はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

科学博物館「ミイラ」展

2020年01月19日 | 美術館・博物館

2020/01/19

 

ついにミイラ展に行ってきました。

 

ある知的な方が、ミイラ展がいかに素晴らしかったかを熱く語っていたこと、11月に上野に「ハプスブルク展」を見に行ったときにも、すぐそばでミイラ展をやっているのを見て、次はミイラ展に行かなくてはと思ったのです。

でも、実際にはあまりミイラは好きではない、それほどの興味がない、ちょっと怖い、見ても楽しくないかも、という気がしていました。

が、新しい発見があるかもしれない、話のネタとしてと思って、行ってきました。

結論を言うとね、新しい発見はそれほどなかったかな。TBSの紹介番組を見ていたこともあるし、番組のとおりだったという感じ。

これは人によって、さまざまに発見があるでしょうけれどもね。

なぜ、ミイラを作るのかということについても、単純に疑問が残ったなあ。

エジプトの『死者の書』によると、古代エジプト人にとってミイラとなることは、来世で幸福に生きるために必要不可欠なものと考えられていたとのこと。

インカのミイラは親しい人が死んだ場合、その人がずっと自分たちを見守ってくれるように死体を残した。エジプトでは死後の魂が戻ってきたときに、自分の体がなくなっていると困るので、体を残しておいたという。

親しかった人も、好きだった人も、その肉体が黒い塊になって変形しても変わらずその思いを抱き続けられるのかな。

死後、元のままの溌溂とした生命力あふれる体に戻ってくるならいいけれど、こんなミイラに戻ってきたいかという素朴な疑問。

昔は死が身近で、人々は親しい人が死んでいくのを現代人よりもっと見ていたと思うけれど、それでも後に残った者たちは死体に気持ち悪い、恐ろしいという感覚はなかったのかなあ。

今は死が隠され、タブー視されているところがあるけれど、昔の人にとって死は、あるいは死体はどんな存在だったのだろうと思ったのですよ。

死は誰でも通る道、避けて通れないので、人はどんなふうに死んでいくのか、死んだら自分の体はどうなるのか、ということは生きているかぎり人類の知りたい疑問でもあると思うのよね。

行く前は、もっと厳粛な死生観、原始的な宗教観というものを頭に描いて出かけたのですが、見ている観客たち(若い人や若い家族連れが多かった)は、軽口を飛ばし、何年物のハブ酒だなとか、内臓を入れる壺を見て、「これなら入れてもいいな」(たぶん自分の内臓もという意味かと)などと言っているのに、私は少々驚いた。

むろん、科学、文化人類学の探求として、あるいは好奇の対象の「見もの」として楽しんで見ることになんら異議は唱えないけれど、死者の尊厳とかは違うものなんだなと感じました。もう物体ですね。そこに人の意識や感情は含めない。

若い人が多いのは、死に現実味がないのだなと思いました。いつもなら、こういう博物館は高齢者が多いのですが、ここは少なかったのは、自分の死がそれほど遠いものではないことや、身近な人を亡くす経験をしていることが多いだろうからと感じたのですよ。

長い人類の歴史の中で、ミイラを作るということは、ほんの一コマの時代、地域も限られているから、ある時代、ある地域の奇習と言えるかもしれない。

日本のミイラは本草学者が意図的に自分をミイラにした事例、高僧の即身仏の展示もありましたよ。そういうのは宗教観や精神性が感じられましたが。

ミイラは大切な文化遺産という考え方も、なるほどと思いますけどね、人の願いがこもっている営みですから。

「ミイラ」展は2月24日まで、国立科学博物館で。

 

公式サイト  https://www.tbs.co.jp/miira2019/

 

 

コメント
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