博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『大秦帝国 第1部』その7(完)

2009年09月05日 | 中国歴史ドラマ
『大秦帝国』第45~最終51話まで見ました。

孝公が崩御し、太子駟が新君として即位。すなわち恵文王であります。しかし孝公の死は内外に波紋を及ぼし、咸陽令の王軾は官職を擲って孝公の墓守となろうとする始末。職務放棄は大罪となるところを、商鞅は人材の確保と同期の誼(商鞅と王軾は同時期に他国から仕官したことになっている。)で微罪ということで済ましてしまいます。

しかし甘龍ら反変法派の世族はそれを見逃さず、恣意的に法を運用したということで商鞅を弾劾。ここから商鞅の運命は急転していきます。処置に困った恵文王は死んだはずの公子虔に相談に行きますが、(仮死状態になる薬を飲んで死んだふりをし、病死したことにしていたらしい。)「新法の旗印の商鞅と世族のトップの甘龍をともに除き、自分が新しい秦の柱となれ」と諭されます。

商鞅を犠牲にする決心が出来た恵文王ですが、かたや商鞅も変法に殉じる覚悟は既に完了済みだった!新君即位後の政変に備え、商鞅の命を守るために側近たちに託された孝公の遺詔を次々と発見しては処分し、自分で自分の死亡フラグを立てていく商鞅。商鞅にとっては法の枠を越えた君主の遺命など、例え自分の生命に関わることでも存在してはならず、これを認めてしまえば法の意味が無くなってしまう、自分が生き残っても法が死んでしまえば何の意味も無い。……そう考えていたのであります。しかし立てても立てても潰されていく死亡フラグ……孝公、あんた一体いくつ遺詔を残していたんですか(^^;)

商鞅は街の宿に泊まろうとして法の規定を理由に宿泊を拒否され、「遂に変法は秦の隅々にまで浸透した!」と快哉を叫び、自ら廷尉府へと出頭し、拘禁を求めます。

商鞅が封地の商・於に立て籠もる姿勢を見せたことで、甘龍ら世族は彼に謀反の罪を着せて車裂きの刑を求め、それを受け入れる恵文王。商鞅はその恵文王が密会しにやって来ると「自分の死を世族の誅滅に利用しろ」と進言。そして逍遙として処刑台に登り、物語はひとまず幕を閉じるのでありました……

全編通して見て、『康熙王朝』みたいな圧倒的な面白さはありませんが、それでも大河ドラマとしては充分及第点に達していると思います。この作品が日本語版ではカット版しかリリースされず、『臥薪嘗胆』(邦題『復讐の春秋』)みたいなクソのような作品がノーカット版でリリースなんて、世の中間違ってると思います(^^;) 日本語版では武侠っぽいシーンもほとんどカットされているんでしょうなあ。ああ……

で、最後のツッコミ所。

○思わせぶりに再登場しながら、結局ロクな見せ場も無いまま死んだ「仮面の男」公孫賈。

○恵文王との再会以後、朝会など表舞台に現れるようになる公子虔ですが、あんた、公式には死んだことになっていたのでは……

○廷尉府に拘禁されている商鞅に面会にやって来た旧知の景監。彼が密かに『商君書』をまとめていたことが発覚。こんな所で『商君書』が出て来るとは思わなかったよ(^^;) いわゆるサービスシーンというやつでしょうか。

○夫を守るためとはいえ、最後まで鉄砲玉だった熒玉公主。この人、結局死んでいるのか生きているのかよく分からないまま話が終わってしまいましたが、墨家総本山に預けられた子嶺(商鞅と白雪との間に生まれた子)ともども第2部で再登場したりするんでしょうか?
コメント (4)
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