住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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[大法輪版] はじめて比丘になった人 釋興然和上顕彰  

2006年08月19日 08時25分33秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、現在書店に並ぶ総合仏教月刊誌・大法輪9月号掲載同文の初稿です。是非、ご購入の上ご覧下さい! 大法輪誌は仏教雑誌の老舗。各宗派を網羅する内容で現代の諸問題にも言及している。9月号の特集は、「仏教生き方相談室・人生の悩みに仏教者が答える」)

 雲照律師と興然

ここに『釋尊正風』と題するB6版四十七ページの冊子がある。黄色い表紙の中央に金文字で釋尊正風とあり、その上にセイロン文字が記されている。著者は釋興然。知る人ぞ知る明治の混迷する仏教界から一人セイロンに渡航し、遂にわが国ではじめて南方上座仏教の正式な比丘(僧侶)になられたお方である。

内容は、当時の信仰の標準と統一のない仏教界の情況を憂えて、「明治維新が天皇陛下を崇め万民の心を帰一した如くに、仏教も真の仏教たる釈尊の教えに回帰して信仰と行動、目的を統一すべきである」と主張し、在家者にとっての教えの基本となる三帰五戒の本義を解説している。

冊子の発行は明治四十三年九月二十六日。発行者は東京小石川目白僧園草繫全宜と奥付にある。この目白僧園を興した明治の傑僧釋雲照律師は、この前年四月に歿している。興然は雲照の甥にあたり、出雲に生まれ十才で剃髪得度。明治維新を十九歳で迎え、神仏分離令をはじめとする仏教衰亡の機運に抗して、雲照が太政官に出頭し仏教護法の建白に奔走する頃から随順していた。

戦後大覚寺門跡となる草繫全宜師が著した『釋雲照』上編によれば、雲照は当時の真言宗の中にあって抜きんでた学徳と見識、かつ戒律を厳格に守る崇高なる人格を備えていた。雲照は、久邇宮殿下を上首と仰ぐ「十善会」を創始して、江戸中期の学僧慈雲尊者の唱えた「人となる道」としての十善戒を中心とする社会道徳の再建を計る。しかし、戒律よりも学問を優先する宗内の時流がこれを許さず、明治十八年東京に出て「目白僧園」を創設。戒律学校として若い持戒堅固な清僧の育成に励んだのであった。

興然はその頃既に横浜の三会寺に住職していた。興然はこの頃からインド渡航を志し、釈尊を最も強く思慕していたのではないか。『雲照・興然遺墨集(伊藤宏見編著)』第三部資料編によれば、興然は明治十六年本山にインド渡航を願い出ており、翌年にはセイロン留学とインド渡航の費用を統一真言宗の教育機関であった総黌の学費から捻出することを請願している。

明治十九年(一八八六)インド人からブッダガヤの地が荒廃しているとの情報に喚起された雲照は、仏教発祥の地が荒れていてはわが国の仏教が興隆しても無意味であると考え、直ちにインドへの憧憬を寄せる興然をセイロンに派遣する。

セイロンへ

同年十月コロンボ港に着いた興然は、セイロン南部最大の港町ゴール近郊カタルーワ村のランウエルレー・ヴィハーラ(金沙寺)で南方仏教の沙弥(見習僧)としてパーリ語の学習と仏道修行を開始。その一年余り後にはコロンボのヒッカドゥエ・スマンガラ大長老のもとに修行の場を移している。スマンガラ尊者は、シャム派の管長として同派最大の寺院ウィドヨーダヤ・ピリウエナ・ヴィハーラにあって、そこには百名余りの修学僧が寄宿する学林が併設されていた。興然もその一人に加えてもらったことになる。

そして渡航五年目の明治二十三年(一八九〇)六月九日、興然は南方仏教の正式な比丘になるため、キャンディのシャム派総本山マルワトゥ・ヴィハーラで、八人の受者の一人としてセイロンの古式にのっとり一度袈裟を脱ぎ、瓔珞、腕輪、指輪、摩尼で飾られた大礼の正装を着して象に跨り、数百人を超える楽団や歌謡隊、稚児たちの行列に先導され戒壇にいたった。そこで、俗服を脱して袈裟をまとい沙弥戒を改めて受け、それからスマンガラ尊者を大導師に具足戒(二二七戒)を授けられた。ここにコーゼン・グナラタナ比丘四十一歳。日本人としてはじめて南方上座仏教の比丘が誕生した。

前掲の『釋雲照』中編書簡集によれば、興然がセイロンに滞在すると、雲照は何度も書状で南方仏教の戒律について細かく問い質し、アジア各国の仏教の実情について質問している。また南北仏教の交流についても語っている。そして、興然は比丘になると、改めて御礼の意もあってか、スマンガラ尊者とセイロン比丘五名を日本に招請し、日本で南方相承の戒律を伝えん事を願い、雲照に旅費の周旋を乞うた。

これに対し雲照は、南北仏徒はお互いの欠を批難することなく、北方仏徒はその偏情を破するために南方の戒律を学ぶべきであって、南方仏徒は偏見を捨て大乗の経文、戒からも学ぶべきである、として南方仏教徒来日の心構えを書き送っている。この書状に興然は何を思ったであろうか。冒頭の冊子からうかがわれる興然の心情からして、おそらく純粋なる本然の仏教を自ら会得し、その僧団を日本に移植することを唯一絶対とする自分の考えとのギャップを感じ取っていたのではないだろうか。

興然は、この年の末インドの地に足を踏み入れている。そして翌明治二十四年(一八九一)、後にインド仏蹟復興に貢献するセイロン人ダルマパーラ居士とともにマドラス、サールナートを経由してブッダガヤに向かった。

 インド仏蹟復興運動

釈尊成道の聖地は当時ヒンドゥー教徒が所有し、大菩提寺の管理もその収益も彼らが握っていた。ダルマパーラと興然はこのブッダガヤの金剛座において強い霊感に打たれ、この地をヒンドゥー教徒から取り戻し、仏教徒の手によって最も神聖なる場として再生することを誓ったという。

興然はダルマパーラとともにマハントと呼ばれるシヴァ派の僧院長から聖地を買収するために、英領インドの地方長官に申し入れをした。興然は早速雲照と諸宗管長にあて、ブッダガヤの聖地買収に要する費用は概算で一万ルピー、日本円で約五千円、そのうち一千円を日本で募金したいと書き送っている。そして残りの四千円はダルマパーラがセイロン、シャム、ビルマから集めることになっていた。(米価換算によれば当時雲照らが集めた金一千円とは今の七百万円相当に値する)

同年十月三十一日ブッダガヤにて国際仏教会議が開かれ、セイロン、日本、中国、チッタゴンの代表が出席した。雲照から一千円を託され駆けつけた四谷の愛染院阿刀宥乗とともに日本の代表として出席した興然は、日本仏教徒がこの大菩提寺を買い取りたいと欲していることを報告。しかしこのとき熱心な日本称讃者であったダルマパーラは菩提樹下に仏旗とともに日本の国旗を掲げていた。

ベンガル副知事ら英国政府関係者たちは、その日章旗を見てアジアにおける日本の野望の一端と見る向きもあったと言われる。そのためか彼らは聖地の買収に関する交渉を拒否し、かつ英国政府からもブッダガヤを仏教徒の支配のために仲介することは出来ないとする回答が送られた来た。(『ダルマパーラの生涯』藤吉慈海訳)

ダルマパーラは大菩提会(the Maha Bodhi Society)を設立し、The Maha Bodhi Journalを発刊して世界に向けて仏教の宣布とブッダガヤの惨状を訴えた。明治二十六年(一八九三)九月にはシカゴで開催された万国宗教大会に南方仏教界の代表として招かれ、講演をなしている。

この会議には日本代表として、禅宗からは興然が滞在するセイロンの僧院で一時期ともに研鑽を重ねた釋宗演師が、また真言宗からは後に仁和門跡、高野山管長となる土宜法龍師が招待された。この翌年五月カルカッタで、法龍はダルマパーラと会談している。この時ダルマパーラは、ブッダガヤの大菩提寺の復興について聖地買収を既に諦め、近隣の土地を購入して寺院と学校を建て、そこから僧俗を参拝させ、いずれ大菩提寺の占有を進める算段を述べたという。

法龍はこの時、未だ聖地買収に可能性を模索していた日本関係者の認識との齟齬を後に『印度大陸旅行記(木母堂全集)』に記しているから、おそらく、日本に伝わっていた交渉内容と現地で実務者の得ていた感触とはかなりの相違があったのであろう。

興然はその辺りを知ってか、既にこの前年、つまり明治二十六年八月日本に向け帰還している。この翌年日清戦争が起きている。通信事情の調わない時代にあっては仕方ないこととは言え、この興然の帰国に関しては、日本側で組織してブッダガヤの土地買収資金の募金に当たった仏蹟復興会関係諸氏はじめ雲照も事情を飲み込めないままの慌ただしいものであったようだ。

そんなこともあってか、帰国後の興然と雲照は十年余り会っていない。日露戦争が始まる明治三十七年頃まで目白僧園の幹部らの思惑に幻惑され会えなかったと言われている。しかし、お互いに気安く会えなかった背景にはこのブッダガヤの聖地買収に係る行き違いと南北仏教の交流に関する認識の違いがあったのではないか。つづく
                                  
コメント (2)
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