今日の「お気に入り」。
「 私は父の五十歳のときの子である。父には初めての子供であった。まさかその歳で父親になるとは
思っていなかったので、一人息子を溺愛して育てた。だから、越前海岸へ私をともなったとき、父は
すでに六十歳になっていたことになる。私と父は、いつも他人の目には、祖父と孫として映っていた
ようである。人に『お孫さんですか』と問われると、父はよく笑いながら『ええ、そうです』と答え
た。なぜ否定しないのか不思議に思い、私はしばしば、そういう場面になるとムキになって『違うで
え、僕らは親子やでえ、なあ、お父ちゃん、親子やなあ』と言って、質問の主をポカンとさせたもの
だった。
私の生まれたころが、父の人生にとって最も充実した時代であった。私が成長するにつれ、事業も
健康状態も、なしくずしに落ち込んで行き、小学校にあがるようになると、幾つかの事業が傾いて、
しばらく大阪を離れなくてはならない事態に追い込まれたのである。私たち一家は、昭和三十二年に、
北陸富山へ移った。新しい事業を、友人と一緒におこそうとして、父はすべてを売り払い、新天地を
求めたのであった。しかし、事業は軌道に乗らなかった。まい日まい日、手形に追われ、金策に走り廻
っていた。私と一緒に、越前海岸に行ったのは、北陸での生活の中でも、とりわけ苦しいころであっ
たかと思われる。いったいなぜ、幼い私をつれて、そんなところへ行ったのか、父の死んだ今となっ
ては訊いてみる術もない。私がおぼえているのは、石川県の大聖寺という駅で降りたということと、
長いあいだ、きりたった海岸べりにたたずんでいたということだけである。 」
「 越前の荒れる海を見た人は、その凄さ、寂しさ、哀しさに心うたれるに違いない。だが私にとっては、
それは風物としての光景ではなく、十歳の一人息子をともなって、荒海の淵にたたずみ、無言で自らの
行末を見やっていた、父という風景なのである。 」
( 宮本輝著 「二十歳の火影」講談社社文庫 所収 )