ベンベエの詩的つぶやき

世の中をちょっと斜めに見て・・・

癒されて日々

2008-10-11 19:03:40 | 日記・エッセイ・コラム

秋深みゆく草むらの闇に耳を澄ますと
騒々しいアオマツムシの陰でスズムシが鳴いている。
闇の奥のずっと奥、結界を超えて聞こえてくる
幽けき鈴の音色・・・・・

今宵は十三夜。
後の月、名残の月、豆名月、栗名月とも呼ばれ
辺りの風物もどこかものさびしく
十五夜のような華やかさはないが
名月を賞するに又格別の趣がある。

さきの十五夜は無月であったが今宵は晴天。
早くから向かいの公民館に灯がともり
ぼうじぼ打ちの子どもたちが集まってきている。

三日ほど前から仔猫が一匹住み着いている。
さほどに人を怖がらないところをみると
生まれつきのノラではなさそうだ。
棄てられたか、あるいは迷い込んだか
十月にちなんでカンナと命名。

年長組のジージがよく面倒みているのですっかり安心して
食事のときは真っ先に勝手口に駆け寄ってくる。
他の猫たちも相手が子どもなのでいじめたりはしない。
自分たちはカンナの後に行儀よく並んで待つ。
彼女たちのそうした日々一つ一つの仕草に
内田百聞の「ノラや」のことや
ミュージカル「CATS」などが懐かしく想い出され
ほのぼのと癒されることが多い。

    
湯屋暗くして名残の月を浴びゐたる


目からウロコ

2008-10-10 09:37:54 | 日記・エッセイ・コラム

目には目を、目の上の瘤、目に物見せる、目の敵
目の黒いうち、眼を疑う、目を掛ける、目を盗む
目の付け所、目が肥える、目利き、目くじら、目くばせ
目ざわり、目こぼし、 目ざとい・・・・・・etc

今日、10月10日は目の記念日。
目に関する言葉を思いつくままに挙げてみたら
こんなにもあった。まだまだ沢山あるとおもうが。

〈 オレの目を見ろなんにも言うな 〉
この暗黙の了解が日本人の美徳でもあり
〈 目は口ほどに物を言う 〉
歌舞伎のあの大げさな見得にしても
目によって言外の言をいかに伝えられるかが重要とされる。
いわゆる目ぢからである。
以心伝心・・・・・真正面から向き合うことで
僅かな目の色や動きに心の奥が読み取れた。

やかましく言われなくとも、
母親にギロッと睨みつけられたら子どもらはしゅんとした。
恋人のはにかんだ眼差しに総てを理解した。
巧言をもって上目遣いに近づく者には用心した。

若者は年寄りをエーリアンと呼び
年寄りは若者を新人類と呼んで
コミニュケーションの疎遠が拡がっているが
もっと近くに寄って、正面から目を見つめ合えば
思いは同じであることに気づくことだろうに。

自分の目、相手の目を大切にしよう!

     
観菊のゆうべ法話と菊膾


大使の料理番

2008-10-07 11:27:05 | 日記・エッセイ・コラム

一つ山を越えたところのK町から
夕べ古い友人が三人訪ねてきた。

ぼくのレストランによく集まっていた連中である。
三人とも農家の後継者、
まだ二十歳そこそこで農業への不安と悩みを抱えていたが
今ではもう立派なお父っあん。
O君はイチゴ栽培、H君はシイタケ栽培、
T君は皇室への献上米を作るほどに
それぞれしっかり生きている。
H君はケータイを開き孫の写真を見せてくれた。

少し前にもブログに載せたが
この頃、古い友が訪ねてくるという妙な現象が続いている。
レストランマロ時代の友人や
青年会議所時代の仲間が「やぁやぁ、30年ぶりです」 と。
ちょっと不思議に思うほどよく訪ねてくる。
最近になって大事な友人をつづけて三人亡くしたので
その心の隙間をはやく埋めよと
守護神さまが差し向けてくれるのかもしれない。

三人は、ぼくがすっかり忘れていることを想いださせてくれたり
スープカレーをおかわりしてくれたり
見事なシイタケやイチゴジャムと一緒に
ほのぼのとした元気を土産として置いていった。

   月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也
                
 (奥の細道 序文)
そしてまた今朝は、ミャンマーにある日本大使館で
大使の料理番をしているK君が訪ねてきた。
ほんとうにどうにかなっているのかな・・・・
15年ほど前、ぼくのところでコック見習として働いていたが
その後、ヨーロッパ各地で修行を積み現在に至っている。
一週間の休暇をもらって一年ぶりの帰国。

ミャンマーの政治情勢やサイクロンの被害のあと
各国からの支援物資が、
最も必要とされるところに行渡っていない現状など
いろいろ教えてくれて、随分と逞しくなった。
あと5年ぐらい海外で修行し、その後は日本で店を持ちたいと言う。
ラグビー選手のように大きな体をしていて
礼儀正しく頼もしい青年である。


     
湯音忍ばせ蟲の世へ凭れけり


鍵やぁー!!

2008-10-05 10:50:57 | 日記・エッセイ・コラム

「日光秋の花火」に出かけた。

途中のスーパーで食料を調達し
これが亦 楽しみの一つで連れ合いはワンカップを買う。

秋とは言えど日光はすでに冬。
開始1時間前だが、もう沢山の人が集まってきている。
完全防寒仕度を整え
草むらに停めた車のトランクを開き
荷台にテーブルクロスを敷けば立派な食卓となり
買ってきたものを並べる。

 海苔巻き おにぎり 鳥のから揚げ 
 ギョーザ 焼きそば コロッケ 梨など
なんとも統一性のない変てこなミニ・バイキング・・・・・?
3人が其々好きなものを買うことにしたら、こうなってしまった。
花より団子の譬えもあるように、これも今夜のイベントの一つ
夜のピクニックのようでなかなか風流である。

ゆっくり食事を楽しんだあとは
大谷川の土手に陣取り、花火の開始を待つばかり。
毎年来ているので特等席はすっかり心得ている。

すぐ足元から打ち上げられるスターマインは壮観!
光と音に体をつらぬかれ歓声とも悲鳴とも・・・喉カラカラ。
約60分間、3500発の連続打ち上げ

フィナーレは宗家鍵屋15代目天野安喜子によるスターマイン
「飛翔」。
三日月の煌々と耀く晩秋の夜空に
つぎからつぎへと弾ける金色の大輪。
降りそそぐ金粉にいまにも焼け焦げそうだ。
 鍵やぁー!!
華麗さと女性らしい繊細さのみごとな作品・・・・
この一発だけでも充分に満足である。

   
大花火たまひが闇を駆けのぼる


百年後の詩

2008-10-02 12:50:14 | 日記・エッセイ・コラム

「百年後の詩はどうなっているか?」 
という設問のアンケートが詩人クラブから届いた。
なかなか興味深い企画、
現在活躍している詩人たちの誰もがその結果を
見届けることはできないところにこの企画の面白さがある。

未来を想像するには過去を知るのも一つの手だてである。
百年昔の1908年は『人を恋うる歌』が流行した。
与謝野鉄幹による作詞、紹介しよう。

   妻をめとらば才たけて
   みめうるわしく情ある
   友をえらばば書を読みて
   六分の侠気四分の熱

   恋のいのちをたずぬれば
   名を惜しむかな男の子ゆえ
   友の情をたずぬれば
   義のあるところ火をも踏む

   ああわれコレッジの奇才なく
   バイロン ハイネの熱なきも
   石をいだきて野にうたう
   芭蕉のさびをよろこばず

ぼくらの世代なら誰もが口ずさんだことのある青春の歌だが
時代は特にこの百年、加速度をもって目まぐるしく変化し
未来予想の参考にはなりえない。
しかし、未来とは人間が望んだとおりになるものだから
今、ぼくの心に描いていることを開いてみよう。

百年後、世界の言語と貨幣は統一され一つになり
地上から戦争と貧困が無くなる。
社会性あるいは思想性を帯びた文学は
もはや意味を為さず
詩に於いては、より音楽的で直接魂に響くソウルフルな
吟遊詩が主流となる。
つまり百年後の詩は、詩の原点に帰っていくことになるだろう。

    
老いらくの恋の火種ぞ曼珠沙華