昨日、朝5時半にお寺を出て、井原線、福塩線、新幹線と乗り継ぎ、京阪神方面5軒の檀家さんのお宅に伺って、お盆のお参りをさせていただいた。毎年のことではあるけれども、一日中電車に揺られ、お参りするのは楽ではない。
昨年までは大阪の街での風紀の乱れに目がついたものだが、今年はなぜか若者たちもあまり元気がないなと、みんなこの陽気のせいなのか、それとも過酷なまでに国民から搾り取ろうとするこの国のえげつなさに辟易しているのか、大阪の街に沈滞した雰囲気を感じた。
ところで、最後に伺ったお宅で、若奥さんから、ある新興宗教について質問があった。真言宗を語り、京都の大寺にその開祖のお堂まであるというその団体について知っているかとのことであった。盛んに近くの知り合いから誘われるがどうしたものかということだった。
その団体は、開祖が真言宗でかつて少し修行らしきことをして、霊感を得て、人を見るようになり、ある特定の仏典を信奉して信者を拡大している。それほど大きな問題を起こしている新興宗教ではないが、霊能者になるための修行を真言宗の修行体系から一部拝借したようなものをさせて、地位を与え、霊能者は信者の相談事に様々な細かな指示、アドバイスを与えていき、終いには、信者たちを霊能者に指図されなければ何も出来ないような状態にして、すべて教団の思いのままに信者を動かしていくようになっているようだ。
実際に、私の知り合いが、結婚まで考えていた女性がこの団体に誘われ、知り合いは正式に入会することを拒んだためか、結局、霊能者の反対から結婚を諦めるようなことになったケースがある。
宗教とは、物を考えられなくなる人間を作り出すためにあるのではない。本来はその逆で、正しい教えに基づいて、自らのしっかりした、冷静な、理知的な、科学的な判断が出来るように導くものであらねばならない。誰かに何かあると聞かねば自ら判断できないということでは、宗教の意味がない。
現在問題になっているキリスト教系の新興宗教の場合も、教祖の言いなりになるような人間をつくり、本来の宗教を逸脱した目的のために人を動かすことが目的であるかのようなお粗末な内容のようだ。
人は自ら悩み、苦しみ、葛藤することから解放されると、とても楽になる。自分を責めさいなむような事柄があっても、それを先祖や他の霊の仕業であるかのように信じこませて本人の自責の念を拭うことで楽になったりもする。
誰かが指図してくれる、それに随っていれば安らいでいられるという安穏の中にいる快感に囚われてしまうと、その中に逃げ込み、外の世界を必要としなくなってしまうこともあろう。外の世界の事々を全否定して、安逸な世界にどっぷりと浸る心地よさだけに我を忘れる。しかし、こんな白日夢のような状態に浸ることが宗教ではない。
宗教とは、この現実の世界を目をこらしてより良く見て、その本質に迫り、その醜さ、汚さ、いやらしさを現実のものとして受け入れ、その根本的な原因を探り、本来如何にあるべきかと自ら煩悶し、葛藤し、格闘することではないか。誰かにこうしなさいと言われて、その通り行うことが宗教であるはずがない。自己思考力、判断力、行動力を喪失させることが宗教であってはならない。
私たちは、自ら、悩み、苦しみ、もだえながら人として成長していくのではないか。そうしたとき、考え方の姿勢、何を大切にすべきか、私たちの理想とは何かを指し示してくれるもの、歩むべき道筋を指し示してくれるものが宗教ではないかと思う。私たちは、一人苦しむことから逃げてはいけない。苦しむことから何かを学ぶことを放棄してはいけない。
しかし、これは宗教だけの問題ではなく、新興宗教と関わりもない私たちも、時に趣味の世界に漬りきり、テレビゲームやパソコン、携帯メール、テレビ、ばかり見て多くの時間をやり過ごす。そうした人々も実は同じ事なのかもしれないと思う。本来自分のすべきことから逃げていることにはならないかと思うのだ。
もっともっと世の中のこと、政治のこと、雇用のあり方、税金の額や使われ方、なぜ国債ばかり増えていき、無駄遣いが無くならないのか、役人、議員ばかりが高給を取り、なぜ庶民の給料は減り続けているのか、それなのになぜ税金は上がるのか、天下りが問題になるのになぜ相変わらず億という報酬を手にするのか、なぜ日債銀や長銀が外国の金融機関の物になってしまったのか、なぜ郵政民営化なのか、なぜ自衛隊がイラクに派遣されねばならなかったのか、戦争はなぜ無くならないか。
なぜ難しい病気がこれほど蔓延するのか、なぜ気象異常が起こるか、なぜ残虐な事件が後を絶たないか、なぜ自殺者が増えるのか、なぜ家族がうまくいかないのか、なぜ人間関係がギクシャクしているのか、考え出せばきりがないほどに私たちを取り巻く切実な問題があり、私たちの生活と決して無関係なことではない。
なぜ私たちはそれなのにその考えを途中で止めてしまうのか。セックスとスポーツと、シネマ。3Sといわれるこれらのものに世界中の大衆が心を奪われるように、なるべく余計なことに関心を持たないように昔から洗脳され続けているという。
ある特定の宗教に関わりのある人だけが洗脳されているのではない。私たちは誰もがそのことに気づき、自らの足元から一つ一つ今の世の中の様々なことに疑問を持ち、自らなぜだと問い自分の頭で考えることも必要なことなのではないか。帰りの新幹線の車窓から景色をながめつつ、大阪の街の沈滞した空気についそんなことを思った。
昨年までは大阪の街での風紀の乱れに目がついたものだが、今年はなぜか若者たちもあまり元気がないなと、みんなこの陽気のせいなのか、それとも過酷なまでに国民から搾り取ろうとするこの国のえげつなさに辟易しているのか、大阪の街に沈滞した雰囲気を感じた。
ところで、最後に伺ったお宅で、若奥さんから、ある新興宗教について質問があった。真言宗を語り、京都の大寺にその開祖のお堂まであるというその団体について知っているかとのことであった。盛んに近くの知り合いから誘われるがどうしたものかということだった。
その団体は、開祖が真言宗でかつて少し修行らしきことをして、霊感を得て、人を見るようになり、ある特定の仏典を信奉して信者を拡大している。それほど大きな問題を起こしている新興宗教ではないが、霊能者になるための修行を真言宗の修行体系から一部拝借したようなものをさせて、地位を与え、霊能者は信者の相談事に様々な細かな指示、アドバイスを与えていき、終いには、信者たちを霊能者に指図されなければ何も出来ないような状態にして、すべて教団の思いのままに信者を動かしていくようになっているようだ。
実際に、私の知り合いが、結婚まで考えていた女性がこの団体に誘われ、知り合いは正式に入会することを拒んだためか、結局、霊能者の反対から結婚を諦めるようなことになったケースがある。
宗教とは、物を考えられなくなる人間を作り出すためにあるのではない。本来はその逆で、正しい教えに基づいて、自らのしっかりした、冷静な、理知的な、科学的な判断が出来るように導くものであらねばならない。誰かに何かあると聞かねば自ら判断できないということでは、宗教の意味がない。
現在問題になっているキリスト教系の新興宗教の場合も、教祖の言いなりになるような人間をつくり、本来の宗教を逸脱した目的のために人を動かすことが目的であるかのようなお粗末な内容のようだ。
人は自ら悩み、苦しみ、葛藤することから解放されると、とても楽になる。自分を責めさいなむような事柄があっても、それを先祖や他の霊の仕業であるかのように信じこませて本人の自責の念を拭うことで楽になったりもする。
誰かが指図してくれる、それに随っていれば安らいでいられるという安穏の中にいる快感に囚われてしまうと、その中に逃げ込み、外の世界を必要としなくなってしまうこともあろう。外の世界の事々を全否定して、安逸な世界にどっぷりと浸る心地よさだけに我を忘れる。しかし、こんな白日夢のような状態に浸ることが宗教ではない。
宗教とは、この現実の世界を目をこらしてより良く見て、その本質に迫り、その醜さ、汚さ、いやらしさを現実のものとして受け入れ、その根本的な原因を探り、本来如何にあるべきかと自ら煩悶し、葛藤し、格闘することではないか。誰かにこうしなさいと言われて、その通り行うことが宗教であるはずがない。自己思考力、判断力、行動力を喪失させることが宗教であってはならない。
私たちは、自ら、悩み、苦しみ、もだえながら人として成長していくのではないか。そうしたとき、考え方の姿勢、何を大切にすべきか、私たちの理想とは何かを指し示してくれるもの、歩むべき道筋を指し示してくれるものが宗教ではないかと思う。私たちは、一人苦しむことから逃げてはいけない。苦しむことから何かを学ぶことを放棄してはいけない。
しかし、これは宗教だけの問題ではなく、新興宗教と関わりもない私たちも、時に趣味の世界に漬りきり、テレビゲームやパソコン、携帯メール、テレビ、ばかり見て多くの時間をやり過ごす。そうした人々も実は同じ事なのかもしれないと思う。本来自分のすべきことから逃げていることにはならないかと思うのだ。
もっともっと世の中のこと、政治のこと、雇用のあり方、税金の額や使われ方、なぜ国債ばかり増えていき、無駄遣いが無くならないのか、役人、議員ばかりが高給を取り、なぜ庶民の給料は減り続けているのか、それなのになぜ税金は上がるのか、天下りが問題になるのになぜ相変わらず億という報酬を手にするのか、なぜ日債銀や長銀が外国の金融機関の物になってしまったのか、なぜ郵政民営化なのか、なぜ自衛隊がイラクに派遣されねばならなかったのか、戦争はなぜ無くならないか。
なぜ難しい病気がこれほど蔓延するのか、なぜ気象異常が起こるか、なぜ残虐な事件が後を絶たないか、なぜ自殺者が増えるのか、なぜ家族がうまくいかないのか、なぜ人間関係がギクシャクしているのか、考え出せばきりがないほどに私たちを取り巻く切実な問題があり、私たちの生活と決して無関係なことではない。
なぜ私たちはそれなのにその考えを途中で止めてしまうのか。セックスとスポーツと、シネマ。3Sといわれるこれらのものに世界中の大衆が心を奪われるように、なるべく余計なことに関心を持たないように昔から洗脳され続けているという。
ある特定の宗教に関わりのある人だけが洗脳されているのではない。私たちは誰もがそのことに気づき、自らの足元から一つ一つ今の世の中の様々なことに疑問を持ち、自らなぜだと問い自分の頭で考えることも必要なことなのではないか。帰りの新幹線の車窓から景色をながめつつ、大阪の街の沈滞した空気についそんなことを思った。
