ゆきんこブログ

月刊ガソリンスタンド誌
『変化と試練が、人と企業を強くする』
連載中!

暑かったですね。政治も暑いです。

2007年09月17日 19時27分15秒 | Weblog
昨日、今日と二日間ゴルフでした。
昨日も暑かったけど、今日の暑さは真夏に戻ったような陽気でした。

スタート前の朝のゴルフ場のサロンに集うお歴々は、それぞれ皆が興奮気味で政治評論家のようでした。
まるで「時事放談」のような騒ぎで福田総理誕生を喜んでいるようです、それぞれが何かで関わり合いがあったりして、福田さんの人格については熟知しています。
ここは、小選挙区制になっても福田康夫さんの選挙区ですから当たり前といえば当たり前の話です。

なにしろ一週間前までは何もなかったのに今となってはこの騒ぎ、選挙ならゴルフどころではない訳ですが、何をしたらいいのか判らない。ゴルフ場のサロンのテレビにかじりついては政治談議で、スタート時間になって呼び出される人が多いのです。

昭和48年の第一次オイルショックの時、私は25歳。当時福田さんと地域特産物のこんにゃく乾燥用A重油の確保に奔走したものです。なにしろ、こんにゃく玉は早く乾燥しなくては腐ってしまいます。当時は天日乾燥からA重油に切り替わった頃で農家やコンニャク業者にとっては生活が掛かっていたのです。

福田さんは当時丸善石油の社員でした。
電話が掛かってきて、地元のこんにゃく農家を心配してコンニャク用A重油を何とか調達するから君がドラム缶に分けて配ってくれとの指示でした。SSを閉めて300㌔のA重油をローリーからドラム缶に分けて配布する作業を行いました。ドラム缶を集めるのも大変な作業でしたが、ローリーからドラム取りをする作業は本当に大変でした。

とても、300㌔くらいでは不足していましたが、それでも福田さんや秘書の方と何とか作業を終わりましたが作業着を着ていたので誰も福田さんに気付かなかったのです。もちろん福田赳夫先生は誰でも知っていたのですが、康夫さんを知っていたのは数人だけで、後で食べた握り飯が美味かった。

その時は、組合に対しての販売という事で、一切の利益を出さずに提供したのです。もちろん私の会社も労働奉仕でした。しかし、その後福田ファンが増えてガソリンの販売量も増えました。

後になって、父上の福田赳夫先生に地元の多くの人たちが福田康夫さんの行動についてお礼を言ったのですが、「ふ~~~ん、康夫が地元のためにそんな事をしていたのかい・・・」といって嬉しそうにニヤニヤしていたと父や有力者の方が報告しました。

懐かしい、「あの頃」の思い出です。

政治家としては、控え目な「らしくない政治家」だと思っていたのですが、ここ数日はテレビに出ている福田康夫さんを見ていると、なにか、吹っ切れたような決意の表情です。

まさに、「上善水如(じょうぜんみずのごとし)」

石油業界出身の総理大臣が誕生

2007年09月17日 08時02分31秒 | Weblog
安倍総理の辞職から激変した政治情勢。
こんな短期間に凄い事が起こっています。

「あの福田康夫さん」が総理大臣ですか・・・

想えば、三十年以上も前の話、私は、学生運動で大学を首になり、群馬県の全国一の高齢化のド田舎で当時の丸善石油の販売店である「小さなガソリンスタンド」を親父から事業継承しました。

当時の丸善石油は「赤字のツバメが左前に飛んでいく」なんて、云われていました。当時でSSを30店舗も所有していた地域ナンバーワン特約店の傘下に入っておりました。当時の30店舗なんてすごいものでした。
ところが、その特約店が経営破たんして、今でいう「元売販社」が誕生した訳です。

群馬、長野の丸善石油のサブ店40社はいつの間にやら、北関東石油という元売り販社の系列化販売店に移行することになったわけなのですが、田舎の事ですから大変な騒ぎで紛糾したものです。
「ツバメ会」という販売店会がありまして、私の親父が会長であちこちの経営者に面談しながら何とか円満に移行が完了しました。
考えれば、マーク換えではなくて系列内での移行ですから大したことはないのですが各販売店は「こんな時」とばかりいろいろな条件をつけたり大変な騒ぎだったようです。

そんな騒動のなか、丸善石油の県担当と同行して「福田」という社員が頻繁に来訪するようになりました。おとなしい人で、どんな小さな販売店の社長の話でも静かによく聞いてくれました。
田舎の事とて私の自宅などでつくる上州名物の「お切り込み」といううどんの煮込み(長野、山梨では「ほうとう」とも呼ぶ煮込みうどん)などを父と一緒においしそうに食べていたのが印象的でしたね。

最初は、福田赳夫先生の御子息である事も名乗らずに、しばらく経ってから判ったくらいでした。

当時私のSSは、100㌔SSになっておりました。当時の100㌔SSといえばたいしたものでした。新たに丸善石油の直営SSを一か所買収して経営するようにと勧められ、600坪もある地域の看板SSを不動さんと設備込みで買収することになりました。その事が私がSS経営者となる本格スタートでした。

福田康夫さんは非常に公正な考え方の人でした。
その後福田さんとの交友の中で石油業界の色々な人達と知り合いました。
福田さんが丸善石油を退社して石油業界から足を洗ったのはお父さんの福田赳夫先生が総理大臣になる時でした。

かれは律儀にも退社の挨拶にきまして、内閣秘書官に就任するという事で父がお餞別を渡そうとすると固辞していました。父が怒って一万円だけという事で受け取ったのが印象的でした。あれだけ付き合っていてもお金には本当にキレイな方でした。

あの誠実な方ですから「身体検査」をしても何もない事は確実だと思っています。

しばらく経って私がSSのそばに最初の「焼肉レストラン」を作った時には、選挙区を廻ってくると、知らない間に焼肉を食べていたりしてビックリしたものです。

本当に、色々な事がありました。
20年も前に友人が中国の経済特区に工場を作った時など、一緒にお祝いに香港まで出掛けたのですが、自分だけファーストクラスではという事でいつの間にやら私までファーストクラスにセットしてくれました。私が差額を払うというと「一万円でいいよ」と細かい気配りのある方です。決してタダにせず、友人の顔を立てる気配り。本当に素晴らしいバランス感覚です。

はっきり言って、福田康夫という方はあまり政治家には向いていないと感じた時もあるくらい庶民的で毅然とした感覚をお持ちなのです。政治家が福田さんになびく理由がよく判ります。

たしか、福田さんが石油業界を離れたのは40歳の頃でした。現在71歳ということですからあれから30年。石油業界は大きく変わりました。

福田さんは、石油輸入を通じて中東やアジア情勢にも詳しい国際派です。

石油業界出身の総理大臣です。

頑張ってください!!