以前、喜界島のリーダー、
勘樽金を描いた記事でも書きましたが、
昔、喜界島は勝連とのつながりが濃かったことが伺えます。
そんな史跡がこちら。
その名も、勝連屋敷(跡)。
勘樽金の父=勝連親方(=阿麻和利??)の子孫が
荒木からここ白水に移って来た、との口伝もあるようです。
とすると、その勝連親方子孫の屋敷跡、
ということになります。
また、
"城を作るために勝連親方は、
白水村の勝連屋敷に若い人たちを集め、
力石を持ち上げさせた。
それで力の強い者だけを人夫に選んで送った。"
という伝承も。
その力石というのが、
この石垣の上に乗っている2つの石なのだとか。
この伝承で言う城づくりというのが、
伊平屋の田名グスクなのか、
それとも勝連グスクの改築補強工事なのか、
それとも阿麻和利とは関係のない
全く別のグスクなのか…。
勝連親方というのが、阿麻和利より後の時代の人物だとすると、
尚真代の首里城増築での動員で…って想像もできますね。
はるか昔のことはさておき、
この勝連屋敷に住んでいてた「勝家」の人たちは
昭和初期に大阪に移住してしまったとのこと。
その際、名字が「勝」一字では変だから
「勝崎」に改めたのだとか。
一族は他にも、
勝田、勝原、勝山、勝部、勝谷などの姓があるらしいですよ。
「勝〇」という二字姓の人は
もしかしたら勝連親方の子孫かも…!?
立派な門構え。
敷地もかなり広い様子でした。
これはヒンプンかな?
真ん中の文様が城門のように見えます。
ところで、
尚徳の喜界島遠征の時、
闇夜に紛れて島の背後に回り込んで上陸したという地が、
荒木ではなく早町港あたりだった、との説もあります。
早町港はこの勝連屋敷のすぐそこなので、
(荒木出身で白水に引っ越していた)勘樽金が
ここで迎え撃ったとも想像することもできますね。
参/『真説 阿麻和利考』(高宮城宏著)