常陸国府の成立は、7世紀後半から8世紀初頭とされ、国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していました。
国府の中心である国衙の所在地は、石岡小学校付近で、当時、北に常陸国分寺や常陸国分尼寺、南に総社(常陸國總社宮)が配置されました。11世紀までの約300年間国府として機能し、天慶2年(939)平将門の反乱により焼失、一時廃墟となりましたが、その後は常陸大掾氏の居城、府中城が築かれ、天正18年(1590)に佐竹義宣に攻略されるまで続きました。江戸時代になって、水戸藩御連枝の常陸府中藩2万石の陣屋が配置されたのもこの一画です。
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現在残っているのは、土塁の一部だけ、国衙跡の遺跡は今でも石岡小学校校庭の下に眠っています。
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土塁跡に何故か舟塚古墳で発掘された石棺が置かれています。5世紀後半築造とされる県内随一の古墳で国府以前の遺物ですが、そばに石岡民俗資料館があるので、その展示の一部なのかもしれません。
常陸国総社宮
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総社とは、それぞれの国に鎮まる八百万の神々を国衙近くの一ヶ所に合祀した神社で、全国で55社が確認されています。
国府の長官、国司の重要な任務の一つに,国内の神社の管理と祭事の運営とがあり、新しく就任すると,国内の各神社を訪れて神々を参拝する神拝という行事がありましたが,これを簡略にするため神々を一同に集め祀ったのが総社でした。
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本殿は寛永4年(1627)に建造され、天和3年(1683)に修繕の記録が残っています。なお、関東三大祭と言われる「石岡のおまつり」は正式には「常陸國總社宮例大祭」といい、毎年約40万人の見物客で賑わいます。
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境内で一番古い建物の隋神門には石岡市指定文化財で延宝8年(1680)作とされる寄木造りの隋身像(左大臣・右大臣)が鎮座しています。
常陸国分寺
奈良時代の天平13年(741)3月に聖武天皇の勅令で全国66カ国の各国毎に建立された国分寺のうちの1つとされます。(下記写真は本堂です)
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天慶2年(939)平将門の乱の兵火により焼失し一時衰退しましたがその後再興され中世は府中城を居城とした大掾氏が庇護し寺運も隆盛、しかし、天正年間(1573~1593年)に大掾氏と佐竹氏の争いによって再び焼失し荒廃しました。(下記写真は薬師堂です)
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慶長年間(1596~1615年)に菩提山千手院来高寺の末寺として再興を果たし幕府からも庇護を受け徳川家康から寺領30石を安堵され元禄年間(1688~1704年)には本堂などが再建され再び隆盛しています。明治41年(1908)に火災により多くの堂宇が焼失し被害を受けましたが、大正8年(1919)に廃寺となった千手院が常陸国分寺に合併し現在の国分寺として改めて創建されています。(下記写真は山門です)
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現在の山門は寛保3年(1743)に旧千手院の山門として建てられた建物で、向唐門、茅葺、江戸時代中期の寺院山門建築の遺構として石岡市文化財に指定されています。
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いま手元に天平の甍だという国分寺の瓦の欠片があります。国分寺建立は奈良時代の天平勝宝2年(750)ですが、その後度々の戦乱に会っているので、果たして天平の甍かどうかは疑問です。しかし、猛火で変色した布目瓦は、しばし空想の世界に遊ばしてくれるのは確かです。