顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

笠間城 八幡台櫓(はちまんだいやぐら)

2017年07月18日 | 歴史散歩
櫓は、矢倉や矢蔵とも書き、城郭内に建てられた物見や防御のための建物で、平時は武器庫として使われました。笠間城には、天守櫓のほかに八幡台と宍ヶ崎に物見櫓がありましたが、八幡台櫓だけは明治13年(1880)に市内の真浄寺に移築、今は七面堂として使用されており、茨城県の重要文化財に指定されています。
     
碑木造二層の入母家造りで屋根は瓦葺き、外壁は白壁塗籠(ぬりごめ)といわれる江戸時代の城郭建築に使われた様式で、柱、貫、庇まで木地の見えないように全表面を塗っています。
 
笠間城は、鎌倉時代の初期に宇都宮氏一族の笠間時朝(1203~1265)が僧兵の争いに介入して佐白山頂に城を築いてから約650年間、歴代の笠間領主の居城となってきました。本丸の案内板にあった城郭図、自然の地形を利用した要害の山城であることがよくわかります。
江戸期には徳川譜代の城となり、関東ではめずらしく石垣造りで天守曲輪を持つ近世城郭に改修されました。自然の地形を利用した曲輪、空堀と櫓、門、橋、塀などによって「守るに易く、攻めるに難い」山城でした。大手門からの苔むした石段…、急ぎ足で登城する笠間武士の姿が目に浮かびます。
     
現在、堀の跡や石垣が残されています。山頂の天守曲輪には、佐志能(さしのう)神社があります。この一画は大震災の被害によりシートで覆われていたり、立ち入り禁止の場所もありましたが、復旧の気配はまだ感じられませんでした。写真は天守閣への石段、勾配がいちだんと急になります。
     
ここが櫓のあった八幡台跡です。4月14日撮影時には、桜の花が散っていました。城跡には桜の花がやはりよく似合います。

ニイニイゼミ

2017年07月16日 | 日記
2階の網戸に止まったセミが動きません。こぶりな姿から、図鑑で見ると多分ニイニイゼミ?…私には耳鳴りのように聞こえる、チージーという地味な鳴き声のセミで、他のセミよりは少し早めに鳴き始めます。

よくセミの一生と言われますが、ニイニイゼミも夏の終わりに木に産み付けられた卵が翌年の春には孵化して地中にもぐります。そこから4~5年間も土の中で生き、やがて地上に出て羽化し成虫に…、我が世の夏を謳歌して歌いまくり約1ヶ月の一生を終わります。
やがてこのニイニイゼミも、もうひと鳴きと飛び立っていきました。

さて、芭蕉の有名な句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」のセミは何ゼミ?という論争が1926年から1932年にいたるまで、アブラゼミ派の斎藤茂吉とニイニイゼミ派の小宮豊隆の間で起こり、最終的には現地のその時期のセミの数を調べ、ニイニイゼミに軍配があがったそうです。

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  芭蕉
耳奥にニイニイゼミの二つ住む  顎髭仙人

暑中お見舞い申し上げます

2017年07月15日 | 日記

去年プランターで咲いた絞り模様の朝顔が、こぼれタネで10本くらい出て来ました。たまたま新調したスダレと相まって、暑中見舞いの典型的な図柄の写真となりました。
葉の形がハート型のマルバアサガオの種類でしょうが、特に決まった名前はなく、生産販売者による名前がいろいろあるようです。

もともとアサガオは、奈良時代に中国から渡ってきたもので、貴族が薬草(便秘利尿剤)として用いていました。やがて観賞用として室町時代以後、庶民の間に少しずつ広がり、江戸後期の文化文政時代になると、変化アサガオが大流行しました。
アサガオは種子でしか増やすことができない一年生の植物ですが、変化アサガオでは種子を作らないものが多く、人工交配技術のない当時の人達は何百鉢という大量のアサガオを同じ場所で栽培し、自然交雑をして出物をひたすら待ちました。
七夕の時期に行われる入谷の朝顔市も、文化文政時代に御徒町の下級武士の間で盛んに栽培されていたのがルーツのようです。

アサガオの季語は秋、これは旧暦による分類のためで、中には夏の季語とする俳句団体もあります。

朝顔やおもひを遂げしごとしぼむ  日野草城
朝顔にまた明日迄の命哉  正岡子規

常陸国府跡周辺 (石岡市)

2017年07月12日 | 歴史散歩
常陸国府の成立は、7世紀後半から8世紀初頭とされ、国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していました。
国府の中心である国衙の所在地は、石岡小学校付近で、当時、北に常陸国分寺や常陸国分尼寺、南に総社(常陸國總社宮)が配置されました。11世紀までの約300年間国府として機能し、天慶2年(939)平将門の反乱により焼失、一時廃墟となりましたが、その後は常陸大掾氏の居城、府中城が築かれ、天正18年(1590)に佐竹義宣に攻略されるまで続きました。江戸時代になって、水戸藩御連枝の常陸府中藩2万石の陣屋が配置されたのもこの一画です。

現在残っているのは、土塁の一部だけ、国衙跡の遺跡は今でも石岡小学校校庭の下に眠っています。

土塁跡に何故か舟塚古墳で発掘された石棺が置かれています。5世紀後半築造とされる県内随一の古墳で国府以前の遺物ですが、そばに石岡民俗資料館があるので、その展示の一部なのかもしれません。

常陸国総社宮


総社とは、それぞれの国に鎮まる八百万の神々を国衙近くの一ヶ所に合祀した神社で、全国で55社が確認されています。
国府の長官、国司の重要な任務の一つに,国内の神社の管理と祭事の運営とがあり、新しく就任すると,国内の各神社を訪れて神々を参拝する神拝という行事がありましたが,これを簡略にするため神々を一同に集め祀ったのが総社でした。

本殿は寛永4年(1627)に建造され、天和3年(1683)に修繕の記録が残っています。なお、関東三大祭と言われる「石岡のおまつり」は正式には「常陸國總社宮例大祭」といい、毎年約40万人の見物客で賑わいます。

境内で一番古い建物の隋神門には石岡市指定文化財で延宝8年(1680)作とされる寄木造りの隋身像(左大臣・右大臣)が鎮座しています。

常陸国分寺

奈良時代の天平13年(741)3月に聖武天皇の勅令で全国66カ国の各国毎に建立された国分寺のうちの1つとされます。(下記写真は本堂です)

天慶2年(939)平将門の乱の兵火により焼失し一時衰退しましたがその後再興され中世は府中城を居城とした大掾氏が庇護し寺運も隆盛、しかし、天正年間(1573~1593年)に大掾氏と佐竹氏の争いによって再び焼失し荒廃しました。(下記写真は薬師堂です)

慶長年間(1596~1615年)に菩提山千手院来高寺の末寺として再興を果たし幕府からも庇護を受け徳川家康から寺領30石を安堵され元禄年間(1688~1704年)には本堂などが再建され再び隆盛しています。明治41年(1908)に火災により多くの堂宇が焼失し被害を受けましたが、大正8年(1919)に廃寺となった千手院が常陸国分寺に合併し現在の国分寺として改めて創建されています。(下記写真は山門です)

現在の山門は寛保3年(1743)に旧千手院の山門として建てられた建物で、向唐門、茅葺、江戸時代中期の寺院山門建築の遺構として石岡市文化財に指定されています。

いま手元に天平の甍だという国分寺の瓦の欠片があります。国分寺建立は奈良時代の天平勝宝2年(750)ですが、その後度々の戦乱に会っているので、果たして天平の甍かどうかは疑問です。しかし、猛火で変色した布目瓦は、しばし空想の世界に遊ばしてくれるのは確かです。

ネジバナ(捩花)は、右巻き?左巻き?

2017年07月09日 | 季節の花

ラン科の一員でモジズリ(捩摺)、ネジリバナともいわれます。
ねじれ方は右巻きと左巻きの両方があり、その比率は大体同じで、中にはねじれないものもあるというのが定説です。写真左にあるのが下から見て右巻(時計回り)、右にあるのは左巻き、次の写真には右巻き、左巻きと、真ん中にはねじれない花もあります。

上越地方の中学生の研究発表によると、試料620本で、左巻き335本、右巻き259本、巻かないもの26本、そして平均巻数3.92回数という結果が出ています。なぜか左ねじれが多いのは、太陽の動きが左ねじれに合っているからと面白い推論をしています。

「みちのくのしのぶもぢずり たれゆゑに乱れそめにし われならなくに」  古今集 巻十四・恋四(七二四) 源 融

古今集の有名なこの句は、別名モジズリの名から、身をよじるほどの恋心にたとえたものであるとの解釈もありましたが、この場合は「信夫毛地摺」という信夫(福島市)で生産された草木染めの織物で、「信夫」に「忍ぶ」や「偲ぶ」をかけ、「信夫毛地摺の模様のように心が乱れるのはあなたのせいよ」と解釈するのが一般的なようです。