住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

なぜ仏さんの前でお経を唱えるのか?

2006年11月13日 09時38分11秒 | 仏教に関する様々なお話
昨日、法事があった。お経の後に少しお話をした。みんな、法事というとお経を聞くことだと思っている。だが、お経を聞いただけでは何にもならない。本当は、お経を聞いて学び、聞いたお経に多少なりとも心が静まり、ふだんと違う落ち着いた心、次元の違う心になっていただく。

また、自らもお唱えした在家勤行次第の声が周りの人たちにも伝わり教えが広まることによって、そうした功徳を故人に手向ける、回向するのが法事だと、毎回そんなことを、まず話す。

では、なぜ私たちは、仏さんの前でお経を唱えるのか。法事の席であれば、十三仏の掛け軸の前で。また、お寺に参れば、本堂や諸堂の本尊様の前などで礼拝文だけでなくお経を唱えるのはなぜなのであろうか。

仏さんは、私たちにその読むお経を授けて下さった方である。その仏さんにお経を唱えるとはどういう事かと考えねばいけない。どこへ行ってもお寺に参って本堂の前や中に入ってみんなお経を唱えるのだが、なぜわざわざ仏さんにお経を唱えるのか。

お経は仏さんの方がよっぽど良く知っている、意味も私たちが想像するより遙かにレベルの高い理解をされているであろう。それなのに私たちは仏さんの前でお経を唱える。なぜなのであろうか。

お経を唱えると仏さんが喜ばれるのじゃ、そんな声が聞こえてきそうな気もする。確かにそう、仏さんが喜ばれるのであろう。ではどうして喜ばれるのか。私たちがお経を唱えるとき、心落ち着かせて静かに唱えるとき日常の喧噪の中にあるときと違う心がそこにあるのではないか。

そうして、その唱えるお経によって心静まり、心落ち着き、心浄められることが本来の仏教の求めるものであるから、そのことに仏さんはお喜びになるのではないか。また、私たちが読書百遍意自ずから通ずというように少しでもお経の意味するところを解し、そのことによって物の見方考え方が改まるということもあろう。

また、唱えることでお経が伝わる。本来お経は文字に残されたわけでない。すべて師から弟子にと口づてに伝えられ暗唱されてきた。膨大な経典を部分部分で受け持って、500年ほどはすべて暗唱され伝承された。

つまり唱えることは仏教を後の世の人に伝え広めるという功徳があった。人々の幸せに繋がる教えを広め伝えるために唱えることは功徳があった。だからこそお経を唱えることを仏さんはお喜びになるということなのであろう。

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コメント (2)
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