釈尊正風会
いずれにせよ興然は南方仏教の比丘のまま三会寺に帰り着いた。この時、仏弟子大阿羅漢の舎利、貝多羅葉律蔵経論数巻、ビルマ三蔵パーリ聖教全部、出家三衣六物等数個、古画仏像数幅等を請来している。
そのひと月後十月十三日には真言宗長者宛に、セイロンより純粋なる具足戒を授かって帰国し如来正風の正規を実践修行するつもりであることを述べた『御届』を認めた上で、南方仏教の僧団を日本に移植すべく「釈尊正風会」を旗揚げした。
『釈尊正風会緒言』(明治二十六年十月十七日付)によれば、「釈迦牟尼の正嫡を継承して僧宝の欠乏を補い如来正風を拡張して蕩々たる弊風を救はん」と述べ、道心堅固なる者をセイロンに派遣し受戒具足せしめて日本僧宝の基礎となし、報恩謝徳のためインド仏蹟の復興を主たる事業としている。
会長には、興然がセイロンに留学する頃から関わりがあり、後に西園寺内閣の外務大臣となる林董が終生その任にあった。会員は当時第一級の知名人、学者、宗教者、地元農民を交え八百余名であった。
釈尊正風会は、受戒に要する五名の比丘僧団を組織すべく、第一期小島戒宝、第二期鳥家仁度、工藤敬愼、第三期向山亮雲、第四期吉松快祐ら各師がセイロンに派遣されていった。しかし興然ほどの一途な信念を貫くことの難しさからか、小島戒宝、向山亮雲は帰国後真言僧となり、工藤敬愼は語学に勝れ現地でセイロン語で説法までしたというが病に倒れてしまった。残るソービタ鳥家仁度、アーナンダ吉松快祐のみが比丘として留まった。
そうした中、興然は三会寺に真言宗中学林設立認可を申請したり、「三会寺法」という如来正風の律儀を根本にすえた律院としての規則を作り末寺に通達している。また印度仏教会と看板してパーリ語を教えたりしていた。
明治二十八年頃、後にチベットへ密入国を果たし貴重な経巻を多数もたらす河口慧海や禅を世界に宣布する鈴木大拙らも、三会寺でパーリ語やインド事情などを学んでいる。「当時三会寺はセイロン、インド、ビルマなどからの訪問客が多く、南アジア文化センターの観を呈していた」(『評伝河口慧海』奥山直司著)ようだ。
さらには近代印度哲学・仏教学の確立者である高楠順次郎博士や宗教学の創始者と言われる姉崎正治博士らもパーリ語について疑問があると学生を連れてよくやってきていたという(『雲照・興然遺墨集』三一二頁)。
ところで、昭和五十三年にパーリ文化研究会が三会寺のパーリ写本の調査をしている。日本では珍しくまとまったパーリ写本を拝観した会長の前田惠學教授は「興然師がスリランカでパーリ語の文法から学びはじめ、有名経典の多くやまた基本的な戒律から一部論蔵にまで研究が及んだことが分かる。特に戒律とサティパッターナの瞑想法を重視したことは、写本のリストを見ても窺われる(『前田惠學集』第三巻)」と記している。興然が単に戒律だけを輸入しようとした訳ではないことが知られる。
シャム国招待と釋王殿
そして、還暦を前にして興然は仏教国シャムに招待される。シャム国公使ピヤナリソンが、日本とシャムはともに仏教国であるから日本で最も立派な僧を招待したいと発願したところ、最も持戒堅固な清僧は三会寺の興然師であると白羽の矢が立てられた。
そして明治四十年十月、和田慶本を伴い船出し、シンガポールまでセイロン留学中の仁度、快祐を呼び戻し、四人でシャムに向かった。一年間各地で歓待されて翌年雨安居を終えて帰国。このとき各寺院より大小五十余体の金銅釈迦牟尼尊像ならびに皇室よりパーリ三蔵聖教全部などを下賜されている。
これらの仏像の開眼供養が行われたときには伯爵林董も横浜線特別列車に乗り、紋付き姿で駆けつけたという。それらの仏像は三ヶ月ほど公開された後、三会寺の末寺三十二ヶ寺にそれぞれ配置した。そして興然は、中でも一番立派な釈尊像を本尊にすえ、南方仏教僧団移植の本拠とすべく南方風の釋王殿建設を発願。インド旅行経験のある伊藤忠太博士に依頼した設計図は明治四十三年に出来ている。
この前年に雲照は亡くなり、その一年後興然は冒頭に紹介した『釋尊正風』を発行し、この釋王殿建築により自らの事業完成に向け意気揚々と決意を表した。そして、林董は、日露戦争後の難しい満州問題に苦しんだ外務大臣を免ぜられ閑職にあった同年八月に、「我が尊敬する釋興然師さきに遠く仏教の本源地たる印度に渡り、多年の修行以て真正仏教の源泉を汲て帰り今や偉大なる信念をもって釈尊正風会を起こしたり、(中略)余が誠意を以て賛同する所なり云々」(『雲照・興然遺墨集』二七九頁)と釈尊正風会名簿題辞に記している。
しかしながら、大檀那林董は、この三年後、第一次世界大戦勃発直前に他界。大きな後ろ盾を失い事業は暗礁に乗り上げ、寄付が十全に集まらないままに、大戦特需後の不況に関東大震災も追い打ちをかけた。
興然和上顕彰
そして、本志を遂げることなく、大正十三年(一九二四)三月十五日、釋興然グナラタナ比丘遷化享年七十六才。五七日忌に高楠順次郎が追悼文を寄せている。「正風会を起こして仏陀親伝の律風を宣揚し朝野貴紳の尊敬を博しパーリ三蔵の原語を直伝して学界の歎美をほしいままにす」と興然を讃じている。
興然は雲照とは違い柔和で、何事もなされるまま、なるがままを静かに受け入れる人であったという。どんな人の話でも黙って聞き、時折それはこういうことだなどと話す人であった。釈尊直伝の仏教をそのままに信念を貫いた誠に偉い人であった、パーリ語のお経はとても有り難かったと言われる。声がよく声明の才もあり、また誠に美しい梵字を書いた。常に黄色い大きな袈裟を纏いパーリ律を守り通し、檀家参りでも葬式でもパーリ語の三帰依文と簡単な経文を唱えられた。
明治時代中頃、欧化主義の風潮が強まり知識階層のキリスト教への傾斜と仏教への無関心が広まり、仏教は時流に取り残されていった。そこで、「すべて仏在世を本とす」「宗派の区別、浅深を論ずべからず」として、一宗一派に拘らず釈尊の仏教を復活させようとした慈雲尊者の教風を範とする動きがいくつかの宗派から出ている。
思うに、ともにこの慈雲尊者の精神を継承した二人ではあったが、叔父雲照が真言宗の枠からは出ても日本仏教にとどまったのに比べ、興然はそれさえも超えて、近代国家に相応しい世界基準の仏教を模索なされたのではないか。より純正な釈尊の教えによって、わが国に煌々たる仏教の光を蘇らせることを願われたのであろう。
釋興然和上をここに顕彰し、今を模索する仏教者の思索に資することを念じたい。合掌
いずれにせよ興然は南方仏教の比丘のまま三会寺に帰り着いた。この時、仏弟子大阿羅漢の舎利、貝多羅葉律蔵経論数巻、ビルマ三蔵パーリ聖教全部、出家三衣六物等数個、古画仏像数幅等を請来している。
そのひと月後十月十三日には真言宗長者宛に、セイロンより純粋なる具足戒を授かって帰国し如来正風の正規を実践修行するつもりであることを述べた『御届』を認めた上で、南方仏教の僧団を日本に移植すべく「釈尊正風会」を旗揚げした。
『釈尊正風会緒言』(明治二十六年十月十七日付)によれば、「釈迦牟尼の正嫡を継承して僧宝の欠乏を補い如来正風を拡張して蕩々たる弊風を救はん」と述べ、道心堅固なる者をセイロンに派遣し受戒具足せしめて日本僧宝の基礎となし、報恩謝徳のためインド仏蹟の復興を主たる事業としている。
会長には、興然がセイロンに留学する頃から関わりがあり、後に西園寺内閣の外務大臣となる林董が終生その任にあった。会員は当時第一級の知名人、学者、宗教者、地元農民を交え八百余名であった。
釈尊正風会は、受戒に要する五名の比丘僧団を組織すべく、第一期小島戒宝、第二期鳥家仁度、工藤敬愼、第三期向山亮雲、第四期吉松快祐ら各師がセイロンに派遣されていった。しかし興然ほどの一途な信念を貫くことの難しさからか、小島戒宝、向山亮雲は帰国後真言僧となり、工藤敬愼は語学に勝れ現地でセイロン語で説法までしたというが病に倒れてしまった。残るソービタ鳥家仁度、アーナンダ吉松快祐のみが比丘として留まった。
そうした中、興然は三会寺に真言宗中学林設立認可を申請したり、「三会寺法」という如来正風の律儀を根本にすえた律院としての規則を作り末寺に通達している。また印度仏教会と看板してパーリ語を教えたりしていた。
明治二十八年頃、後にチベットへ密入国を果たし貴重な経巻を多数もたらす河口慧海や禅を世界に宣布する鈴木大拙らも、三会寺でパーリ語やインド事情などを学んでいる。「当時三会寺はセイロン、インド、ビルマなどからの訪問客が多く、南アジア文化センターの観を呈していた」(『評伝河口慧海』奥山直司著)ようだ。
さらには近代印度哲学・仏教学の確立者である高楠順次郎博士や宗教学の創始者と言われる姉崎正治博士らもパーリ語について疑問があると学生を連れてよくやってきていたという(『雲照・興然遺墨集』三一二頁)。
ところで、昭和五十三年にパーリ文化研究会が三会寺のパーリ写本の調査をしている。日本では珍しくまとまったパーリ写本を拝観した会長の前田惠學教授は「興然師がスリランカでパーリ語の文法から学びはじめ、有名経典の多くやまた基本的な戒律から一部論蔵にまで研究が及んだことが分かる。特に戒律とサティパッターナの瞑想法を重視したことは、写本のリストを見ても窺われる(『前田惠學集』第三巻)」と記している。興然が単に戒律だけを輸入しようとした訳ではないことが知られる。
シャム国招待と釋王殿
そして、還暦を前にして興然は仏教国シャムに招待される。シャム国公使ピヤナリソンが、日本とシャムはともに仏教国であるから日本で最も立派な僧を招待したいと発願したところ、最も持戒堅固な清僧は三会寺の興然師であると白羽の矢が立てられた。
そして明治四十年十月、和田慶本を伴い船出し、シンガポールまでセイロン留学中の仁度、快祐を呼び戻し、四人でシャムに向かった。一年間各地で歓待されて翌年雨安居を終えて帰国。このとき各寺院より大小五十余体の金銅釈迦牟尼尊像ならびに皇室よりパーリ三蔵聖教全部などを下賜されている。
これらの仏像の開眼供養が行われたときには伯爵林董も横浜線特別列車に乗り、紋付き姿で駆けつけたという。それらの仏像は三ヶ月ほど公開された後、三会寺の末寺三十二ヶ寺にそれぞれ配置した。そして興然は、中でも一番立派な釈尊像を本尊にすえ、南方仏教僧団移植の本拠とすべく南方風の釋王殿建設を発願。インド旅行経験のある伊藤忠太博士に依頼した設計図は明治四十三年に出来ている。
この前年に雲照は亡くなり、その一年後興然は冒頭に紹介した『釋尊正風』を発行し、この釋王殿建築により自らの事業完成に向け意気揚々と決意を表した。そして、林董は、日露戦争後の難しい満州問題に苦しんだ外務大臣を免ぜられ閑職にあった同年八月に、「我が尊敬する釋興然師さきに遠く仏教の本源地たる印度に渡り、多年の修行以て真正仏教の源泉を汲て帰り今や偉大なる信念をもって釈尊正風会を起こしたり、(中略)余が誠意を以て賛同する所なり云々」(『雲照・興然遺墨集』二七九頁)と釈尊正風会名簿題辞に記している。
しかしながら、大檀那林董は、この三年後、第一次世界大戦勃発直前に他界。大きな後ろ盾を失い事業は暗礁に乗り上げ、寄付が十全に集まらないままに、大戦特需後の不況に関東大震災も追い打ちをかけた。
興然和上顕彰
そして、本志を遂げることなく、大正十三年(一九二四)三月十五日、釋興然グナラタナ比丘遷化享年七十六才。五七日忌に高楠順次郎が追悼文を寄せている。「正風会を起こして仏陀親伝の律風を宣揚し朝野貴紳の尊敬を博しパーリ三蔵の原語を直伝して学界の歎美をほしいままにす」と興然を讃じている。
興然は雲照とは違い柔和で、何事もなされるまま、なるがままを静かに受け入れる人であったという。どんな人の話でも黙って聞き、時折それはこういうことだなどと話す人であった。釈尊直伝の仏教をそのままに信念を貫いた誠に偉い人であった、パーリ語のお経はとても有り難かったと言われる。声がよく声明の才もあり、また誠に美しい梵字を書いた。常に黄色い大きな袈裟を纏いパーリ律を守り通し、檀家参りでも葬式でもパーリ語の三帰依文と簡単な経文を唱えられた。
明治時代中頃、欧化主義の風潮が強まり知識階層のキリスト教への傾斜と仏教への無関心が広まり、仏教は時流に取り残されていった。そこで、「すべて仏在世を本とす」「宗派の区別、浅深を論ずべからず」として、一宗一派に拘らず釈尊の仏教を復活させようとした慈雲尊者の教風を範とする動きがいくつかの宗派から出ている。
思うに、ともにこの慈雲尊者の精神を継承した二人ではあったが、叔父雲照が真言宗の枠からは出ても日本仏教にとどまったのに比べ、興然はそれさえも超えて、近代国家に相応しい世界基準の仏教を模索なされたのではないか。より純正な釈尊の教えによって、わが国に煌々たる仏教の光を蘇らせることを願われたのであろう。
釋興然和上をここに顕彰し、今を模索する仏教者の思索に資することを念じたい。合掌
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