先の補足の続きです。
「上」は天皇を指し、その下には「旧上」があり、それらは後陽成天皇、正親町上皇へ渡された中将棋駒であることが分かります。
記録を見れば、今の将棋と同じ小将棋の愛好家は武将に多く、中将棋は天皇や公家衆に愛好されたことが読み取れます。
説明があと先になりましたが、馬日記の馬は「駒」のことです。
続いて数ページあと、「壬辰・文禄元年」の映像です。
中ほどに「家康息」とあるのは、秀忠のことでしょうか。
家康と呼び捨てで、名前すら明確に書かれてはおりません。
この時代、高位の公卿からすると、実力ある武将と言えども、呼び捨ての格下で見られていたことも分かります。因みに、同格の公卿に対しては「殿」の敬称が付けられています。
同じ年の中将棋のページには、何組かの中将棋駒に交じって駒数130枚の「大将棋駒」や、192枚の「大々将棋駒」が見られます。
しかもその渡し先の名は「当関白殿、(献上)」であり、これは秀次への上納品であることも分かります。
秀次へは、後にこのほかの古将棋駒も数組献上された記録もあり、これは興味深いことです。
なお、このページ2行目と左ページ1行目には「将棋馬削、忍斎」の名が、3か所記載されています。これは水無瀬家の下職として将棋駒の木地を制作していた人であろうと推測します。
4月17日(土)、曇り。
昨日の続き、「将棋馬日記」を補足します。
13年間の水無瀬家の駒づくりを記録する「将棋馬日記」は、およそ60ページあり、先ずは、その冒頭のページ、天正18年の記録。
「庚寅」の年号に続いて「小将棋駒」の行き先名が上下2段に書かれています。冒頭は「師法印」、その下は「中小路甚八」と読めます。11番目は「滝本坊」、その二つ右は「道休」。これは足利15代将軍義昭です。
この道休は、昨日の象牙駒にも見られる、水無瀬駒のリピーターの一人だったことが分かります。
映像、下は2ページ目。右端の一行は、1ページの続きで、この年、小将棋駒は26組作られたことが分かります。
続いて「中将棋」とあり、9組が作られています。
その冒頭に「上」。
武家の上様は、将軍やお殿様なのですが、水無瀬家はお公家ですので、「上」は天皇を指しています。
時間が無くなりました、この続きは、また明日以降に。