10月31日(月)、曇りのち雨。
虫の音も聞こえなくなり、秋も深まりました。
今日のブログは、40数年前に訪れた水無瀬神宮での「将棋駒日記」との出会い。
水無瀬神宮は、この日、二回目の訪問でした。
前回は、神宮に遺されていた「水無瀬駒」を拝見して、この日は小学校同級生でプロカメラマンの川中啓一君を同道しての写真撮影が目的であった。
対応くださったのは、先代宮司の忠寿さん。傍らには長男、現宮司の忠徳さんもおられた。
「水無瀬駒」の撮影が終わるころ、宮司は「当神宮には、多くの大学など歴史研究者が来られるが、将棋の駒で来られたのは熊澤さんが初めてだ。駒以外にこんな資料もあり、これも将棋の関係ではないか」と、一冊の書付を奥の部屋から出してこられて、私に手渡された。
大きさはハガキを一回り大きくしたほどの和紙の束で、やや厚みがあった。端は糸でとじられていて、表題に「将棋(其の下に木)馬日記」と書かれている。
何十年、否、百年以上そのままの状態で残されていたモノであろう、虫食いが各所にあり、それが糊状になって、和紙の一枚一枚がくっついて一塊になっている。
「ホー、オヤオヤ」と思いながら、紙を破らないように、ゆっくりと一枚一枚を剥がしてゆく。こんなことは初めての体験であった。
表紙の裏は「大将棋三百五十四枚 大々将棋百九十二枚 摩訶大々将棋百九十二枚 大将基百三十枚 以上八百六十五枚」の文字。そして「天正十八年也」の付箋が挟まれていて、次のページ冒頭には「庚寅」。これは干支であり、後に調べたところ天正十八年(1590年)そのものであった。
続いて「小将棋」とあって「一面、▢▢ 一面、▢▢・・」と続く。「小将棋」は今に残る駒数40枚の将棋で、「一面」は一組のことだとわかる。▢▢は読める文字もあり、読めない文字もある。それは、どうやら人名で駒の譲り渡し先のようだ。
2枚目をめくると、続きが一行あって、この年に譲り渡した小将棋駒数は合計22組だとわかる。その中には、武将らしき名前や僧侶、そして公卿もある。
続く「中将棋」は9組あって、その冒頭が「上」。
武家なら「上」は上様。すなわち殿様を指し示す訳だが、公卿の水無瀬家にとっての「上」は、まぎれもなく天皇である。
その昔、「水無瀬家での駒づくりは勅命(天皇の命令)で始まった」という口伝が遺されていて、この1行は、それを裏付けるもの。そう思った。
次々とページへと進むにつれ、日本の歴史を形づけてきた高名な人々の名前が繰り返し綴られている。
その筆頭が「家康(内府とも)」で、53回も出てくる。「道休」は足利15代将軍の法名。「当関白」は秀次。「弥九郎」は小西行長。「幽斎」は細川幽斎。「輝元」は毛利輝元などなど。驚いたことに、彼らの多くは何度も記載されているリピーターでもあった。
すごい史料だと心が震えた。将棋という遊びの道具に過ぎない水無瀬駒が、当時の上流階級に、いかにもてはやされていたかを示すすごい史料を、今、自分が手にしているのだというめぐりあわせを実感した次第。
それらの内容は、時を置かず、昭和53年春、将棋専門誌「枻:人間賛歌」にて、全文の読み下しとともに「水無瀬駒をたづねて特集」として発表することができた。
ところで、水無瀬駒の譲り渡し先は99%は男性なのだが、唯一、一人の女性名が記載されているのであります。
これは、当初の読み下しでは、全くの誤読で、後刻、何度も読み直しをする中で、比較的最近に判明したことであり、歴史に多少でも関心ある方なら、知っている人の名前でもあります。
さて、この人の名は?
分かるかな? どうかな?
興味がありましたなら、そして、この人ではないかと思われるときは、コメント欄にてお知らせいただければと思います。