今日の「お気に入り」。
「 ・・・・・・
それから、年配の女が言った。「犬は? この辺の年寄りはみんな、あの雌犬の話をよくしてたよ。私も、おじいさん
おばあさんが先代の年寄りたちから聞いた犬の話っていうのを聞かされたの、覚えてるよ。アメリカに行くとき、その
犬が海に飛びこんで、舟を追って泳いでいったって。こっちに残った人たちは、崖の上の一番高い丘に登って、手を振
って見送ってたんだけど、海の上にⅤの字を描いて進む犬の頭が見えたって。離れてゆく舟を追って、泳いで、泳いで、
しばらくしたら、犬の頭が小さい点くらいになってしまってさ。キャラム・ルーアが犬を追い返そうとして怒鳴ってい
る声も聞こえたって。その声が静かな海を渡ってきて、『帰れ、帰れ、バカ、うちへ戻れ、帰れ、帰れ、溺れ死んでし
まうぞ』って叫ぶのが聞こえたそうだよ。
そのとき、キャラム・ルーアは気がついたんだろうね。犬は絶対帰らないって。この犬はアメリカまでだって泳いで
渡ろうとするだろう、渡ろうとがんばって死んでしまうだろうってね。そうしたら、帽子やら明るい色の衣類やらを振
りながら、崖の上の丘に立って見送っていた人たちの耳に、キャラム・ルーアの声が変わったのがわかったって。感極
まって声が割れているんだけど、『がんばれ、がんばって、ここまで来い、おまえならやれる。こっちだ! こっちだ!
あきらめるな! できるぞ! がんばれ! ほら、待ってるから』って叫んでるのが聞こえたんだって。
そして、崖の上にいた人たちの話だと、そういうふうに励まされて、犬の頭が波の上から持ちあがった。まるで希望
が与えられたというみたいにね。そして犬はもっと懸命になって、それにつれてⅤの字が速くなって、横に広がってい
ったって。舟から身をのりだしていたキャラム・ルーアが、船べりを叩いて励まして、手を伸ばして、ついに犬を水か
ら引きあげた。この村の人たちが、その家族のことを思い浮かべる最後のシーンがそれなんだよ。そのあと、船そのも
のが遠ざかって、大きな海の小さい点、その前に見た犬の頭より小さい点になるまで、ただ崖の上から手を振ってるだ
けだったって」
・・・・・・ 」
( アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」新潮社刊 所収 )