竹斎老宝山吹色(ちくさいらう たからの やまぶきいろ)10 八丁裏 九丁表 寛政六年 築地善交作 北尾重政画
早稲田大学 古典籍総合データベース
八丁裏
右のはなしをきゝ
つたへ、右の手の
きかぬ中風
やみをたのま
れ、さつそくめ
がねにてのぞ
きし所、此病
人、大のうぬ
ぼれ、手まへ
ばつかりいゝ男
のきでゐるやつ
なりこ、いつ吉田
才沢でハいかず
と、新よしハら
へつれ行、きん
/\としたる
おいらんのざし
きへすハらせ、
きくほうの
手をきつと
おさへてゐる所へ
おいらん、ゆうぜん
として産
につきさがづ
きごとに
九丁表
なるとひやう人ハ
ぢびやうのゑ
もんがなでたく
て、むず/″\する
所とちくさい、
こゝぞとうごく
方の手紙へさへ
つけてゐれバ、
ひやう人たつての
くるしみにて、
とう/\きかぬ
ほうの手が
ゑもんへくる
しハら/\すり迄
ひげかなでられる、
それからハすきトざい
にはさう/\
九丁表
「此所しよくゑのざ
しきゆへ、むごん
おりふし、ちつとづゝ
わかにばかり
九丁表
「いかひものもちや
屋もそのをす
取ついてわらふ、
あたりもはるきやう
げんのならび
大みやうののことし
八丁裏
もし
くすり
めんけんせ
すんバ、その
やまいいへず、
しやしん
ぼう しま
しやう、しん
ぼうこう
大じハなん
で手づ
きかぬ
八丁裏
ヲヽ/\
こゝで
お
さへ
も
ありが
たい
九丁表
アいゝ/\
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アいゝ/\
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九丁表
たいこ
五町
なぜ
うでを
おさへて
いるか、わ
からね
ども
や
たら
わら
ふ
吉田才沢 ?
吉田蔵沢の場合
吉田蔵沢 江戸後期の伊予松山藩士・画家。名は良香、通称は弥三郎のち久太夫、号は酔桃館・白雲堂等。
風早・野間郡代官、持筒頭、者頭役等を勤め、治績があった。
少時より画を好み、特に墨竹画を能くし、また詩歌俳諧、鉄筆製陶等も能くした。
享和2年(1802)歿、81才。
才沢 ?
才沢は、苗字の場合もある。
吉田才沢
吉田、才沢か?
吉田
才沢でハいかず
と、新よしハら
へつれ行
吉田才沢では行かず、新吉原へ連れ行き、
新吉原から考えると、吉田才沢は遊郭の有った地名なのだろうか?
吉田才沢 は結局、分からなかった。