顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

いろんな名前の梅の花…水戸市植物公園

2021年03月12日 | 水戸の観光

水戸市植物公園では、水戸の梅まつりに合わせて3月21日まで園内の梅林を特別公開しており、花を愛でる「花梅」が100種以上あるという西川園長の動画も配信されています。初めて見る梅もありましたのでその一部をご紹介いたします。

古郷の錦」  李系難波性  上品な薄紅色が好まれて、盆栽などにも人気の品種です。

残雪」  野梅系  まだ雪が残る中で咲き、まるで雪ののような際立った白が命名の由来でしょうか。

五節の舞」   李系紅材性  鮮やかな濃紅色と白くて長い雄蕊が特徴です。
「五節(ごせち)舞」とは、宮廷で舞われる唯一の女舞で十二単に檜扇をもつ5人の女性によって奏されるそうです。

司絞り」  李系難波性   紅い絞りがかすかに見えます。紅白咲き分けにもなるそうです。

司絞り虎斑」   司絞りの変種?…虎斑(とらふ)とは、虎の毛の横縞のような模様のこと、盆栽の松に葉に縞々の模様が入る虎斑松がありますが、この時期梅の葉の確認はできません。

夏衣」  李系紅材性  内側が濃い紫紅色、梅では異色の艶麗な花色と図鑑には出ています。

通小町」  野梅系  雄蕊は長くて黄色いのが特徴です。
通(かよい)小町という謡曲の演目に、百夜通いして精根尽きた深草少将の霊が死後も小野小町の霊を追いますが、僧の回向で成仏する話があるそうです。

高砂」  杏系豊後性  図鑑には大宰府天満宮の銘品と載っています。高砂とは、高砂の浦の老松の精が相生(あいおい・夫婦がともに長生きすること)の老夫婦になって現れたという故事にならった能楽曲で、婚礼などの祝儀で謡われます。

黄金梅(おうごんばい)」  野梅系  黄色がかった細い花弁と長い雄蕊、梅花とは思えないような姿です。秩父地方で産出し青梅で命名されたと伝わります。

黄金鶴(こがねづる)」  野梅系  梅花名品集に珍品種として初めて記載されたと出ています。40枚以上の黄色い花弁が波打ち、雌蕊が蕾から飛び出している異様な姿で、開花するのに日数がかかるということです。

雪山枝垂れ」   万博記念公園にもあるそうですが、詳細は分かりません。枝垂(しだれ)と雪崩(なだれ)は一字違い、間違うと大変です。

蝶の羽重」   杏系豊後性  重なった花弁が乱れ、なんとも艶やかで名前の通りのイメージです。

雪月花」  野梅系  花の形がよく、銘品であると図鑑に出ています。四季おりおりの風雅な眺めである「雪月花」のすべてを併せ持つ美しさというような命名でしょうか。

八重海棠」  杏系紅筆性  花が下向きに咲くハナカイドウ(花海棠)に似ているので付けられた名前のようです。写真では横向きですが…。

雲井」   杏系豊後性  花底に向かって紅色が淡くなります。雲井には雲のある大空や、宮中、皇居などの意味があります。また、福岡藩十代藩主黒田斉清の「諫言褒美・雲井の梅」という逸話も残っているようです。

名前を見て梅の花を見ると、付けた先人の思いが分かるような花もあり、何かと想像が膨らみますが命名者、命名由来、時期についてはもちろん知る由もありません。

中国原産の梅は、水田稲作技術と同じ頃に日本に渡来したといわれ、やがて武士社会になると実用面に加え、春にさきがけて芳香を放つその精神面でも珍重されてきました。
水戸藩2代藩主徳川光圀公は、17世紀後半に上屋敷(小石川)に梅園をつくり、また旗本の春田久啓は数百株の梅を屋敷に蒐集して韻勝園と称し、約100種を写生、解説した「韻勝園梅譜」を文化8年(1811)に発刊しています。

写本や模写版もあるようですが、写生図の入っていないアマゾンkindle版がなんと110円で購入できました。(国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できます)
いま国内で梅の種類は約400種といわれます。現代でも流通している名前もこの「韻勝園梅譜」に多く記載されていますので、命名時期は相当古いものもあることは確かのようです。

久慈城…落城の歴史は謎?

2021年03月08日 | 歴史散歩
日立市久慈町の久慈城は佐竹氏が久慈川の河口に築いた城といわれていますが、その歴史は明らかにされていません。永禄5年(1562)に宇佐美三九郎が城主であった時に、陸奥の国の相馬盛胤の攻撃を受け、城が未完成であったため落城したとされます。これには異論がありますが、約7キロ北の常陸多賀駅の近くに相馬碑というのが建っており、1562年相馬胤盛の軍が佐竹義昭の軍と戦って討ち死にした将兵の供養碑で、相馬藩主が参勤交代でこの地を通るときは懇ろに拝礼したという話も残っているそうです。

真偽のほどは不明ですが、いずれにしてもここは佐竹氏の勢力圏、慶長年間(1596~1600)には佐竹北家当主の義憲が城主という記録が残っているそうです。しかし近辺の佐竹氏城館と同じように関ヶ原戦後の佐竹氏秋田移封の際に廃城となりました。

標高21m、比高20mほどの台地先端部を利用した平山城です。もともと北西部の台地から続いた台地が掘削されて新しい宿となったので、離山、新宿という地名が残っているそうです。

昭和40年代までの久慈川の流れは、河口手前で大きく北側に蛇行して久慈城の真下を通り、約2キロ先で太平洋に注いでいました。仙人の高校時代の海水浴の記憶にもその流れが残っています。

北西部には舟戸山共同墓地がありますが、ここが二の丸という説もあります。
墓地の阿弥陀堂の北側には舟戸山古墳があり、前方後円墳の後円部だけが残っていて、これが北西部を見下ろす絶好の二の丸物見台になっていたと思われます。6世紀ころの築造とされ、埴輪、鉄剣、箱式石棺などが発見されたそうです。

南北100m、東西50m位の主郭は杉が鬱蒼とした藪の中です。

西側の虎口と手前の土橋です。

本郭の西側から北側にかけて横堀が周っています。

主郭北西端に横矢張出しの櫓台が築かれています。

南側の虎口と土塁、現在その先は急峻な崖になっています。

西側の道路は茂宮川に下っていきます。ここに船付き場があったとされ、佐竹氏が海運と水運を管理した城であるという説もこの地形から頷ける気がします。

高い杉の木の茂る城跡に、直径25㎝以上もある鳥の巣が落ちていました。カラスにしては小型の巣、ビニール系の新建材も使われた現代の塒でした。

水戸の梅まつり2021…満開を迎えました!

2021年03月04日 | 水戸の観光

コロナ禍で少し遅れて開幕した水戸の梅まつり、会場の偕楽園と弘道館の梅林はほぼ満開になりました!冬を越していつものように明るい花を咲かせている梅が、今年は特にまぶしく感じられます。

ミスター偕楽園とよばれるYさんの情報で初お目見えの「家康梅」を撮りました。李系紅材性八重、徳川家康が11番目の男子、後の水戸藩初代藩主頼房の誕生を祝い駿府城に自ら植樹したとされ、その後久能山東照宮に植えられたと伝わる梅です。

大輪緑咢」は咢が緑色で付いた名前、青白色の八重の花弁が青空に透き通るようです。

名札は「緋桜」と付いていますが、桜と紛らわしいので「緋桜梅」のほうがいいとネットに出ていました。
確かに豪華な八重桜のイメージのある大輪です。

偕楽園に初お目見えした「華農玉蝶台閣」が咲いたという情報で翌日出かけたら、その朝の強霜で花弁が黄色く変色していました、残念。
「台閣」とは花の中にまた小さな花が咲く二段咲のことで、図鑑では「雌蕊が台閣状になる」と出ています。左側の花の真ん中に小さい蕾状のものが見えます。

八重唐梅」は李系紅材性、花弁の縁が白くなる「覆輪」という性質と下を向く咲き方が優雅です。

一重の「唐梅」も咲いていました。どちらかというと、一重の花が好きですが、唐梅に限っては八重の艶やかさに軍配を上げたい気もします。

偕楽園でも最小の花「米良」、形のいい花がびっしり咲くので江戸時代から盆栽などに好まれてきました。野梅系の結実品種です。

紅難波」は李系難波性の代表的品種です。上部の二輪に雄しべが花弁に変わる「旗弁」現象が見えます。

その「旗弁」から名前が付いた「紅千鳥」は、旗弁を千鳥が飛んでいるようだと見立てた命名ですが、松崎睦生著「水戸の梅と弘道館」には千鳥足のように乱れた花の形状からと載っていました。

名前は「養老」でも野梅系の実梅で、1個の重さ約25gの良果が生ります。

こちらも「」という名前ですが、野梅系の実梅で良果が結実します。

実梅といえば「南高梅」、明治時代に大きい梅の生る樹を見つけた高田貞楠氏と、それを優良品種として1951年に世に出した南部高校の校名に因んで名づけられました。

「底紅」という花の真ん中に薄紅色が出る「鈴鹿の関」は、人気の花です。仙人もかって盆栽で購入したことがありますが、夏の水やりの手を抜き、枯らしてしまいました。

背の高い「駒止」の一枝が垂れていたので撮れました。菅原道真を追って京都から大宰府まで飛んでいったという伝説の「飛梅」の子孫で、肥後の国の殿様があまりの美しさに馬を止めて見入ったという「肥後駒止」という紅梅があるそうですが、同じような名前の由来かもしれません。

今年も感染防止を心がけながらの観梅になってしまいましたが、いろんな梅の花を名札で探しながら満開の春をぜひお楽しみください。

桜田門外の変(3月3日)…参加の神官3名

2021年03月01日 | 歴史散歩

桜田門外の変は、安政7年(1860)3月3日(新暦では3月24日)に江戸城桜田門外で、水戸藩の脱藩者17名(うち神官3名)と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を暗殺した事件です。

前日夕刻に品川宿相模屋にて決別の酒杯を交わし、藩士、神官の身分に応じてそれぞれ除籍願いをしたためたといわれます。


その一人鯉淵要人(こいぶちかなめ)は、常陸国上古内村(城里町)の鹿島・諏訪神社の神官で幼い時より文武の道を好み、加倉井砂山、藤田東湖に師事、特に剣(神道無念流)に長じていたといわれます。

尊攘の運動に身を投じ、神官たちのリーダーである斎藤監物と行動を共にし桜田門外の変に参加、左翼から井伊直弼一行を襲撃しています。しかし深傷を負い歩行困難となり八代洲河岸にて自刃、遺体は塩漬けの上、小塚原回向院に仮埋葬されました。
辞世の句は、「君がため思ひを張りし梓弓ひきてゆるまじやまと魂」。享年50歳、参加の志士の中では最年長でした。

その後桜田門外変などの志士の遺体は改葬されることになり、文久3年(1863)11月丁重に洗い清められた遺体は羽二重の衣服で盛装されて長持ちに納められ、要人も11月28日に各村々からの奉仕の担ぎ手により威儀を正して先祖の地に埋葬されました。

墓名碑は小塚ヶ原回向院での法名「英節」、近在の人々がこぞって行列を迎えたといわれています。
辞世の句は、「君がため思ひを張りし梓弓ひきてゆるまじやまと魂」

しかし元治元年(1864)天狗党の乱以降、尊攘派が粛清された水戸藩内では、勢力を持った門閥派による尊攘派への弾圧が激しくなり、市川三左衛門派の農兵などによる打ち壊しが相次ぎました。子孫の神官さんのお話では、鯉渕家も襲われて家半分を壊されたそうで、今も残る柱の刀傷などを見せていただきました。

鹿島神社は社伝によると、祭りを司る神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が金鷲に駕って古内山に現れ、村人たちに武甕槌神降臨の地なり、社を建て従神の建御名方神・建葉槌神(たけはづちのかみ)の二神を配して祀るべしと託宣する。古の地名を鹿島の神に因んで「那賀郡鹿島郷古内村」と謂うと出ています。


もう一人の神官、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)は、常陸国本米崎村(那珂市)の三嶋神社の神官の四男として生まれました。

20歳の頃、水戸に出て剣術と砲術を学び、高橋多一郎や斎藤監物らの影響を受けて尊攘運動に参加し、安政6年(1859)戊午の密勅返納の命令が出ると長岡宿(茨城町)に屯集して返納を防ごうとしました。これが桜田門外の変につながり、当日は江戸城の堀に面した右翼から井伊直弼の駕籠を襲撃したといわれます。 

指を切り落とされながらも現場を脱した磋磯之介は、実兄粂之介の養子先の吉田八幡神社(常陸大宮市)の高野家に隠れ、さらに菊池剛蔵と名を変え会津や越後に潜伏、明治維新後は警視庁や茨城県警などに勤務し、神官を経て明治36年(1903)没、享年76歳。

吉田八幡神社は、久寿2年(1155)相模国三浦大介義明が植えたと伝わる、樹高約58mの三浦杉で知られています。磋磯之介は当初屋敷内の「神座」という部屋に匿われましたが、探索が厳しくなるとこの裏山に潜み、兄がこっそり食料などを届けたと伝わります。

墓は、水戸藩2代藩主徳川光圀公が藩士のために創設した常磐共有墓地にあります。
襲撃実行者で明治まで生き残ったのは増子金八と磋磯之介の二人だけです。
なお、教育学者の海後宗臣氏の祖父になります。


本米崎三島神の祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)で創建は708~715年頃といわれます。
この地の地名である海後から推察しても、当時の久慈川は今より川幅が広く神社のすぐ下まで汽水域が来ていたため、ここが久慈川を渡る奥州への街道の中継地になり、その守り神として時の権力者の崇敬を集めていたと思われます。

参道脇のスダジイは推定樹齢800年、樹高17m、目通り9.2m…、磋磯之介も毎日見上げていた大木です。

※参加したもう一人の神官、斎藤監物は拙ブログ「斎藤監物と静神社 2020.5.27」で紹介させていただきました。