うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

フランソワと達郎

2015年06月11日 | 音楽

月曜日に山野楽器に行った。ショパンのマズルカを探したが、いいのが見つからなかったので、目についたフランソワのリサイタル盤にした。

残念ながら演奏を的確に表現する筆力がないのだが、この人の演奏は好きだ。

ウィキペディアで知る程度の知識しかないが、この人は天才肌の人だったようで、演奏曲(ベートーヴェンは全くやらなかったらしい)も限られ、時により演奏にかなりムラもあったそうだ。

クラシックよりは同時代のジャズの演奏家たちを連想する。大戦を挟む激動の歴史のもと、生きづらい思いをしながらの人生だったのかも知れない。

さいきんはこういうダンディな男というのは、見かけない気がするなあ。

山下達郎は先日、実家に置いてあったカセットテープを持ってきた。

もう何十年も前に録音して、車とかで良く聴いていたテープだ。

山下氏の好きなドゥ・アップの曲を、ア・カペラの多重録音(ほとんどのパートを自身で行っている)で製作したものだ。

手元のテープは、'86年に再発売したときのものらしい。「RIDE ON TIME」がヒットしたので、レコード会社に頼んで自分の好きな作品を作らせてもらうことができたのだという。

このレコードと、山下達郎のことも、ウィキで見て初めて知ることが多い。

山下達郎は、考えてみるとそれほど良く聞いていたわけではない。RIDE ON TIMEは大好きで、レコードも持っていたが、その後はそれほどくわしくない。歌声は好きだし、ラジオなどでの発言を聞くと、なかなかの趣味人で結構骨のありそうな人だなあ、とか思っていたが、結局その程度の感心で流していた。

この方はとても趣味的でマニアックな面もあるが、わりと現実的で処世も上手な面もあるようだ。一般受けする曲を作りながら、コアな趣味も追求するという生き方ができる人だ。奥様(竹内まりあ)の音楽も僕は好きで、まあ、いいよなあ、というかんじ。

そんな、二人の音楽家の生き方を感じながら聞いてみたという話でした。

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どっと

2015年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨコハマ買い出し紀行12巻P85(amazon kindle版)より。

「先生」は、この後

「やること多すぎてさ 一生って一回だけじゃたりないもんなのよ たぶん」

「だからせめて ひとつふたつでも なにか・・・・・」

と答えている。

おじさんは少し前に家族「タカヒロ」を送り出して、一人になったばかりであり、手がかかっていた孫?の世話から解放されて、そんなことを聞きたくなったのかも知れない。

ただ、時間ができたのだから、今までやれなかったことができる、という気分にならないのかな、と思ったりもしたが・・。

一種の後悔の念というか、老境に入っての正直な心境か。

もう少し若ければ、色々できたかもしれないのに、今となっては、ということなのかもしれない。

いろいろなものを切り捨て、どちらか一方を選択し、チャンスはあれどそこでは乗らず、ここまで来た。気がついてみれば・・、というところか。

別に子育てに限らず、何かの機会を待っているだけでも、時の経過に関してはおなじだ。

気がついてみたら結構なときが流れている。

たぶん、その場の状況に合わせて、常に動き続けている方が、人生全体の収支は高いのかも知れない。

僕はそういう柔軟な才能は持ち合わせていなくて、待ちの姿勢でいることが多かった。当然やり残しが出る。

 

・・仕事をしていると、これはやったことがないなあ、ということが結構あるものだ。

折に触れ、もうたぶん一生この仕事は経験できないかも知れない、と思うことが増えてきた。

その一方で、もういいかぁ、と思ったりもするのだけどね。

しかし、忙しい人は、それはそれで次々とやり足りないことが出てくるものなのかも知れない。結局同じかな?

 

 

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ダウントンアビー3 全般

2015年06月08日 | テレビ番組

NHKでの放映は5月末で終わっているし、新番組「情熱のシーラ」ももう始まっていて、タイミングが悪いのだが。

4月に一度、前半メモをかいているので、今回は全般にわたる話を。

これまで3シーズン見続けてきたが、今期はちょっと波乱を作りすぎというか、表面的に派手なストーリー展開が目立ち、はらはらはしたが、やや深みに欠ける印象がある。

特にシビルとマシューの死はびっくりした。シビルは知らなかったので特に驚いた。インターネットとは(この文章もそう)因果なもので、ネタバレなど見たくなくても、思わず目に入ってしまうことがある。マシューはwikiで第何シーズンに登場するかという記述をみて、気がついてしまった。

ドラマ全体で感じたことだが、イギリス風の処世術というか、過去にいざこざや事件が起きても、屋敷の体面を考えて、その場は不問に付す、みたいな采配がふるわれることがおおいのが印象に残った。

もちろん、ドラマとしてのご都合主義というのはないとは言えないのだが、これがアメリカならこうはならないのではないか。むしろ日本の方が、同じような考えをしやすいような気がする。

いまさらそんなことを言うのは恥をさらすようなものだが、これまで西欧のビジネス社会に(部分的に)触れ、陽気ででドライで合理的だな、と思ってきたのは、あれはあくまでもアメリカ的な考え方の一例だったのだな、と思うようになった。長い歴史を背負い、その重みの中で培ってきた知恵をシェアしながら生きる、という意味で、イギリスと日本の組織人は近い部分を持っているのかな、と。

彼らの、戦時のものの考え方や、生活ぶりに関する描写も、とても興味深かった。そのあたり、折を見てまた改めて触れたいと思う。

 

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はれ

2015年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は鼻風邪気味のところを風邪薬でしのぎ、出かけた。今日もどうも眠いのだが・・。

幸い天気は悪くない。

今朝、いくつか夢を見た。覚えているのはローマ軍だかギリシャ軍だか、とにかく現代ではないところからやってきた軍勢に、献納金なのか賠償金なのか、なにかを払わなければならない、という話だ。軍勢はたしかに昔の西洋鎧のようなものを着ている気がしたが、その姿はそれほど印象に残っていない。とにかく、お金を払う担当者は僕であり、その金額は数千万円に相当する金額だったと思う。

しかし僕は考えるのだ。この人たちは現代の日本の人たちではないのだから、日本円で払っても受け付けてもらえないかも知れない・。銀行振込だって、できそうにない。
それでは現金か。いや、しかしまず、通貨を決めなければ。たぶん、米ドルなら受け取ってもらえるんじゃないかな・・。などと、色々と悩んでいた。

20年ほど前に住んでいた街のちかくに行く。まあ、しょっちゅう行っているのだが、なんとなく街のたたずまいに目が行った。

街の商店街を見ていると、変わっていないところは全然変わっていないし、年中かわっているようなところもある。

表で蒲焼きを焼いている店とか、小鳥や金魚を売っている店(ここのインコたちは店の表に出ている。ストレスたまらないかな?)は、むかしから全く変わっていない。

ずいぶん前に奥さんを亡くされて、その頃とても意気消沈している風だったクリーニング屋の旦那さんは、今でも店頭に立っているようだ。

気がついてみると、D.P.E.屋さんが絶滅している。かなり遅くまで残っていた店、ここは後年文具か何かを主力に売っていた気もしたが、整体院に変わっていた。整体院は近年かなり数を増やしているようだ。

少し前の思い出、というのは、うんと昔、すごく若かった頃の思い出などとはちがう、独特の感触がある。

いまの状態に戸惑い、進むべき道を見失ったときなど、少し前のことを振り返る。

そこにある、しかし今はもうないものを見つけたとき、何となく見失っていたものを取り戻したような気がして、ほっとする。

うんと昔には、そういう感触はあまりない。それらはすでに博物館の中で、展示保存されているもののように、生命力は失われている。

ただし、ものによってはとても生命力がつよい思い出もあるのだが。

さいしょは見つけて喜んでいるが、すこしたつとそれが既に失われたものであることに気がつく、ということも多い。

結局、自分は着実に後戻りできない道のりを歩んでいた、ということを再確認することになる。

日が長く、天気さえ良ければ色々外で活動しやすい時期だ。

雨の季節だから、当然当たり外れがある。近くの学校で運動会をやっていたが・、晴れて良かったね。

なんとなく、その季節が来たなと思い、ショパンのマズルカを聴き始めた。

 

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絶体絶命

2015年06月06日 | セキセイインコ

先日アルの止まり木囓りを紹介しましたが、その後も彼の努力は続きます。

根元の方が細くて、このままだと折れそう。

木の種類はわかりませんが、白木ではなく、濃い茶色をしている。囓り心地が良いのだろうか?

ふたり乗るとたわんでしまい・・。

根元のところはもう爪楊枝ぐらいの細さ。

だんだん傾いてきた・・。絶体絶命だぞ、アル、ココ!

アル、おまえはビーバーか!

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父性のゆくえ

2015年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

先週ベートーヴェンの弦楽四重奏曲集を買ったとき、調べ物をしようと書棚をさがしていたら、砂川しげひさ氏の音楽エッセイをみつけた。

漫画家でありクラシックファンでもある砂川氏が、一人の音楽家についてイラストとエッセイで構成したシリーズで、たしかモーツァルトとバッハも出ていたと思う。初心者にもとっつきやすい感じで、図書館にも置いてあったと思うから、当時はそこそこ人気があったのだと思う。

「弦楽四重奏の真髄」というところで、彼は演奏会で久し振りに聞いたベートーヴェンの「エグモント序曲」を聞いて衝撃を受け、

なんというか、放蕩してさんざん好き放題してきた息子が、突然、道ばたで父親に出くわしたような響きだった。懐かしさと言うよりは、久し振りに見る父親の威厳の前に立ち尽くして、戸惑い、興奮し、後ずさりするばかりだ。父親はただ黙して「今こそ苦しみから歓喜へ突き進むのだ」といたまなざしを息子に向けて目の前を通り過ぎていく感じだ。ここで息子ははじめて我に返るのだ。・・

(中略)言葉をかえれば、ひさしぶりのベートーヴェンとの邂逅は、自己の内面との対話であり、反省であり、恍惚であり、慟哭であり、感謝であり、その他いろいろな精神の上の行為に立ち返ることを意味していた。

ベートーヴェンが、おもわず襟を正したくなるような父親のように思えた、という話だ。映画「アマデウス」では、ちゃらちゃらしているモーツァルトの家にパパが威厳たっぷりでやってきて、しかりとばすようなシーンがあった(と思う)。そういう、威厳に満ちた父親像が、自然に想像されるような時代で、当時はあったのだろう。

ベートーヴェンの音楽もそうした父性的威厳に満ちた音楽、という流れで作者はとらえているようだ。弦楽四重奏曲などは、そうした威厳じみたものよりは、男性の悲哀というか滋味というか、そんな要素を感じてしまうが、まあ、ざっくりいって軽佻浮薄とは反対の方向性ということだろう。

この本が出版されたのは1991年(平成3年)で、ちょうどバブルが崩壊して世の中がすこし変わり始めていた頃だ。

砂川氏は冒頭で、このところベートーヴェンはないがしろにされているようだとし、その理由として;
今の金余りニッポン(懐かしい言い方!)贅沢な暮らしを許し、スケールは小さいが貴族ムードを満喫しているのだから、お説教ぽいベートーヴェンよりもモーツァルトを好む。しかし、こんな物質至上主義の時代がいつまでも続くはずがない、荒廃の時代はもう目の前に近づいている。かならずベートーヴェンの時代が来ると信じている、と述べている。

当時はまあそれほど心にひっかからなかった考察だが、この時代の文章には、日本は豊かになった、人々は満たされた生活をしている、という表現が多い。時代の変化というのは、庭の灌木がいつのまにか大木になっていることに気がつくように、知らないうちに訪れているものらしい。

その後、苦しみに打ち勝って歓喜をめざせ、みたいなベートーベン的な世界は、人々の脚光を再び浴びるようになったのかというと、これはどうだろうか。そもそも、父性的威厳そのものが、溶けてきてしまったような気がする。

たぶん、いまそれを埋めているのは、母性的ホスピタリズムなのかもしれない。そしておそらく、この時代の様々な問題は、父性的な威厳や根性論のようなものでは、思うような結果を得られなくなりつつあるように思える。

自分が父性的威厳を体現しているわけでは全然ないが、なんだか(僕等の世代の)男性って、ますます生きにくい時代になってきたのかな、ということを、音楽を聴きながら思った・・。

 

 

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なぜか

2015年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

今週は妙なぐあいに順調ではなくて、よたよたです。

あさ、変な時間にねたりおきたりして。4時過ぎでもう明るいですね・・。

 

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かじる

2015年06月03日 | セキセイインコ

アルが、先週末に取り替えたばかりの止まり木をかじっている。

とまりぎの形や太さが気に入らないのだろうか?もとは丸棒なのだが、四角くなるようにかじっている気がする。

・・そうとう頑張ったね。 

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自転車

2015年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

6月から道交法が改正になり、自転車に関する規則が強化される、という話を、友人がコメントしたSNSの記事で知った。

処罰が厳しくなるが、特に子供などはルールがわからないままに運転してしまうのでは、という懸念を書いていた。

折しも、手持ちの安自転車(西友で買った)がタイヤをバーストさせたので、交換してもらった。しばらく前から中のチューブがおかしくなって、走るたびにごとごとと音を立てていたのだ。

ちょうどいいので、試走をかねて、住宅地をてろてろ走ってみた。なるべくルールに則って、道路の左側、原則車道+状況に応じ歩道を徐行、もちろん信号は守る、という感じで。できれば無理なく。

運転してみて思うに、自転車でちゃんと走るのって、同じところを自動車で走るよりも神経使うし、難しい。

車ならやることは決まっている。みんな当然信号などは守るし、車線も標識が行き届いていて迷うことがない。自転車は、歩道を走っていると歩行者に気を遣うし、車道は車やバイクが怖い。信号も、四つ角を左折するときなど、意思を強く持たないと赤信号で待っていることはできないかも知れない。

昔から思っているのだが、都市は自転車をすごくないがしろにしてきた。本来なら車より自転車の方が効率よく移動できるはずの生活道路さえ、ところによっては走りにくい。自転車レーンの設定も場所によってまちまちで、どうしたら良いのか迷うことがおおい。

他方、おかしな運転をする人が多いのも事実だ。今回もふらふらと、どうしたいのかわからない状態で突っ込んでくる中年の女性とか、音もなく後ろから至近距離で追い越してくるスポーツサイクルの男性などに遭遇した。

スポーツサイクルに乗る人、特に都市部を走る人のことを、時に苦々しくおもうことがある。本人はまったく罪の意識はないと思うが、さっき書いたように音もなく高速で近づいて来て、びっくりさせられるのだ。バイクや車なら、遠くや後ろからでも音でわかる。自転車は、音がしないし、狭いところでの高速は怖さを増幅させるのだ。かといって、チリ、チリとベルを鳴らされても、むっとしたりして・・。そういう人たちが率先して優しい運転をしてくれるといいですね。

話は戻るが、西友の自転車、前輪ももうすぐダメになりそうだ。

ごらんのように、一部の表面がはげ、チューブの関係ですこしゆがんでいる。

 

 

 

 

 

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気をもむ

2015年06月01日 | セキセイインコ

ココの蝋膜は、春に入ってから茶色くなっていた。これは発情のサインだそうだが、週末に急に白くなった。

片側だけ茶色いのが残っている。

これは5月26日。

発情中はぎいぎいと大きな声で鳴くことがあったが、週末に放鳥した後、ご飯をあまり食べていないのではないかと気がつき不安になった。

実は、ペレットの食べが悪いので、週末えさ箱はペレットだけにして、別に粟穂を与えていたが、それが気に入らなかったのか。

それならまだいいが、具合が悪くなったのかと心配になった。

シードをあげたが、夜のせいか手をつけない。

朝、いつも大騒ぎすることがあるのに、静かだ。心配しながら出かける。

終業後、急いで帰宅する。万一の時、お医者さんまだ電話できるかな、と思いながら。

でも・・。

帰ったら、とりあえず元気そうだ。

ココちゃんはなにかと気をもませる子だ。

アルの方はまあ、そんなに心配ないのだが。

おもちゃと遊ぶアル。みんなひっくりかえしおった。

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