今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん
( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公
文庫 )の中から「 薬喰 」と題した小文 の一節 。
引用はじめ 。
「 私の家は造り酒屋だつたので 、酒倉が穢れる
と云つて 、子供の時は牛肉を食はして貰えな
かつた 。四脚の食べ物は 、一切家に入れなか
つたのである 。だから本当の味は知らないけ
れども 、大変うまいものだと云ふ話は 、学校
の友達などからも度度聞いて居り 、又たまに
夕方など 、人の家の前を通り過ぎる拍子に 、
何とも云はれないうまさうな 、温かい匂が風
に乗つて流れて来ると 、ひとりでに鼻の穴の
内側が一ぱいに拡がる様な気持がした 。
田舎の町外れに 、叔母さんの家があつて 、
古風な藁屋根で 、入口には障子戸が嵌まつて
ゐた 。私があんまり丈夫でないから 、薬喰
に牛肉を食べさせようと云ふ内緒話が 、そこ
の叔母さんと私の母との間にあつたらしく 、
ある日の夕方 、私は母と一緒に 、俥に乗つ
て叔母さんの家に出かけた 。
家に帰つたら 、決してだれにも云つてはな
らぬと云ふ事を 、よくよく云ひ含められた上
で 、茶の間の畳の上にうすべりを敷いたとこ
ろに坐ると 、叔母さんが 、竹の皮包みの中
から 、白い脂の切れを取り出して 、焼けた
鍋の上を 、しやあ 、しやあと引いた 。薄青
く立ち騰る煙の匂を嗅いだだけでも 、もう堪
らない程うまさうに思はれた 。
牛肉をどのくらゐ食つたのか覚えてゐないけ
れど 、後で口の臭味を消すためだと云つて 、
蜜柑を幾つも食べさせられ 、なほその上に 、
お酒を口に含んで 、がらがらと嗽ひをした後
で 、叔母さんの鼻先に口の息を吹きかけて見
て 、大丈夫もうにほはないと云ふことになつ
て 、それから寒い夜道を俥に乗って 、家に
帰つて来た 。みんなが顔を見る様な気がして 、
落ちつかなかつたけれど 、その時初めて覚え
た不思議な味は 、寝床に這入つた後までも 、
秘かに思ひ出して見て 、何とも云はれない 、
いい気持がした 。」
「 何年かたつ内に 、私の家は貧乏して 、三代
つづいた酒屋を止めたから 、その後は 、大つ
ぴらで牛肉が食へる様になつた 。それからこ
の方三十年 、機会ある毎に貪り食つても 、ま
だ食ひ足りないのである 。 」
引用おわり 。
上記が 、団塊世代の親の世代の人 、即ち 明治 、大正 、
昭和を生きて来た人が 、書かれた文章であると考えますと 、
日本人一般の 肉食の歴史は 、随分と浅いような 気がしますね 。
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註:「 1889年(明治22年)5月29日 、岡山市(現在の
中区)古京町一丁目百四十五番地に 、父:久吉 、
母:峯の一人息子として誕生 。実家は裕福な造
り酒屋『 志保屋 』で 、先代の祖父の名から
『 榮造󠄁 』と命名される 。岡山市立環翠小学校
(現在の岡山市立旭東小学校)、岡山高等小学校
(現:岡山市立岡山中央小学校)を経て 、岡山
県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等
学校)入学 。
1905年(明治38年)、父・久吉死去 。実家の
志保屋が倒産し 経済的に困窮する 。『 吾輩は
猫である』を読み 、夏目漱石に傾倒する 。
1906年(明治39年)、博文館発行の文芸雑誌
『 文章世界 』に小品を投稿し 、『 乞食 』が
優等入選する 。
1907年(明治40年)、岡山中学校を卒業し 、第
六高等学校(現在の岡山大学)に入学 。1908年
(明治41年) - 担任の国語教師・志田素琴の影
響で俳句を始め 、句会を開く 。俳号は地元の
百間川にちなんで『 百間 』とする 。
東京帝国大学時代
1910年(明治43年)、第六高等学校卒業 。上京
し 、東京帝国大学文科大学入学(文学科独逸文学
専攻)。1911年(明治44年)、療養中の夏目漱石
を見舞い 、門弟となる 。小宮豊隆 、鈴木三重吉 、
森田草平 、野上豊一郎らと知り合う 。
1912年(大正元年)、中学時代の親友であった
堀野寛の妹 、堀野清子と結婚 。1913年(大正2年)、
夏目漱石著作本の校正に従事 。長男久吉生まれる 。
作家として
1914年(大正3年)、東京帝国大学独文科を卒業 。
漱石山房では 芥川龍之介や久米正雄を識る 。長女
多美野生まれる 。1916年(大正5年) - 陸軍士官
学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。
( 後 略 )」
以上ウィキ情報 。
随筆の中で 、実家について百閒さんは こんな風に書いて
いらっしゃいます 。
「 父の代に家が貧乏したのは 、父が酒飲みで
あったから 、お酒の為にしくじつたのである
と 、母や祖母から聞かされてゐたけれども 、
当時の父よりも年を取つた今の自分の判断で
考へて見ると 、父の酒のために家が傾いたと
は思はれない 。寧ろさう云ふ風になつた家運
の挽回成らずして 、そのために父が酒を過ご
すことも多かつたのではないかと思はれる 。
しかし私がまた酒飲みになつて 、父の轍を
踏む様な事があつてはならぬと云ふ心遣ひか
ら 、祖母は私に 、一人前になるまでは決し
て酒を飲むなと戒めた 。それだから私は学
校を出るまで 、麦酒の味は知つてゐたけれ
ども酒は余り飲まなかつた 。
卒業してから暫らくすると 、陸軍教授を拝
命したので 、私は曲りなりにも 、一人前に
なつた様である 。」 )