ここ備後国・國分寺の本尊は薬師如来である。しかし、もともと國分寺には、丈六の釈迦如来が金堂におられたという。國分寺の詔に先立つこと4年、737年に諸国に釈迦仏と脇侍菩薩を作らせ、大般若経の書写を命じている。そして法華経の書写や七重塔の建設を求め、続いて國分寺制度の詔勅が発せられる。
ここ備後では、おそらく今国分寺跡とされて、昭和47年に教育委員会で発掘して、金堂跡、講堂跡、七重塔跡としている参道入り口付近に古くからのお寺があって、そこに急造で國分寺を再建したか、修築したのではないか。
そう考えなければ600尺四方の寺域から考えても余りにもせせこましすぎる。そう、岡山からお越しになった郷土史家の先生から教えられた。それまでは、昭和47年の発掘作業が結果を急ぎ、十分な発掘がなされなかったのではないか、本来もう少し離れた位置に各堂塔があったはずではと、地元の学芸員さんが言われていた。
ところで、そののちの時代に、飢饉や疫病が流行し、皇室での薬師如来信仰が盛んになった。そこで、國分寺の本尊も薬師如来を据えるようになったのではないかと言われている。もともと釈迦如来も薬師如来も、ほとんどわが国の造像はその姿に変わりはない。袈裟を纏い、右手は施無畏の勢いで外に向け、左手は、与願の印で膝の上に置かれている。その左の掌に薬壺を乗せているかどうか、それだけが違う。
國分寺の本堂の入り口には医王閣と書いた扁額がある。医王というと、もとはお釈迦様ご本人のことであった。誰が来てもその心の病を癒してしまわれた。またお説きになる説法は、誠に科学的に当時の医者の診断処方に則った説き方をされた。
まず、ありのままの様子をご覧になり、その原因をつかみ、本来の理想とする姿を知り、そこに至る道筋を語った。その誰彼となく癒すというお釈迦さまのお徳の一つをとって、薬師如来が生まれた。だから、釈迦と薬師は正に同体であるとも言えよう。
そして、ここから本題の来迎仏について述べようと思う。今ある元禄年間に再々建された國分寺の本堂内陣の東西の鴨居の上には、来迎二十五菩薩が祀られている。身の丈三十センチ弱。みな雲に乗っている。
来迎(らいごう)とは、信者の臨終に際して、浄土から迎えに来ることである。古くは都卒天から弥勒菩薩が迎えに来る弥勒来迎もあるが、ここでは、阿弥陀如来の西方極楽浄土から往生する信仰者を音楽歌舞をもって祝福守護するために使わされる二十五体の菩薩であるから、弥陀来迎のことである。
二十五菩薩に関しては、十往生阿弥陀仏国経にあるとされ、往生要集を著した源信に二十五菩薩和讃がある。蓮台、合掌、憧幡、鼓、琴、琵琶、繞、太鼓、笛、笙などをそれぞれの菩薩は手にしている。國分寺本堂が造られた際に造像され、一体一体施主の名前まで記録が残されている。
ここ薬師如来を本尊に祀る本堂内陣に、阿弥陀如来の極楽浄土から来るとされる来迎の菩薩たちが祀られているのはどうしてなのか。確かなことはわからない。しかし、平安後期に高野山金剛峯寺の座主となり、また根来寺に移って、新義真言宗の開祖となる覚鑁上人は、阿弥陀如来と大日如来の一体説を立てられている。
また、古来、釈迦如来と大日如来の同体説も真言宗にはある。大日如来は、お釈迦様の得られた悟りの真理そのものを身体とされた仏であるから。したがって、冒頭に述べたように薬師と釈迦は同体であるから、釈迦と大日、大日と阿弥陀と繋がり、薬師と阿弥陀がぐるりと縁があっても不思議ではない。
それよりもこの本堂が再建された頃、江戸時代にはかなり浄土信仰が民衆に受け入れられ盛んであったのであろう。元禄より少し後の人ではあるが阿波の懐圓という学僧は、真言宗の即身成仏と往生成仏との二重安心説を主張し、真言宗にも往生が可能であるとの説を立てて、浄土教に流れる人心を取り戻そうとしている。
おそらくそうした心理も働いて、広く備後圏内からの寄進をもって再建された國分寺本堂に据える仏として、当時の人々の最も切実な願いを叶える対象として、来迎二十五菩薩が祀られたのであろう。いつの時代も、寺院は、その時々の時代背景と人々の願いを形にしたものなのであろう。
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ここ備後では、おそらく今国分寺跡とされて、昭和47年に教育委員会で発掘して、金堂跡、講堂跡、七重塔跡としている参道入り口付近に古くからのお寺があって、そこに急造で國分寺を再建したか、修築したのではないか。
そう考えなければ600尺四方の寺域から考えても余りにもせせこましすぎる。そう、岡山からお越しになった郷土史家の先生から教えられた。それまでは、昭和47年の発掘作業が結果を急ぎ、十分な発掘がなされなかったのではないか、本来もう少し離れた位置に各堂塔があったはずではと、地元の学芸員さんが言われていた。
ところで、そののちの時代に、飢饉や疫病が流行し、皇室での薬師如来信仰が盛んになった。そこで、國分寺の本尊も薬師如来を据えるようになったのではないかと言われている。もともと釈迦如来も薬師如来も、ほとんどわが国の造像はその姿に変わりはない。袈裟を纏い、右手は施無畏の勢いで外に向け、左手は、与願の印で膝の上に置かれている。その左の掌に薬壺を乗せているかどうか、それだけが違う。
國分寺の本堂の入り口には医王閣と書いた扁額がある。医王というと、もとはお釈迦様ご本人のことであった。誰が来てもその心の病を癒してしまわれた。またお説きになる説法は、誠に科学的に当時の医者の診断処方に則った説き方をされた。
まず、ありのままの様子をご覧になり、その原因をつかみ、本来の理想とする姿を知り、そこに至る道筋を語った。その誰彼となく癒すというお釈迦さまのお徳の一つをとって、薬師如来が生まれた。だから、釈迦と薬師は正に同体であるとも言えよう。
そして、ここから本題の来迎仏について述べようと思う。今ある元禄年間に再々建された國分寺の本堂内陣の東西の鴨居の上には、来迎二十五菩薩が祀られている。身の丈三十センチ弱。みな雲に乗っている。
来迎(らいごう)とは、信者の臨終に際して、浄土から迎えに来ることである。古くは都卒天から弥勒菩薩が迎えに来る弥勒来迎もあるが、ここでは、阿弥陀如来の西方極楽浄土から往生する信仰者を音楽歌舞をもって祝福守護するために使わされる二十五体の菩薩であるから、弥陀来迎のことである。
二十五菩薩に関しては、十往生阿弥陀仏国経にあるとされ、往生要集を著した源信に二十五菩薩和讃がある。蓮台、合掌、憧幡、鼓、琴、琵琶、繞、太鼓、笛、笙などをそれぞれの菩薩は手にしている。國分寺本堂が造られた際に造像され、一体一体施主の名前まで記録が残されている。
ここ薬師如来を本尊に祀る本堂内陣に、阿弥陀如来の極楽浄土から来るとされる来迎の菩薩たちが祀られているのはどうしてなのか。確かなことはわからない。しかし、平安後期に高野山金剛峯寺の座主となり、また根来寺に移って、新義真言宗の開祖となる覚鑁上人は、阿弥陀如来と大日如来の一体説を立てられている。
また、古来、釈迦如来と大日如来の同体説も真言宗にはある。大日如来は、お釈迦様の得られた悟りの真理そのものを身体とされた仏であるから。したがって、冒頭に述べたように薬師と釈迦は同体であるから、釈迦と大日、大日と阿弥陀と繋がり、薬師と阿弥陀がぐるりと縁があっても不思議ではない。
それよりもこの本堂が再建された頃、江戸時代にはかなり浄土信仰が民衆に受け入れられ盛んであったのであろう。元禄より少し後の人ではあるが阿波の懐圓という学僧は、真言宗の即身成仏と往生成仏との二重安心説を主張し、真言宗にも往生が可能であるとの説を立てて、浄土教に流れる人心を取り戻そうとしている。
おそらくそうした心理も働いて、広く備後圏内からの寄進をもって再建された國分寺本堂に据える仏として、当時の人々の最も切実な願いを叶える対象として、来迎二十五菩薩が祀られたのであろう。いつの時代も、寺院は、その時々の時代背景と人々の願いを形にしたものなのであろう。
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