うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

二・二六

2016年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

きょう(26日)は、2・26事件から80年の節目なのですね。

昭和11年もうるう年でしたが、26日は水曜日だったようです。

学校で習った頃、(兵隊に向けた)アドバルーンの写真などが教科書に載っているのを見て、ずいぶん昔の話だな、と思っていました。

でも、そのころより今のほうが、事件をリアルに感じ取れる気がします。

オフィスのある、この辺りも舞台となって、当時は通行禁止になっていたらしい。

高橋是清記念公園、先週とおりかかった(この写真はその時ではなくて、数年前のもの)。むかしときどき、昼休みとかにここで休憩していた。あのころ、事件が起きた場所だとは、あまり意識してなかったなあ。

 

「荻窪風土記」で、井伏鱒二氏は2・26事件について1章設けて次のように書いている(抄訳)。

こんな大事件が起ころうとは夢にも思っていなかった。その前日、二月二十五日、私は都新聞学芸部を訪ねた。寒い日であった。三宅坂のところからお濠のほうを見ると、野生のカモのほかにユリカモメがたくさん何百羽も集まっていた。海上が荒れるかどうかして、陸のお濠に避難していたのだろう。空は青く晴れ、皇居の上に出ている太陽を白い虹が横に突き貫いているのが見えた。虹は割合に細く、太陽の直径の三分の二ぐらいの幅である。不思議な現象だと思ったので、都新聞で用談を済ませたのち、学芸部長の上泉さんに白い虹のことを話すと、三省堂の「広辞苑」を出してページを繰って見せた。

 白い虹が太陽を貫くと、「白虹、日を貫く」と言って兵乱の前兆だと言ってある。

井伏氏もこの後書かれているが、この話は「黒い雨」の巻末近くにもエピソードとして出てくる。主人公が玉音放送の前日にやはり白い虹を見て、それを工場長に話すと、工場長の体験談として上記のことが語られるのだ。

井伏氏の住んでいた荻窪では、渡辺錠太郎教育総監が襲撃されている。銃撃の音を、井伏氏は枕もとで聞いていたようだ。

・・すると玄関の土間に朝刊を入れる音がした。私がそれを取りに起きて再び横になると、花火を揚げるような音がした。いつも駅前マーケットで安売りする日は、朝早く花火を揚げる連続音が聞こえていた。

「今日は朝早くからマーケットを明けるんだな」

私は一人でそういって、新聞を顔の上に拡げたきり寝てしまった。

目がさめると宮川君の姿は見えなくて、お昼過ぎの時刻になっていた。私は銭湯に行くのでタオルに石鹸箱を持って、平野屋筋向こうの武蔵野湯に行った。ひどい大雪で、外は六寸か七寸は積もっていた。

 風呂は混んでいなかったが、浴室の話声が大きく響いていた。光明院の裏通りにいる渡辺さんが機関銃で銃撃されて、護衛の憲兵も殺されたというものがいた。

前日は晴天、二十六日は大雪であったらしい。

事件が収拾されたのは29日(土)のことで、その間の報道もかなり規制されたものだったようだ(参考)。井伏氏のように、当日に事件の片鱗でも耳にした人は、少なかったかもしれない。事態収拾まで3日もかかったというのは、ちょっと驚きだが、政府中枢を襲われるというのはやはり相当の事態だったことは間違いない。

二・二六事件があって以来、私は兵隊が怖くなった。おそらく一般の人もそうであったに違いない。大震災の時板橋に乗馬の兵がやってきた時など、避難民が馬の脚にしがみついて感泣する場面があったそうだ。二・二六事件の時、鎮定のため東京に呼ばれてきた甲府連隊の兵が、鉄砲の玉が到着するのを待って、新宿駅前の広場に叉銃して休息していると、通りすがりの人が「いよいよ同士討ちの戦争をやるのかね」と聞いた。聞かれた兵のほうは、苦虫を噛み潰したような顔をした。あの有名な「兵に告ぐ」という布告が出ている時であった。

後半のエピソードは、この時点ではまだ世の中に、少しは自由に話せる雰囲気が残っていたということなのだろうか。

週明けは閏29日。3月に入ると、5年前と曜日の並びが同じになる。

 

 

 

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