今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん
( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公
文庫 )の中から「 菊世界 」と題した小文 の一節 。
「 菊世界 」は 、幼時から喫煙に親しんだという
内田百閒 さんの 七十年の 喫煙歴 を 縷々書き連ね
た 、今の感覚では 不適切にも程がある「 煙草飲
み 」の話し 。
以下に引用するのは 、その文章の合間に 挟みこま
れた 百閒さんの 「 蕎麦食い 」の話し 。
ギャンブル依存症じゃありませんが 、何かに「 は
まる 」と なかなか抜け出せない のは 、人間の 哀し
い 性 ( さが ) 。
でも 、ひとの嗜好というものは 、もともと そういう
ものですよね 、他人の理解のそと 。
「 菊世界 」というのは 、戦前の日本にあった 紙
巻きたばこ の銘柄名らしいです 。知らんけど 。
引用はじめ 。
「 今年の正月に 、法政大学の騒動で 、学校の
先生を止めて以来 、家に篭居して 、身体を
動かす事が少いので 、午飯を廃して 、蕎麦 廃してないじゃあーりませんか 。
の盛りを一つ半食ふ事にきめた 。蕎麦屋は
近所の中村屋で 、別にうまいも 、まづいも
ない 、ただ普通の盛りである 。続けて食つ
てゐる内に 、段段味がきまり 、盛りを盛る
釜前の手もきまつてゐる為に 、箸に縺れる
事もなく 、日がたつに従つて 、益うまくな
る様であつた 。うまいから 、うまいのでは
なく 、うまい 、まづいは別として 、うま
いのである 。爾来二百余日 、私は毎日きま
つた時刻に 、きまつた蕎麦を食ふのが楽し
みで 、おひる前になると 、いらいらする 。
朝の内に外出した時など 、午に迫つて用事
がすむと 、家で蕎麦がのびるのが心配だか
ら 、大急ぎで自動車に乗つて帰る 。たかが
盛りの一杯やニ杯の為に 、何もそんな事を
しなくても 、ここいらには 、名代の砂場
があるとか 、つい向うの通に麻布の更科の
支店があるではないかなどと云はれても 、
そんなうまい蕎麦は 、ふだんの盛りと味の
違ふ点で 、まづい 。八銭の蕎麦の為に五
十銭の車代を払つて 、あわてて帰る事を私
は悔いない 。
私は鶯や 、柄長や 、目白などを飼つてゐ
るので 、時時 、小鳥達は 、毎日ちつとも
変らない味の摺餌をあてがはれて 、さぞつ
まらない事だらうと同情してゐたが 、お午
の蕎麦以来 、味の決まつた摺餌は 、つま
らないどころでなく 、大変うまいに違ひな
いと想像した 。小鳥達が 、さもさもうま
さうに食ふ有様を思ひ浮かべながら 、自分
の蕎麦を啜る事もある 。 」
引用おわり 。
午飯を食べなくなって 久しい 。人間は習慣の動物
だと しみじみ思う 。腹はすくけど 左程 痛痒は感じ
ないし 、残念とも思わない 。瘦せても来ないし 、
身体には いいような気もしている 。
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註 :随筆「 菊世界 」の中には 、こんな文章も
あります 。
「 煙草が専売になる前に 、一番長く 、沢山
吸ったのは菊世界である 。私は菊世界の煙
の尾に 、憂悶と憧憬の少年時代を託した 。 何言ってんだか 、煙草飲みの戯言 。
その懐しさは今でも忘れられない 。専売局
になつてからも 、暫らくは 、煙草屋の店
頭に菊世界があつた 。いよいよもう手に入
らなくなつた時 、新らしく売り出した専売
局の口附の中で 、どれが一番菊世界に似て
ゐるかと思つて 、吸ひ比べた結果 、私は
大和にきめた 。敷島八銭 、大和七銭 、朝
日六銭 、山桜五銭であつた 。それから現在
の敷島十八銭になるまでに 、幾段階の値上
げを経てゐる 。品目の中では 、山桜が最
初に姿を消し 、大和は近年まであつたけれ
ど 、到頭なくなつた 。大和の次ぎに 、敷
島を吸つた 。尤もそれは大和がなくなつて
からの事ではなく 、敷島が非常にうまかつ
たからである 。」
この随筆の巻末に 、百閒先生の旅のお供をさ
れた ヒマラヤ山系君 こと 平山三郎さん が書
かれた「 解説 」があり 、その解説文の中に
百閒先生について こんな記述があります 。
「 百閒先生はけっして食通とか美食家と
いうのではなく 、おいしい酒肴をとと
のえてお膳を賑やかにするのが好きで 、
お膳の上のお行儀もやかましいことを
云ったが 、それもお酒をおいしく飲む
順序であるらしく 、盃を重ねるにした
がって普段の気むずかしさはなくなった 。
ひとを呼んで御馳走することに篤く心を
使うひとだった 。
―― 戦後すぐの掘立小屋の時分は 、
シャアシャアというのが何よりの御馳
走だった 。平山君 、今日はシャアシ
ャアを持って供するからね 、と嬉しそ
うな顔で予告された 。フライパンにバ
ターを引いて鶏肉をいれるとシャアシ
ャアと芳しい音がする 。それがその時
分の御馳走だった 。」
「 気に入った酒肴があるとそれに凝って
しまう 。サヨリのそぎ身が旨いとなる
と 、毎日食膳にならんでいないと気に
入らない 。お刺身も白身だけではなく
紅白そろったのをよろこぶ 。ワカメは
富山の灰ツキがいいとなると 、時季に
なるとその入手に苦労する 。阿房列車
では 、米原の鱒ずしが気に入って 、
東海道の帰り途には十箇も二十箇もお
土産に買いこんだ 。荷物になって 、
重いので 、閉口した 。自分ではけっ 立派なパワハラ 。
して荷物を持ちたがらないのである 。
晩年 、鰻にコッて 、一ヶ月のうち
二十八日とか毎日註文した時期がある 。
その時期に 、先生のうちのお膳に坐
って 、つづけざまに三回ほど御馳走
になったことがある 。
その日その日のお膳の御馳走品目は
克明にメモに誌してあった 。卓上に
ならんだその一つ一つを点呼するよう
に確認し 、私にも読んで聞かせ 、納
得してから盃をとり上げる 。色とり
どりのその御馳走を目の前にして 、
不図 、焼け出されて掘立小屋に居た
ころの 、フライパンで煙りをあげて
芳しい匂いのしたシャアシャアを思
い出したりした 。
( 昭和五十三年十一月 ) 」
随筆の本文「 煙歴七十年 」の中にも 、百閒先生
ご自身のこんな記述があります 。
「 私は幼稚園に上がる前から煙草を吸つてゐる 。
明治の法律で未成年禁煙令が出たのは何年で
あつたか 、よく知らないが 、私はまだ小学
校に通つてゐた時で 、すでに私は相当の煙歴
を積んでゐた 。 」
「 爾後今日に及んで 、私の煙歴はすでに七十年
に垂 (なんなん) とする 。随分長い年月 、口
から煙を吐き続けたが 、その間に病気で煙草
が吸へなかつた時を除いて 、自分から煙草を
やめようと思つた事は一度もない 。つまり禁
煙を思ひ立つた記憶はない 。 」
《 内田百閒著 「 御馳走帖 」中央公論新社 刊 所収 》
( ´_ゝ`)
( ついでのついでながらの
筆者註:百閒先生は 、明治22年 ( 1889年 ) の
お生まれ 。
「 未成年者喫煙禁止法 」 が定められたのは 、
1900年 ( 明治33年 ) のことだそう 。
この「 二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル
法律 ( 明治三十三年三月七日法律第三十三号 ) 」
の全文を以下に引用します 。「 朕 ( ちん ) 」
とは 、明治天皇 のご自称 ですが 、話し言葉で
あるだけでなく 、公文上にも そう書くのだと
初めて知りました 。
大日本帝国だった時代の法律 ではありますが 、
微修正されて 、今も適用されているようです 。
「 朕󠄁帝國議會ノ協贊ヲ經タル未成年者喫󠄁煙禁止法ヲ
裁可シ玆ニ之ヲ公󠄁布セシム 立憲君主国の法律なのだ 。
御名御璽 ( ぎょめいぎょじ )
明治三十三年三月六日
內閣總理大臣 侯爵󠄂 山縣有朋󠄁
內務大臣 侯爵󠄂 西鄕從道󠄁
法律第三十三號
二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律
第一條
二十歳未満ノ者ハ煙󠄁草ヲ喫󠄁スルコトヲ得ス
第二條
前󠄁條ニ違󠄂反シタル者アルトキハ行政ノ處分󠄁
ヲ以テ喫󠄁煙󠄁ノ爲ニ所󠄁持スル煙󠄁草及器具󠄁ヲ沒
收ス
第三條
未成年者ニ對シテ親權ヲ行フ者情󠄁ヲ知リテ
其ノ喫󠄁煙󠄁ヲ制止セサルトキハ科料ニ處ス
親權ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル
者亦前󠄁項ニ依リテ處斷ス
第四条
煙草又ハ器具ヲ販売スル者ハ二十歳未満ノ
者ノ喫煙ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ
他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
第五条
二十歳未満ノ者ニ其ノ自用ニ供スルモノナ
ルコトヲ知リテ煙󠄁草又ハ器具󠄁ヲ販賣シタル
者ハ五十万円以下ノ罰金ニ處ス
第六条
法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使
用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業
務ニ関シ前条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ
行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ
同条ノ刑ヲ科ス
附則
本法ハ明治三十三年四月一日ヨリ之ヲ施行ス 」
とても おもしろいですね 。
以上ウィキ情報ほか 。)