148:『東大寺大仏縁起・二月堂縁起』より「東大寺大仏縁起 下巻」
続々日本絵巻大成伝記・縁起篇6 中央公論社(5枚)
伝記・縁起篇-東大寺大仏縁起 続々日本絵巻大成伝記・縁起篇 6
小松茂美(著者)
中央公論社
189ページ
定価 ¥50,971(税込)
「東大寺大仏縁起 下巻」 詞書 最初
婆羅門僧正 衆の中をワ遣(け)て 行基菩薩の手越(を)とりて歌を詠じ給へり
加毘羅衛にともに契りしかひありて
文殊の御かほあい見つるかな
行基菩薩 返歌あり
霊山の釈迦の御まへに契りして
真如くちせずけふみつるかな
バラモン-そうじょう ―じやう 【婆羅門僧正】 三省堂 大辞林より ▼
(704-760) 奈良時代の僧。名は菩提僊那(ぼだいせんな)(Bodhisena)南インド出身。五台山の文殊菩薩の霊験を慕って中国に渡り、736年、遣唐使の要請で来日。751年僧正となり、翌年、東大寺の大仏開眼供養の導師となった。
行基菩薩 フリー百科事典『ウィキペディア』 より ▼
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は、日本の奈良時代の僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行った。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺ほか)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
病人の身体を洗う光明皇后
光明皇后の設けた湯屋に某病人たちが月六度入浴
奈良超時代に十二単の唐装束はおかしいらしいが、目を和ませる
当時の女装に乏しい絵仏師琳賢の絵空事の世界
こうみょうこうごう くわうみやうくわうごう 【光明皇后】 三省堂 大辞林より ▼
(701-760) 聖武天皇の皇后。孝謙天皇の母。藤原不比等の娘。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子とも。悲田院・施薬院を設けるなど社会事業を行い、また天皇の東大寺建立を助け仏教興隆に尽くした。王羲之の書「楽毅論」を臨書した巻物は名筆として著名。
炎上する大仏殿
「東大寺大仏縁起 下巻」 詞書 最後
これで「東大寺大仏縁起 上中下巻」を読めたことになります。
元字と読み方を上中下全て書きながら読みましたので、間違った読みを正すことができました。
今回も簡単な題名などの記録だけで失礼いたします。