前回の浦上グスクに続いて、
奄美大島のグスクを、もう一つ。
奄美空港がある、
北東部エリア【笠利(かさり)】にある、
赤木名グスク(赤木名城)。
奄美大島を代表するグスクでもあります。
※赤木名「グスク」にするか「城」にするか、
迷いましたがここでは赤木名「グスク」で書かせていただきます。
赤木名中学校の、すぐ裏手にあります。
入口の鳥居には「秋葉神社」とありました。
鳥居を抜けてしばらく登ると、
広場になっています。
右の石碑は、かつてこの地にあった(1675~1819)
赤木名観音堂開山時の住職の墓碑。
真ん中は「赤木名城跡」の碑。
説明版。
赤木名グスクは
国の史跡に指定されています。
ところで、
『朝鮮王朝実録』にこんな記述があります。
“奄美大島は琉球に帰順して15年になるが、
喜界島は毎年交戦するするもいまだ服従していない”
奄美大島は大きな島ですが、
その大部分がやんばるのような森林のため、
人々が多く住む島の中心地…
少なくとも、琉球の奄美大島統治の拠点は、
ここ「笠利」だったようです。
地形を見ても納得です。
そして、琉球が奄美大島を制し、
次に喜界島を…とした時、
この笠利にいったん軍を置き、
そこから喜界島に向かったということも
十分考えられます。
つまり、笠利が
琉球の喜界島討伐軍の前線基地でもあった、
ということです。
実際、
「喜界島は毎年交戦するも…」と書かれた時代、1450年頃には
笠利に琉球人がおり、役人(笠利大屋子)もいたようです。
赤木名グスクは笠利の西側にありますが、
この喜界島をめぐる抗争においても
なんらかの軍事的要衝であったのでは…
とも考えられています。
そんな赤木名グスク。
石積み、郭、幾重もの堀切などがあるらしい。
事前にコピーしてきた縄張り図を片手に、
いざ、張りきって
登★城!!
登っていきます!
木々の間から集落が見えます。
…ん?
…んんっ!?
Oh…マジか…
……大して進まないうちに、
順路を完全にふさがれてしまいました…
こんなに荒れ放題だと
さすがにこれは無理だと判断……
というわけで、登城は泣く泣く断念しました…
中にも案内板とかあるみたいなんですけどね…
(例えばこちらのサイトをどうぞ)
草刈されてる時期もあるのかもしれないけど……
この草木の荒れ具合から判断するに
けっこう放置されていた感じ……
国の史跡でもあることだし、
いつ行っても大丈夫なように
こまめな整備を願うばかりです…(´;ω;`)
赤木名グスク遠景。
この連なっている嶺の中に
いくつもの堀切があるようです。
+
ところで、
話を「朝鮮王朝実録」に戻しますが、
笠利を前線基地として喜界島討伐軍を率いていたのは、
琉球の「王弟」とあります。
1450年頃は、尚金福の時代です。
尚金福の弟といえば…
王位を継いだ尚泰久か、
それとも
尚金福の死後、王位をめぐって甥の志魯と戦った布里か!?
(※志魯・布里の乱→ ★ ★)
王軍を率いるとなると、
威勢のいい布里のイメージだし、
その見方が強いですね。
でも、もし尚泰久だったとしたら…
「武人・尚泰久」というこれまでとは
ガラリと違ったイメージの尚泰久像が見えてきます。
布里か、
それとも尚泰久か
どちらか、
もしかしたら
この赤木名グスクを訪れていたかもしれません。
参
『赤木名城跡をめぐる歴史的概観』(奄美市教育委員会/2015)
『辺留グスク発掘調査報告書概要』(笠利町教育委員会/2006)