。また 、『 毒殺されたゲッベルスの子供たちも戦争犠牲者である 』とし
   て 、彼らの追悼施設を造るべきだと主張 。このためホロコーストの犠牲者遺族
   やユダヤ人団体などから糾弾されてきた 。

   娘のブリギッタによると 、妻ゲルダはユダヤ人の血を引いていたが 、彼女は
   それについて言及せず 、またミシュもそれを知ることを拒んでいたという 。
   ミシュは娘とは不和で 、ミシュの孫はフランクフルトのユダヤ人学校で教育
   を受けていた 。

   2013年9月5日にベルリンで死去した 。96歳没 。 」

   引用おわり 。



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鬼の目にも涙 Long Good-bye 2022・04・30

2022-04-30 04:30:00 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
 「 エヴァ・ブラウン こと エヴァ・ヒットラー 」の経歴記事 。享年34 。
  
  引用はじめ 。

  「 エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウンEva Anna Paula Braun 、1912年2月6日 - 1945年4月30日 )は 、
   ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーの妻だった女性 。1945年4月29日に結婚し正式な妻となったが 、
   その翌日ヒトラーと共に地下壕にて自殺した 。13年間恋人であったがその関係は公開されなかった 。

    なお、ドイツ語の発音にもっとも近いカタカナ表記は、エーファ・アナ・パオラ・ブラオン

   生 涯

   ヒトラーに出会うまで
   エヴァ・ブラウンは父フリードリヒ・オットー・ヴィルヘルム・ブラウン( Friedrich Otto
   Wilhelm Braun , 通称フリッツ・ブラウン )と母フランツィスカ( Franziska )の次女として 、
   1912年2月6日にミュンヘンに生まれる 。

   両親はバイエルン出身で 、父は教員 、家族には3歳年上の姉 イルゼ・ブラウン( 英語版 、
   ドイツ語版 )、3歳年下の妹 グレートル・ブラウン( 英語版 、ドイツ語版 )
  ( マルガレーテ: Margarete )がいる 。

   エヴァは16歳の時 、修道院運営の職業訓練校に1年間通うが 、体操以外では平凡な成績
   であった 。卒業後 、診療所の事務員として数ヶ月勤務した後 、ナチ党党首アドルフ・ヒト
   ラーの専属カメラマン 、ハインリヒ・ホフマンのモデル兼助手として雇われる


   ヒトラーとの出会い
    1929年10月のある日、17歳のエヴァは23歳年上のヒトラーにホフマンのスタジオで
   出会う 。エヴァはこの時のヒトラーの印象を『 おかしな口ひげを蓄えた中年紳士で 、
   イギリス製の明るい色のコートと大きなフェルト帽を身に着けていた 』と友人に語って
   いる 。ヒトラーの方は 、エヴァの目の色がヒトラーの母クララにとてもよく似ていると
   評している 。

    出会ったその日からヒトラーはエヴァに惹かれ 、エヴァは自分の脚をじっと見るヒトラ
   ーの視線に気づいている 。その日 、ヒトラーはホフマンとエヴァとともに簡単な夕食を
   とったが 、その食事中にもエヴァを見つめ続けていたという 。その後 、ヒトラーは彼女
   をドライブに誘うが拒絶されている 。

   エヴァはヒトラーのことを知らず 、ホフマンに聞いて初めてヒトラーが政治家と知った 。
   エヴァが父にヒトラーについて聞くと 、父はヒトラーをよく思っていないことを告げた
   が 、エヴァはかえってヒトラーに興味を抱くようになる 。

   しかしその後 、何度もヒトラーはエヴァを誘っており 、いつしか二人は交際するように
   なった 。この頃 、エヴァは写真店の店員仲間に『 ヒトラーと婚約している 』と見栄か
   ら来た嘘をついており 、ホフマンに叱責されている 。

    エヴァとヒトラーの近親者たちはいずれもこの2人の接近に大反対であった 。中でも
   エヴァの父フリッツとヒトラーの異母姉 アンゲラ・ヒトラー( 英語版 )は 、この交際
   を認めなかった 。

   嫉妬と2度の自殺未遂
    夫に先立たれたアンゲラ・ヒトラー( アドルフ・ヒトラーの異母姉 )は 、1928年から
   バイエルン・アルプスの美しい町 ベルヒテスガーデン の近郊の山腹オーバーザルツ
   ベルクにある山荘 ベルクホーフ に居住し 、ヒトラーの身の回りの世話をしていた 。
   同居していた彼女の娘 ゲリ は叔父 ヒトラー から大変可愛がられていたが 、次第に
   それは束縛に変わっていった 。

   1931年9月 、ヒトラーとの口論の後 、ゲリは拳銃自殺を遂げた 。この直前 、ゲリは
   エヴァからヒトラーに宛てた手紙を読んで破いていたことを家政婦は証言している 。
   エヴァはゲリの存在を知らされていなかった 。

    ヒトラーはゲリの死にショックを受け憔悴するが 、結局は19歳のエヴァがゲリの
   代わりにヒトラーの傍で暮らすことになる 。エヴァの日記によるとその時期は1932
   年の春頃とされる 。しかしヒトラーには他にも交際が噂される女性がおり 、女優の
   レナーテ・ミュラー( ドイツ語版 )( 1907年 - 1937年 )への嫉妬はエヴァを苦し
   めた 。エヴァはヒトラーに対して深い愛情を抱いており 、あまり男性としての自信
   が無かったヒトラーに『 性的満足も得たいのなら 、他の男と付き合いなさい 』と
   忠告されても離れることは無かった 。

   1932年11月1日 、エヴァは自らの胸を拳銃で撃ち 、自殺を図った 。しかし 、弾は
   それて頸動脈付近にとどまり 、自殺は未遂に終わった 。ヒトラーはこの自殺未遂に
   ショックを受け 、以降は他の女性との交際を控えていった 。ヒトラーは『 自分は
   ドイツと結婚した 』と主張し続けていたため 、“ 妻 ”エヴァの存在は山荘の側近だけ
   が知るものであった 。

    ヒトラーは1933年の首相就任や1934年の総統就任などで多忙な日々を送るようにな
   り 、エヴァのもとを訪れる回数も減少した 。エヴァはヒトラーの愛情に疑問を抱き 、
   1935年5月28日 、睡眠薬の服用による2度目の自殺を図る 。エヴァが飲んだ睡眠薬
   は危険性が低いものであり 、命に別状はなかった 。この時 、エヴァの姉イルゼは
   自殺が狂言と見られることを恐れ 、エヴァの日記を破り取っている 。また 、9月に
   は父親のフリッツがヒトラーに『 娘を家族の元に帰してくれるように 』という趣旨
   の手紙を書いた 。この手紙はフリッツに託されたホフマンを通じてエヴァに渡り 、
   彼女は手紙を破り捨てた 。また 、母のフランツィスカも直接ヒトラーに同じ趣旨
   の手紙を書いたが 、この返事もなかった 。

   回復後 、ヒトラーはエヴァに対しミュンヘン郊外に邸宅 、メルセデス・ベンツの
   専用車 、運転手 、メイドを与えるが 、エヴァはすぐにベルクホーフ山荘に戻って
   しまう 。ヒトラーの首相就任後もヒトラーの異母姉アンゲラとナチス閣僚の妻たち
   はエヴァの存在を依然として認めようとしなかった 。しかし 、アンゲラは再婚を
   きっかけにエヴァの近くに住むことを禁じられ 、ドレスデンへ移住した 。

   ベルクホーフ山荘での生活
    ヒトラーは『 独身であることで婦人票が得られる 』と考えていたため 、第二次
   世界大戦が終わり 、自らが死ぬまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはな
   かった 。また 、オーバーザルツベルクはナチス専用の保養地と位置づけられ 、
   外交や政治の舞台となったが 、エヴァの存在が表に出ることはなかった 。

   もっとも 、エヴァは政治にもヒトラーの思想にも無関心であり 、生涯ナチ党員に
   なることはなく 、興味があったのは流行のファッション 、音楽 、映画だった 。
   ヒトラーが山荘にいるときは外に出られず 、友人や両親 、親類を招いて夕食を共
   にすることが多かった 。

    軍需相アルベルト・シュペーアの回顧録による と、2人はベルクホーフ山荘 、
   ベルリンの総統官邸や地下壕でも寝室は別々であり 、もし閣僚などが政治の話を
   するために部屋に入ってくると 、すぐさまエヴァは部屋を出て行った 。ヒトラー
   はエヴァに対して時に侮蔑した態度を取ることもあり 、彼女に喫煙や自分以外の
   男性とのダンスを禁じており 、エヴァはそうした束縛に不満を募らせ 、しばしば
   口論していた 。

    大戦中 、エヴァは恋愛小説の読書や友人たちとの映画鑑賞など遊興に時間を費
   やすほか 、写真にも関心があり 、裸で日光浴をする写真など 、自らを被写体と
   した写真が多数残っている 。自分の暗室も持っており 、ヒトラーのスチール写真
   や映画を現像することもあった 。

    また 、1940年から総統護衛部隊の隊員としてヒトラーに仕えたローフス・ミシュ
   の回顧録によると 、カトリック教徒だったエヴァは 、ベルヒテスガーデンのカト
   リック教会に通うこともあったという 。

    1944年6月 、妹のグレーテルが親衛隊の将校ヘルマン・フェーゲラインと結婚す
   る折 、ヒトラーはエヴァが人前に出ることを許可する 。結婚パーティーはオー
   バーザルツベルクのもう一つの山荘ケールシュタインハウス( 通称 鷲の巣 )で
   行われた


    山荘での生活中 、ヒトラーは国家元帥ヘルマン・ゲーリングに対して 、『 エヴァ
   は私にとって生涯の女性だ 。戦争が終わったら引退してリンツの町へ行き 、彼女
   を妻にする
』と発言している 。

   ヒトラーとの結婚と心中
  『 総統地下壕 』、『 アドルフ・ヒトラーの死 』、および『 アドルフ・ヒトラーの
   遺書( 英語版 、ドイツ語版 )』も参照
    1945年3月 、エヴァはヒトラーの反対を押し切ってベルクホーフを後にしてミュン
   ヘンへ移り 、4月初旬 、既に戦火に曝され 、荒廃した首都ベルリンへ入るが 、4月
   中旬には総統地下壕へと避難せざるを得なくなる 。両親や姉妹が再三ベルリンを離
   れるよう説いても 、エヴァは最後までヒトラーと共にいることを選んだ 。

   ソ連内務人民委員部によるヒトラー側近の調書によれば 、エヴァは『 奇跡が起こら
   なければ 、死が最後の逃げ道になるでしょう 。そのときには法的な妻としてあの方と
   一緒に死ぬことを 、わたしは心から望んでいます 。』と発言したという 。

   総統誕生日の4月20日 、赤軍がベルリンに侵攻 。ヒトラーとエヴァは 4月29日未明
   に総統官邸地下壕内で簡素な手続きによって結婚した 。この結婚式ではヨーゼフ・
   ゲッベルス夫妻とマルティン・ボルマンが立会人をつとめた 。式にあたり 、エヴァ
   は青色のシルクドレスを着けていたとされる 。彼女は結婚証明書の署名欄に『 Eva
   B… 」と書きかけたが 、すぐに気がついて線を引いて訂正 、「 Eva Hitler 」と書き
   直した 。

   ヒトラー自身はエヴァを『 フロイライン・ブラウン( ブラウン嬢 )』と呼んでいた 。
   式の後 、地下壕の者たちが『 フロイライン 』と呼びかけたところ 、エヴァは誇らし
   げに『 もう 、フラウ・ヒトラー( ヒトラー夫人 )と呼んでくれていいのよ 』と言
   ったという 。

   翌30日午後3時30分頃 、エヴァは青酸カリのカプセルを嚥下して服毒自殺 、ヒトラー
   は銃弾の貫通痕から 、青酸カリのカプセルを噛んだ直後 、顎の下から拳銃で頭を撃ち
   抜いて死んだと推察されている 。2人の遺体は総統官邸の庭園で 、ガソリンをかけた
   上で焼却された 。

   遺体の行方
   赤軍が発見した男女の遺体は 、ヒトラーを診察した歯科医フーゴー・ブラシュケ( ド
   イツ語版 )の助手によって鑑定され 、ヒトラーとエヴァのものであると確認された 。

   その後 、ヒトラー夫妻の遺体はゲッベルスや妻のマクダ、ゲッベルスの子供たち 、
   クレープス参謀総長とブルクドルフ陸軍人事局長( ドイツ語版 )、ヒトラーの愛犬
   ブロンディの遺体とともにスメルシの指揮で頻繁に埋葬地を変更され 、最終的には
   1946年2月21日にマクデブルクのクラウスナー通り沿いのスメルシュ施設の前中庭
   の舗装区域の下の目印のない墓に埋葬された 。この場所は厳重に秘匿された 。

   しかし 、遺体の埋葬地は1970年にKGBのコントロール下 、東ドイツ政府に移譲さ
   れることになった 。ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れたKGB
   議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた 。KGBの発掘
   チーム『 アルヒーフ 』は詳細な埋葬場所を指示され 、1970年4月4日 、秘かに10
   体の遺骸を掘り出して完全に焼却し 、灰をエルベ川の支流に散骨した 。

   エヴァの一族
   エヴァの父フリッツは戦争を生き延びた後 、病院で職に就き 、1964年に死去した 。
   母のフランツィスカはバイエルンの農村で生涯を過ごした後 、1976年に96歳で死去 。

   姉イルゼはナチズムに懐疑的だったため 、エヴァのいる山荘を訪れることは稀で 、
   妹の生活を非難することもあった 。1979年に71歳で死去した 。

   妹グレーテルは 、夫フェーゲラインの子を身ごもったが 、夫は敗戦が決定的になると
   別の女性を伴ってスウェーデンへの逃亡を企てたとして捕らえられ 、ヒトラーの命に
   よって銃殺された 。グレーテルは当時妊娠8ヶ月で 、姉の死の5日後に生まれた女児に
   姉の名を取り 、エヴァ・バーバラと名づけたが 、1975年に自殺し た。その後1954年
   に織物商のクルト・ベルリングホフ( Kurt Berlinghoff )と再婚、1987年に72歳で死去
   した 。 」





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