顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

久慈城…落城の歴史は謎?

2021年03月08日 | 歴史散歩
日立市久慈町の久慈城は佐竹氏が久慈川の河口に築いた城といわれていますが、その歴史は明らかにされていません。永禄5年(1562)に宇佐美三九郎が城主であった時に、陸奥の国の相馬盛胤の攻撃を受け、城が未完成であったため落城したとされます。これには異論がありますが、約7キロ北の常陸多賀駅の近くに相馬碑というのが建っており、1562年相馬胤盛の軍が佐竹義昭の軍と戦って討ち死にした将兵の供養碑で、相馬藩主が参勤交代でこの地を通るときは懇ろに拝礼したという話も残っているそうです。

真偽のほどは不明ですが、いずれにしてもここは佐竹氏の勢力圏、慶長年間(1596~1600)には佐竹北家当主の義憲が城主という記録が残っているそうです。しかし近辺の佐竹氏城館と同じように関ヶ原戦後の佐竹氏秋田移封の際に廃城となりました。

標高21m、比高20mほどの台地先端部を利用した平山城です。もともと北西部の台地から続いた台地が掘削されて新しい宿となったので、離山、新宿という地名が残っているそうです。

昭和40年代までの久慈川の流れは、河口手前で大きく北側に蛇行して久慈城の真下を通り、約2キロ先で太平洋に注いでいました。仙人の高校時代の海水浴の記憶にもその流れが残っています。

北西部には舟戸山共同墓地がありますが、ここが二の丸という説もあります。
墓地の阿弥陀堂の北側には舟戸山古墳があり、前方後円墳の後円部だけが残っていて、これが北西部を見下ろす絶好の二の丸物見台になっていたと思われます。6世紀ころの築造とされ、埴輪、鉄剣、箱式石棺などが発見されたそうです。

南北100m、東西50m位の主郭は杉が鬱蒼とした藪の中です。

西側の虎口と手前の土橋です。

本郭の西側から北側にかけて横堀が周っています。

主郭北西端に横矢張出しの櫓台が築かれています。

南側の虎口と土塁、現在その先は急峻な崖になっています。

西側の道路は茂宮川に下っていきます。ここに船付き場があったとされ、佐竹氏が海運と水運を管理した城であるという説もこの地形から頷ける気がします。

高い杉の木の茂る城跡に、直径25㎝以上もある鳥の巣が落ちていました。カラスにしては小型の巣、ビニール系の新建材も使われた現代の塒でした。